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 和泉川の病室を訪れた学友たちは、部屋の隅にいる『それ』を目にした途端、驚きの声をあげた。
「ゾンビ?!」
 十数年前、宇宙から飛来した隕石についていた特殊なウイルスは生物のありとあらゆる生命機能を不活性化させ、ゾンビに変えてしまうものだった。
もっとも、人類の約半数を失うパンデミックの最中にこのウイルスに対する血清が作られてからは、すでにゾンビ症はよくある病の一つとして治療可能なものとなっており、初期段階での投薬が行われれば後遺症が残ることもない。
 しかし、この病室にいる『それ』はすでに末期症状なのか顔色も死人のように青ざめ、自我を失って低い呻き声を上げ、両手を垂らしてゆらゆらと体を揺する完全なるゾンビだった。
 友人が悲鳴を上げて部屋の入り口まで逃げると、ベッドに座っていたこの病室の主が笑う。
「おいおい、ここは病院だぞ、ゾンビ症患者なんか珍しくもないだろう?」
「いや、ここまでゾンビ化しているのは流石に……やばいんじゃないか?」
「やばくなんかないさ。紹介しよう、こちら、俺の彼女の宝田マリアさん、ご覧の通りの病で、ここに入院中だ」
 和泉川が手招きすると、彼女は低い声で呻き、足を引きずりながらゆっくりとベットサイドに歩み寄る。
「おいで、マリア」
 甘い声で呼ぶ彼に応えて、彼女はゆっくりと手を差し出す。
「あ゛~」
 可愛い恋人の手をつかもうとする彼の手を、彼女は……ガッと音がするほどの勢いで捉えた。そのまま口を大きく開けて、彼をさらに引き寄せる。
「ま゛~」
 病室の中は騒然となった。
「はっはっは、マリアの愛情表現は激しいなあ」
「いや、笑い事じゃないよね! 完全に食われかけてるよね?」
「ど、どうすれば……あたま! 頭を飛ばせば?」
「やめてくれよ、こんなんでも俺の可愛い彼女なんだし、さ」
 和泉川は枕元に手を伸ばし、そこに置かれていたタッパーを引き寄せた。
「ほら、マリア、君の大好きな生肉だ。おまけに常温で二日間熟成したもの、程よく腐れてデンジャラスな異臭を放っているよ、美味しそうだね~」
 マリアはタッパーを彼から奪い取り、蓋を開けた。室内に鼻を塞ぎたくなるような悪臭が解き放たれる。
「うわっ」
 病室のドアの外まで逃げ出す友人たちを尻目に、マリアはタッパーからつかみ出した生肉を貪り食った。その横で彼女を見守る和泉川は、まるで菩薩のように穏やかな顔だ。
「ああ、マリア、本当に美味しそうに食べるね、可愛いよ」
 友人たちはドアの陰に身を潜めながらも声をあげた。
「和泉川、しっかりしろ、それはゾンビだぞ!」
「なあ、危ないって、そこまでゾンビ化してたら無理だって!」
「和泉川くん、病気で辛いなら、ちゃんとした人間の女の子紹介してあげるから!」
 そんな声に冷たい視線を投げて、和泉川は声さえも冷たく凍りつくように低めて言い放った。
「ふん、偽善者が」
「な、なんでだよ」
「みんな、俺の病気がどんなものか知ってるんだろ?」
 友人たちの表情があからさまにひきつる。
「そ、そんなことないよ、なあ」
「そ、そうそう、あまりに長く学校を休んでいるから、どうしているかな、って見舞いに来ただけだよ」
 和泉川はニンマリと意地の悪い笑いを浮かべた。
「うそうけ、どうせ母さんが君たちのところに頼みに行ったんだろ、『もうあの子は長くないの、最後のお願いだと思って、聞いてやって』って」
 その言葉の後、誰もが無言だった。
 マリアが肉を食む音だけが静かな室内にうるさいほど響く。
--ニッチャニッチャ、ネッチャネッチャ
 和泉川はベッドを下りて、座り込んでタッパーの中身を引きずり出すマリアの頭を撫でてやる。
