5.悪の道
いくら最上級に位置する悪魔と言えど、頭部を失ってしまえば、もうどうしようもならない。
《悪魔》の巨体は、地響きを立てながら地に墜ちた。
それは複数で襲来し、しかも下級の悪魔を引きつれて来る事が多い。今回のように、単体で現れた事は不幸中の幸いだった。
もしこれが複数いたとすれば、“審理者”を叩くどころか、この迷宮からの撤退を余儀なくされていたところだろう。
――被害が
「――ぐっ……くそったれ……」
《悪魔》に掻かれたカートは、激痛と悪寒に似た寒気にうずくまり、歯を食いしばってそれに耐えている。
血液が固まらないような、毒も含まれているのだろう。ぱっくりと口を開いた傷からは、とめどなく血が流れ続け、抑えている指の合間から溢れ出していた。
「ど、どうしてアンタは――ば、ばかッ!」
「あ? まずは、ありがとう、だろうが……。
それに、お前の“クスリ”を信用してなきゃ、こんなこと……イツツッ……」
「え――」
実の所、身体が勝手に動いていたため、カート自身もどうしてローズを庇ったのか良く分かっていない。
ローズの製薬の腕を信用しているのは事実だ。もしサポート役が欠ければ、傷の手当をする者から、与える影響の大きさから判断した結果である――が、それは行動の後の思考、後付けに過ぎなかった。
「その……あ、ありが、とう……」
「ったく、シェイラのことを笑えねェぐらい、鈍くせェなお前も――」
「うっ、うっさいわねっ! 人には向き・不向きがあんのよっ!」
「へへッ、まぁ薬の腕だけは認めてやんよ……。
毒と痺れは抜けてきたが、まだ身体が重てェな……分量ちゃんと合ってんのか?」
「合ってるに決まってる、って言いたいけど……
アタシとしても、あの《悪魔》の毒は分からないわよ。
会った奴はほぼ全滅してるし、《悪魔》の死体も残らないしさ……」
ローズはその《悪魔》が
死した悪魔の
首をハネ落とされた《悪魔》も同様に、スゥ……闇の中に還り、どこかに所持していた金貨と“宝箱”を遺しているだけであった。
研究者によっては『迷宮の悪魔には“死”と言うものがない。冥界で傷を癒しながら、次なる報復の機会をうかがっている』と唱える者もいる。
会った奴はほぼ全滅――ローズの言葉を聞いたシェイラは、どこか納得した表情を浮かべた。
(こんな硬い鎧でも、バターみたいに切れるんだよね……)
鎧に残された傷痕が、それを物語っている。
改めて、“凍てつく恐怖と絶望をもたらす存在”に、ぶるり……と身体を震わせてしまう。
掠っただけで金属鎧が口を開くほどの鋭爪が、カートの左肩を切った――。気休め程度の皮鎧と言えど、その肩当部分のおかげで致命傷には至らず、傷薬を塗り込んだだけでその血は止まっているようだ。
「宝箱はどうする?」
「上級悪魔が落としてったやつだぞ? 開けるに決まってんだろうがよ」
「そんな身体だ、無茶はするな」
「わーってるよ」
己の“欲”のために、パーティーを危険に晒すマネをするような男ではない。
あくまで目的は別にあるため、“可能性”が高い方を選択するのがカートと言う男なのである。
フラつきが残る足で宝箱と向かい合い、ルクリークの迷宮の時のように箱の口を僅かに開く――。
まだ毒の余韻が残っているのか、その手には薄い手袋を装着しているようであった。
じっくり観察していたカートであったが、次第にその顔が険しく、眉間にシワを寄せ始めた。
「これは……今の状態でやるモノじゃねェな……」
「厄介な罠か?」
「俺にとっちゃ、厄介なだぜ……体調が万全であっても、七十パー……いや、下手すりゃ五十近いかもな」
「アンタ、まさかそれって――」
カートが唯一苦手にしている罠であり、ローズにも心当たりがあった。
ただでさえ解除成功率が低いのに、先ほどの《悪魔》の毒や麻痺が完全に抜け切っていないような身体である。
それに挑むにはリスクが高すぎると判断し、解除を諦めて立ち去ろうとした時――
「チッ――また新手か」
“間”の
また同じ《悪魔》であれば、撤退するしかない――と思っていたベルグであったが、悪魔族にしては何やら妙な気配を感じ取っていた。
(悪魔……ではない? これは――)
カチャリ、カチャリ……と音を立て、ゆっくりと歩み寄って来る存在。
この迷宮にて、該当するのは一人――いや、一体しかいない。
「――陰でほくそ笑む者、がお出ましのようだ」
ベルグ達はここに“実地訓練”をしに来たわけではない。
“間”の奥、深く淀んだ闇より出づる、鉛色の甲冑――全ての元凶であり、長くシェイラを苦しめて来た“組織”の元締めを、“裁きを下す者”の名を穢した者を罰しに来たようだ。
(これが……デュラハン?)
