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サンクチュアリ ~老いた父母に会う

「発達障害をもつ人は人口の数%いらっしゃいます」
と大学病院の医師は告げた。
私の心がけが悪いのではなくて、私の脳の働きが生まれつき鈍いのだと診断されたとき、私自身は「がんばりが足りない」という罪悪感からは解放された。けれど、母のほうは義務感から解放されることはなく、「教育」から「治療」に乗り換えただけだった。
高名な医師のいる病院を予約してまわり、テレビで新しい治療法が紹介されるたびに、実施している遠くの施設を検索して試そうとした。今までさんざん言われてきた、育て方がなってない、ちゃんとしつけてください、といった類いの「親のせい」が染みついてとれなかったんだろう。

そして、就職活動を続けようとする私と、まずは治療をこなそうとする母とは、どちらの日程を優先するかでたびたび言い争いになった。
「なにも焦ってつまらないところに就職しなくたって。来年の方が景気も回復するだろうし、その間にちゃんと治療を受ければ」
「薬だって、しばらく飲んでるうちに完治するってもんじゃなし。副作用が治まらないなら続けるのは難しいって言われたじゃない」
「うまく効く人もいるっていうのにねえ‥。でも、それならそれで、持病の一つくらいは努力と工夫でのり越えたっていうエピソードとして、アピールすれば‥」
「誰が何をのり越えたって? 来年は、今年残った子と新卒とで競争率はもっと上がるんだよ。持病なんかあったら、採ってもらえるわけないでしょ」

一年半以上かけて何十社も落ちつづけたあげく、私は就職サイトにあった派遣会社にやむなく登録し、独断で単身者用アパートをさがし、家を出た。私が一人暮らしを決めてしまったあとは、母はもうなにも反対せず、契約の保証人になることと引っ越し荷物を作ることを、だまって引き受けた。

そして、世話をする相手もなく、無駄に部屋の多い家に独りとり残された母は、まだ五十代半ばだったにもかかわらず急速に衰えていった。はじめは更年期の不調のあれこれを、電話口で私にも訴えていた。その後、しだいに様子がおかしくなり、還暦を前にしてすでに一人では置いておけない状態になってしまったようだ。
地区の民生委員から連絡があるまで、私たち父子はそのことに気づいていなかった。

老人ホームのこじんまりした庭では、園芸療法のブロッコリーや芽キャベツを鳥から守るために、数枚のCDがぶら下げられ、冬の穏やかな陽ざしにきらめいている。このラウンジの天井に虹色に分かたれてゆらめく光は、人生の終盤にふさわしい。
母にはこのスペクトルがどれくらい見えているのだろう。加齢性黄斑変性で視野が欠けてきたとき、母は心細そうに電話してきては、まるで私のようなことをあれこれ言いはじめた。

「ちゃんと探したはずの所に、後から見るとやっぱりあるのよね‥」
「診てもらってるお医者のいうにはね、視野に欠けた部分があると、デジタルカメラの修正みたいに、脳が背景の色で埋めて補うんだって」
「欠けてるなら欠けてると、黒抜きのままにしといてくれりゃいいのに。見えてないってわかるほうが親切だよね」
「柚香にいくらやらせてもできなかった訳が、自分が歳とって初めてわかったよ」
聞いたときは、ただ眼の老化だけの話だと思っていて、しっかり者の母がまさかこんなに早く物事がわからなくなるなんて、考えもしなかった。

今の母が覚えているのは、子ども時代の私だけだ。ホームに着いて、
「おはよう」
と母に声をかけても、職員と見わけられず、
「おはようございます」
とていねい語で返ってくる。
「柚香よ。あなたの娘だよ」
「え、あなたも私の娘?」
娘という言葉が刺激になって幼い私の姿が現れたのか、母は私の脇の低い空間と、私の顔をしげしげと見比べる。
「しまった、おんなじ名前を付けちゃった‥」

老人ホームの費用を算段するときには、父が単身赴任先から帰宅した。そして通帳の入った引きだしを開けてみると、母の貯金から年110万ずつ4年分が、私のお年玉用の通帳に移されていたとわかった。それは母の財産のほぼすべてだった。正職につけずに巣立った娘を、母は衰えてゆく脳で一人案じつづけていたのだ。

将来もう一人の相続人となる兄は、市の無料相談で司法書士に確認して、父に電話をよこした。
「たしかに年110万までなら贈与税はかからないけど、贈与契約書がなくて通帳も親が管理したままじゃ、生前贈与とは認められないってことだから」

とどのつまり、私のものではない440万円を名義人の私がおろし、母の通帳に戻して老人ホームの入居一時金に充てた。
もしも、母が今も大人の私を認識できたとしたら、親としての呪縛から解放されることがない。わからなくなったことは、人生の重荷からの救いでもあるのだろう。

「よお、もう来てたか。また引っ越すって」
ずっと単身赴任だった父は、還暦を迎えて自宅から通える短時間勤務に替わった。母とは入れ違いで今は自宅にいる。
「うん、今のとこからじゃ一時間半かかるから、自炊できなくなるし」
「次も派遣なのか」
母に聞かせまいとするのか、父は小声でたずねる。
「若者の半分は非正規雇用なんですよ。正社員はサービス残業きつくて、友だちでも続いてるのなんて実家にいる子だけ。終バス逃すたびに、駅まで親に車で迎えに来てもらってるんだから」