「俺にはマリアがいるから……君たちなんかもういらない。帰れよ」
 生肉を満たした口腔をねっちゃりと開いて、マリアがその口調を真似る。
「……も……イラナイ……カエレヨ」
 「帰らないと、マリアの餌にするぞ」
 友人たちはあおざめ、我先にと逃げ出した。
 バタバタと廊下を遠ざかってゆく足音を聞きながら、和泉川は「は!」と小さく笑う。
「ざまあ」
 マリアは相変わらず、グッチャグッチャと汚らしい音を立てて腐肉をすすっている。
「マリア、最期の時には、君だけがいてくれればいい」
 和泉川はゾンビの頭を優しく撫でた。腐敗し始めて膨れ上がった頭皮からごそっと抜けた毛が指の間に絡まったが、そんなことは気にならなかった。
「マリア、少しデートしようか、今日は体調がいいんだ」
 和泉川がスリッパに足を通すと、マリアはゆらりと立ち上がる。
「う゛~」
「遠くに行こうってわけじゃない、中庭まで陽を浴びに行くだけさ」
 スタスタと歩く和泉川の後を、ゆらりゆらりと揺れながらマリアが歩く。
 このカップル、すでに院内では知らぬ人のいないほど有名なのだから、ナースステーションでも行き先を簡単に聞かれただけであった。
 さらに、一階の売店に寄ればレジのおばちゃんが声をかけてくる。
「あら、またデートなの?」
「はい。っても、中庭でお茶を飲むだけですけどね」
「いいじゃないの、デートなんて、二人で一緒にいることが大事なんだから」
「そうですね。あ、マリアが食べるようなもの、何かありますかね」
「そこの棚にゾンビ症用の療養食、仕入れておいたわよ」
「なんか、マリアのために、すいませんね」
「いいのよー、おばちゃん、二人の恋を応援してるんだから」
 言い知れぬ暗い気持ちがむくりと心の奥で動いたが、和泉川はそれを飲み込んで愛想笑いを浮かべた。
 その代わり、中庭のベンチに座って、揺れながら隣に立つマリアに愚痴を聞かせる。
「うそだね、俺たちの恋を応援なんて。単に死にかけている人間に優しくする自分が好きなだけじゃないか」
「ま゛~」
「わかってるよ、それだって優しさの一つの形ではある。見舞いに来たあいつらだってそう、優しい気持ちに嘘はないだろうさ」
「うう~」
「そうだな、優しくされるのが辛い。むしろ放っておいてほしいってのは俺のワガママだよな。それでも、他人の優しさってのがマジ辛い……憐れまれてるみたいで、辛いんだ」
「うま゛~」
 合いの手のように返される唸り声に意味などないことはよく知っている。すでに脳髄までウイルスに蝕まれたマリアに思考能力は無い。
「だからさ、マリア、君といると心地よい。君は俺に優しく無いし、俺を憐れんだりもしないからね」
「あ゛~」
 虚ろに中空を見上げ、呻き声をあげるマリアを見上げて、和泉川は微笑む。
 死に向かって荒みそうになる自分の心を慰めるために彼女を利用しているに過ぎないことは、よく理解もしている。彼女は自らの意思を失って本能のみで動くただの肉人形だ、だからこそ無意味な行動に勝手な妄想を重ねても罪悪感を感じずに済む。
「ん゛あ゛~」
「そうかそうか、君も俺が好きか。俺もだよ、愛してるよ、マリア」
 食欲に任せて和泉川めがけて伸ばされた手に指を絡め、彼は愛する恋人にするように優しく囁いた。
「マリア、俺には君だけがいればいい」
 こんなのはただの恋愛ごっこだ、そこに真実の愛などあるわけがない。
 しかし、死に向かって行く自分にはこのくらいの恋がちょうど良いと和泉川はおもっている。
 意思のない彼女なら、自分が死んでも泣くこともないだろう。何かの愛された証を欲しがるわけでもない。ただ、最期の瞬間に一人きりで居なくて済むように手元に置いている都合のいい肉人形……
「ひどい男だな、俺は」
 自分がこのゾンビを愛している理由はそれだけなのだと、和泉川は本気で思っていた。