その元凶と初めて対面したシェイラは、その異様ないでたちに思わず息を呑んだ。
伝説上のそれは、己の頭部を小脇に抱える姿で描かれる事が多い。
だが、目の前の“同業者”にとっては、頭部よりも“タブレット”の方が大事なのか、メダルはめ込んだそれを、胸元でガッチリと抱えている。
「“ワルツ”も、
元から “頭”がない組織だったか、とベルグは鼻で笑った。
「一応尋ねるが、貴様が“審理者”、か――」
「……」
《デュラハン》は答えず、カチャ……と、足元で剣の刃を輝かせた。
死したる身体ではあるが、アンデッドのような呪われた身でもない。
命を失った“器”に、迷宮の瘴気と悪魔の力を流し込んだようなそれに、とベルグはどう倒したものかと思案している。
今一度、“断罪”として首をハネ落としてやりたいが……その頭部もない。
鎧ごとぶち壊して、二度と動き回れぬようにしてやろうか、と思った時、
『“断罪者”は、相変わらずベラベラと五月蠅い奴よ――』
と、
ブンッ忌々しげに剣を振り払う姿に、ローズやカートは『確かに』と心の中で頷いた。
『ベルグ・スリーライン・ミュート――
この私……〔ランバー・コーヴァス〕が、“断罪”の力を持って貴様を裁こう』
その言葉と共に、“ウルフバスター”の時と同じように、“断罪”の力がその鎧の身体に満ちてゆく。
ベルグの“断罪”の力が白色だとすれば、目の前の“審理者”のそれは、薄汚れた白色である。
“断罪”の力はもちろんであるが、かつての友だった者の魂までも悪用するそれに、ベルグは許せなかった。
「シェイラ――頼んだぞ」
「うん――ッ」
シェイラはこれまでとは違い、力強く頷いた。
“天秤”を掲げたシェイラは、片方の皿に“裁断のメダル”を乗せ――
「ランバー・コーヴァス……貴方の身勝手な行いによって、多くの人を苦しめたことは決して……決して許せません。
“裁断者”――シェイラ・トラルの名において、貴方に死罪を言い渡します!」
罪を告げる言葉と共に、何も乗せられていない方の皿が、カタン……と音を立てた。
それと同時に、横にいた“断罪者”……“守護者”……“夫”……そして、“弟”の目が真っ赤に染まり、獣の、狼の咆哮をあげ、これ以上とない獣の雄叫びと共に“審理者”に突っ込んだ――。
『来い――ッ!!』
「オオォォォォォォッ――!!」
迎え撃たんとする“審理者”の剣と、罰を下そうとする“断罪者”の斧――。
双方がぶつかり合い、ガチンッ――と、凄まじい金属音と火花を放った。
僅かながらに“審理者”が勢いに負け、怯みを見せた。しかし、すぐに体勢を立て直し、絶え間なく斬りつけにくる斧を
赤い血が垂れ落ちるそれに、シェイラとレオノーラは、ハッ息を呑んだ。
ベルグも驚いた顔を隠せずにいたが、これに最も驚いたのは、“審理者”本人だった。
『素晴らしい――この力、この力こそ俺に最も相応しい物よッ!』
その時、シェイラはふと『何かがおかしい』事に気づいた。
上手くは言えないが、“弟”の使う純粋なそれはとは違い、“審理者”の力に“違和感”があると。
それは闇の力などではなく、“不純物”のような別の“混ざり物”が、本来の力を不安定にしている――と。
『“天秤”を選んだアイツは、最初からこれを知っていたのだッ!!
俺に負けたくないから、こんな“石盤”を俺に押し付け、力を我が物にしたのだ!』
しかし、“審理者”はそれに気づいていない。
力に飲まれつつあるのか、狂気を剥き出しにした“審理者”はベルグに斬りかかった。
縦に、横に振られた剣の太刀筋は鋭く、早い――防ぐのが精一杯のベルグの身体に傷が増え、遂に片膝をついてしまう。
その身体や腕には赤い筋を数本浮かばせ、そこから、つっと血が滴り落ちている。
「スリーラインッ――」
「ベルグ殿ッ――」
“夫”のその姿に、レオノーラは間に立ち剣を構え、立ち塞がった。
“守護者”であるのに、大切なもの護れない歯がゆさ――“夫”に下がれと言われても、こればかりは聞き入れず、彼女はその場にとどまっている。
お前たちが傷を負い、最悪のケースなぞ見たくない――と、決して手を出さぬよう言われていたが、“妻”からすれば、一方的に“夫”が傷つく姿を見せられる方が酷であった。
ベルグは決して、“審理者”に太刀打ち出来ぬわけではない。
“タブレット”はその者が歩んできた“道”を表示し、“裁断”の判断に使うだけの物――それを無理やり“天秤”の代わりにし、“断罪者”の魂を利用して力を得ている。
シェイラと同様、“断罪の力”ではない別の何かによって、力を100%引き出せていないと感じている。そのせいか、異常な負荷がかかっている事を知ったベルグは、
――これ以上の力を引き出させてはならない
と、直感していたのだ。
だが、“審理者”にとって、そんな事は知った事ではない。繋がりが失わる事も、破損も厭わない構えを見せる。
彼にとっては、己の欲・“使命”が達成できればそれで良いのである。
『エルマ、エルマもこの力があれば……ッ!