「今時はそれが普通なのか‥。おまえもうちに戻りゃ、家賃のぶん貯金できるだろうに」
「いや、いいよ」
「父さん、飯のレパートリーが十五以上できたんだぞ」
「いいですって」
「まあ、早くいい相手を見つけなさい。結婚して家に住んでくれるなら、お父さんはマンションに移ってもいいし。婚活っていうのか、近頃は職場での出会いが少ないようだから、積極的に動きなさいよ」

仕事一筋だった父は、女性が専業主婦でいられた時代の類型的な一生しか頭にない。
「まあ、つぎは若向けの男女服の量販店だから、男性もいるとは思うけどね」
「歳いくと産むのも育てるのもきつくなるぞ。障害児の発生率も高まるっていうし」
母は父に私の診断名をなんと説明していたのか、していなかったのか。父はそのことには触れない。
私のほうもいきなりさらけだして相談できるほど、父と私は生活を共にしてこなかった。思春期の敬遠とやらも必要ないほどに、私たちの仲は遠かった。そのぶん、母が全責任を引きうけたのだろう。今さら母を引き継いだつもりで、現実味のない話をされても、なんと応じればいいだろう。

私みたいに家事に難ありでなくたって、同窓生名簿に並ぶ姓はほとんど変化がない。
親しかった子と近況をメールでやり取りしても、「彼とは週末いっしょに過ごすだけで十分」と言う。まして出産なんて、同棲や結婚をしている友だちでさえ「どっちかがクビになったり別れたときに、即ゆきづまるもん」とためらっているのに。
共同生活をしている自分なんて、結婚して家族になるにしろ、他人とシェアして住むにしろ、想像しようとも思わない。

「じゃ、散歩に行ってきますので」
父がホームの職員に声をかけた。
「あら、今日はおそろいで。よし子さーん、今日は、娘さんとー、だんなさんとー、いっしょでいいわね!」
「はい」
職員は母の間近にしゃがんで、はっきりした声で一言ずつ話しかけてくれるけれど、母はにこにこ聞いているばかりで会話が続かない。

職員は私にも解説した。
「お父様は毎週火木土と『ご出勤』なさってましてね。雨の日でもここに傘を取り付けて、必ずお散歩してくださるんで、ご近所でも有名になってるんですよ。ね、よし子さん、ラブラブなのよね」
職員の示した車イスのパイプには、なるほど傘用の金具が付いている。
「いや、私のことは職員さんと勘ちがいしてるみたいなんですけどね。まあ、こっちの自己満足といいますか‥」
父が照れ隠しに言い訳をする。

「そうそう、お見せしたいものがあったんです」
職員はかけ足で行って戻ってくると、束にした画用紙を示した。
「ほら、この絵」
・・赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
使いかけのパレットのように、昔、母に教えられたとおりの虹の色が、おぼろげな形に溶けてそこにあった。何枚も何枚も。
「細かいとこはよく見えてらっしゃらないみたいで、今まで果物の写生とかはお描きにならなかったんですけどね。CDを下げてから天井の虹色が、よほどお気に召されたみたいで‥。これを描いてらっしゃるときは、とってもいいお顔なんですよ」

幼稚園で絵の才能を伸ばすよう勧められたものの、毎週テーマの決められた絵画教室を好きになれず、私は「忘れてた」といってさぼってばかりいた。そこで母は、家で描く時間をもたせるという作戦にでた。
母は、私の気にいった物語で誘うことを思いつき、ふたりで大きな模造紙に壁画のような共同制作をしたり、オリジナルの続編を絵巻物じたてにしたりした。
さまざまな画題や画材が組み込まれていたところをみると、母は教育の一環のつもりで始めたはずだ。けれども、母がめいっぱい遊んでくれるその時間が、私はこのうえなく好きだった。

母は今、子どもだった私と戯れているのか。ひょっとして、虹の七色をブリキ人形や案山子の周りに二人して塗りわけることは、母自身にとっても心安らげるひとときだったのだろうか。
私たち母子に迫りくる進路という圧力から、母は母なりに、娘のお絵かきを守ろうとしていたのかもしれない‥

「なんでも、虹色って五、六色だと思っている国も多いらしいですよ。お母様はまだ、七色わかってらっしゃるんですねえ」
職員が自分の話をしているとわかっているのか、いないのか、母は横ですましているばかりだ。

「お気をつけて、いってらっしゃい」
職員に見送られて、私たちはホームを出た。父が車イスを押しながら、新年の住宅街を言葉少なに歩く。
母は、いよいよ頭が働かなくなってくると、体を動かすことも減り、数年で足腰がなえて、室内では歩行器、屋外では車イスがいるようになってしまった。父のほうが年上なのに、背の曲がった母のほうがずっと老けていて、夫婦には見えない。