この時までは……

 彼の容体が急変したのは、真夜中のことだった。
 連絡を受けた両親が病室に駆けつけた時には、彼はすでに延命用のチューブや電極に繋がれて意識さえ失っているように見えた。
 だから、その枕元で医者と会話するなどという愚を犯したのだろう。
「あの、息子は、もう……」
「ええ、こうなってしまっては、回復は見込めないでしょうね」
「そうですか……」
 長い長いため息の後、父親は医師に向かってポツリとこぼした。
「息子もきっと、ホッとしていると思います」
「そうてすね」
「息子は長く病と闘ってきた、苦しい思いをして、その苦しみからやっと解放されるんですからね、あの表情をご覧なさい、あんなに安らかな顔……」
 後は嗚咽ばかりが室内に響く。
 和泉川は最期の苦痛で動かせない体の中で、ただ心の中だけで絶叫していた。
『嘘つき! 偽善者!』
 彼はそんな安らかな気持ちではない。呼吸すらもわざとらしく肺が膨らむほどの空気を流し込まれ、生かされているという苦痛の中でさえ、死の恐怖に抗おうと足掻いているのだから。
 父親の言葉は『息子の最期が安らかであってほしい』という優しい気持ちから出たものであるだろうが、なんの真実も含まない、遺される者の単なる願望だ。
『そうか、俺もこれ、やったわ、マリアに』
 この時初めて、和泉川はマリアとの日々を後悔していた。
 何も意思のない、単なる肉人形に自分の願望ばかりを押し付けて恋人に仕立て上げた。まるで自分の言葉を聞いてくれるようなうめき声に妄想を重ね、自分の言葉ばかりを聞かせてきた。
 あのゾンビに、最期にたったひとことでいい、本当の気持ちを伝えたいと思うのは、これも身勝手すぎるだろうか。
 耳元には両親と医者の声ばかりが聞こえる。
「あの、ゾンビの子は、今日はいないんですか」
「ああ、さすがに病室に帰しました。なにしろ、こんな事態ですからね」
「そうですね、どうせあの子は何もわからずに息子について歩いていただけですからね」
「それに、ここまで息子さんが弱っていると、食べられてしまう可能性もありますから」
「まあ、仕方ない。息子も自分の恋人に食われて死ぬなんて嫌でしょうから」
「とりあえず、状態の落ち着いている今のうちに、いろいろお話ししておくことがあります、どうぞこちらへ」
 ドアの音がした後で、室内はひどく静かになった。ただ、生命維持装置の稼働する音が多重奏となって、死送の曲を奏でているばかりだ。
『ああ、マリア』
 途切れ行く意識の中、ドアが開き、誰かが入ってくるのを感じた。
 マリアだろうか……いや、それはない。自分の意思を持たぬ彼女が医師の指示を無視して歩き回るなど考えられない。
 それに、仮に部屋を抜け出したとしても、この部屋へ来る理由がない。
 それでも死に行く和泉川は、その誰かがマリアであることを祈った。
『……会いにきてくれたんだね、俺に』
 低いうなり声が聞こえたような気がする。
『マリア、感謝している。君のおかげで寂しくも、悲しくもなかった。君が絶対に最期までそばにいてくれることがわかっていたから、最期まで人間らしく生きていくことができた。ありがとう……マリア』
 すでに意識の大半は暗い無意識の底に沈もうとしている。呼吸を失った胸が重い。
『マリア、君がくれた日々に、俺は何も返してやれない。だからせめて、俺が死んだ後……この体は君に食われてしまえばいいと思ってるよ』
  和泉川は、最期の思考の中で、静かに呟いた。
『愛してるよ、マリア、本当に……』
 低いうめき声とともに誰かの手が首を無遠慮に掴んだような気がしたが、もはや和泉川にはなんの思考も残っては……いなかった。



 

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