母はすれ違う人ごとに、
「おはようございます」
と声をかける。冬の道を足早に行きすぎる人々から、返事はほとんど返ってこない。
「今の知ってる人?」
「いや。何回もすれ違ううちに、覚えてくれた人もあるけどな」
母は人づきあいの最低の礼を失っしないようにと、一所懸命なのだろう。

「母さんは早くにホームに入って、ある意味よかったよ。父さんの頃にはよほどの蓄えがないと、入れる施設があるかどうか。柚香の会社は厚生年金あるのか」
「一応あるけど・・もらえる年齢が逃げ水みたいに遠のいてくし、私らは払ったぶん返ってくるのやら」
「ふうむ。若者からすると、いま年金もらってる世代は食い逃げのようにみえるかもしれんけどもな。若い頃には、文字通り食うや食わずで逃げまどって、生き残った人たちなんだよ。一生安泰だった世代なんてないんだから、まあ、くさらずにやっていくしかないさ」

人生の終い方を話す父の笑い皺が、日射しにくっきりと浮かびあがり、いやに年寄りくさく見える。私はまだ、これから始めなければならないというのに、かみ合わない話を続けるのが面倒になる。

「こないだの大噴火の火山灰、おとついの雨でコンクリートみたいになっちゃったらしいね。屋根や家の前が固まっちゃって‥正月早々、気の毒にねえ」
「もしこれが都市部だったら、電波障害で通信はとまる、航空機はとまる、電車はとまる。経済への打撃はこれぐらいじゃ済まないだろうね」

私たち父子のあいだには、結局そんな他人事の話題しか残らない。父は建築士として日本列島の各地に立派な建造物を残すのに忙しく、自分の家庭を築く暇をもたなかった。
父は今やっと、再就職先として母の存在を発見したのだ。ご出勤でもなんでもこうして面倒を見てくれているなら、父自身が老いるまでは夫婦にまかせておこうと思う。
「じゃ、私はここで。引っ越しの準備もあるから」
「なんだ、昼飯ぐらいいっしょに食わんのか」
「明日は仕事だし、今日中に済ましておきたいこともあるから」

駅への分かれ道で背を向けて歩きだそうとすると、柚香、と父が後ろから呼びとめた。ふり返ると、
「男は顔じゃないからな」
私はぽかんとして、すぐには言葉を返せなかった。それって、第一線で部下を育ててきた者が念を押す台詞にしては、あまりに可愛らしすぎないか。
‥けど、別の意味で痛いところを突いてくれてもいるじゃない。私はちょっとはぐらかしてやりたくなった。
「わかってる。だって、私の元カレ、福笑いみたいな顔だったもん」

「それはまた‥」
父はその先を続けられずにいる。小杉君の顔をどんなふうに想像しているのか考えたら、おかしくなってふきだしてしまった。
「なんだ、冗談なのか」
「でも、いい人だったんだよ」
口に出したとたん、オセロの黒コマの最初の一枚が裏返った。
‥もしかして、ふられたのは私が変だったからではなく、変であることを何ひとつ打ちあけようとしなかったからなのか。

小杉君は心が狭いほうだったわけではない。本人も都会のスピード感にはなじめないとこぼすこともあった。私の数々のドジに、もう!とか、おまえなあ‥とか言いながらも付き合ってくれてた。
訳のわからないままで、これ以上やってられないと見切りをつけられてしまうまえに、96%の暗黒の海について、折りにふれ打ち明けていたとしたら、どうだったんだろう。

結末A:一般人には理解できず、よけいに敬遠される。
結末B:度量のある一般人なら、それなりの理解をしてくれる。
どっちに転ぶは相手次第、賭に出るのはこわくもある。けど、手をこまねいているかぎり結末Bはやってこない、絶対に。それなら、もし隠しきれない仲になれたとしたら、今度は小出しに打ち明けてみる?

「じゃ、どんな男がいいんだ」
そう、外づきあいでの見せかけだけじゃなく、家のなかでも柔軟な男の見ぬき方なら、私も知りたいけどね。私なんかでも共に暮らせるとしたら‥
「最低限、家事を分担してくれる人ね。家庭を居心地よくするのが妻だけの役目だと思ってる人は、ぜったい無理ですから」
言ってみて自分で驚いた。特殊事情のつもりで言ったはずなのに、あまりにも普通で真っ当な条件じゃないか。おもわず父の顔を見た。

「まあ、今はそういうもんなんだろうがねえ。‥そんな時間があればな」
「女性にはあるの?」
「んー‥女までそんなことを言ってるようじゃあ、お先真っ暗だなあ」
「それって、あなたの孫の話ですか、日本の未来の話ですか」

父に責任のないことでまでからみたくなるのは、母が父に向かって自分ではもう思いの丈を話せなくなってしまった、と思うからだ。‥でも、それは私には関係のないことなんだよね。
父はなにか続けたそうだったし、私もまだ気持ちがくすぶっていたが、どちらも言わずに済ませた。
私たちが言い争ってもしかたない。私の仕事は私自身の人生設計だ。不公平でも理不尽でも寿命の尽きるまでは、なんとか生き延びなくちゃ。

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