この力があれば、彼女は賞賛を――ああそうだ、この力を持っていたから、アイツに惚れたのだッ!
この俺ではなく、あの忌々しいアイツにッ! このような“石板”ではなく、あの“天秤”を――ッ!!』
彼は、“裁断者”となった〔エルマ・フィール〕に惚れていた。
“裁きを下す者”の三人がバラバラになった原因は、この“審理者”の嫉妬と愛憎なのだ……と。
次第にそれが羨望と嫉妬、歪んだ愛情を生み出し、全ての輪を乱した――。
全てを確信したシェイラは、心の奥にフツフツと沸き上がるものを感じていた。
「――貴方みたいな人を……選ぶとは思えません」
『何――?』
シェイラが発した言葉を受け、“審理者”は身を返してそちらを向いた。
「……例え力を持っていても、“裁断者”は、貴方みたいな人を選ばないと言ったんですッ!!」
シェイラは生まれて初めて、感情のまま声をあげた。
あまりに自己中心的な理由――我が身を犠牲にする事になった、“先代”の気持ちに何一つ気づいていない、無神経な男が許せなかった。
堰を切ってしまった彼女の怒りはもう抑えきれない。
『お前如きに、エルマの何が分かるッ!!』
「同じ“裁断者”であり、“女”だから分かるんです!
貴方は彼女の事も、“使命”についても……何一つ理解していない。
ただ自分勝手な感情を一方的に押し付け、その見返りを求めていただけに過ぎませんッ!
“断罪”の力すらも、都合の良い力だとはき違えている貴方に、男としても、“裁きを下す者”の資格なんてないんです!」
“審理者”としても、男としてもその“器”ではない――。
誰の目で見ても、“審理者”の身体に怒りが満ちてゆくのが分かった。
その怒りのせいか、背後に立った悪党の存在にも気づいていない。
「――元々は“審理者”なんて者は無ェ。
つまりテメェは、“役目”にも、パーティーにも必要のないお荷物だってことよ」
“審理者”の心の奥底にあった“不安”を、カートがえぐり出す。
最も理解しようとしなかった言葉であり、それゆえに誤った選択を選んだ“審理者”の怒りが、頂点にまで達したようだ。
『カート・スキナー――!! 貴様は、貴様だけはッ――!!』
「おー、おー、気が短けェこって。そんなんじゃ、女に愛想つかされっぞ」
“断罪”の力で罰してやる――と言わんばかりに、“タブレット”を掲げた。
その姿は、もはや“裁きを下す者”などではなく、力を手に入れた幼稚な子供そのものである。
……しかし、“審理者”のその目論みは外れてしまう。
『――な、何故だ……何故……何故、力が出ないッ』
思わぬ事態に、動揺を隠せずにいた。
“
その様子を見たシェイラに、かつて己が罪を犯した時に聞いた、“間”の声が頭をよぎった。
――あれは気まぐれなのでな
あの時の“声”は、本当はとんでもない事を話していたのかもしれない。
あれは“弟”・ベルグの事ではないとしたら……どこか背中に冷たい物を感じてしまっていた。
そのベルグも、初めてカートに会った時の事を思い出していた。
「……そうか、カートは」
カートは幼い頃に見た法典――己自身の正義・“悪の道”に準じているのだ。
入学して間もない頃、人を殺めた罪に問えなかったのは、そのせいなのである。
“断罪”の裁量は、一般的な法に則り、それに違反した者に対して発揮されるのだが、カートは“悪の法”に則って行動しているため、それが発揮できない。
“断罪者”とて、“裁断者”とて罪を犯し“悪”とある時がある――それを“裁く”ための、力の抑止が、“タブレット”の力なのである。
「へッ――今日こそ悪人で良かった、と思った事はねェな」
“審理者”には、理解しがたい事が二つ起っている。
一つは、絶対的な“断罪”の力が失われた事――そもそも、“断罪者”の力は知っていても、そのルールについても全く知らないのだ。
ただ横で見ていて、その強大な力が羨ましい……としか見ていなかった。
『――貴様程度、力がなくともッ』
“審理者”はカートに向かって駆け、剣を振りかざした。
その太刀筋は鋭いものの、先ほどと比べればあまりに遅い。
袈裟切りに振られたそれは、さっと回り込まれて躱される。
下から斬り上げても、身を少し屈められただけで躱され、そのまま振り下ろせば短刀で受け流し、返す刀で腕を斬りつけられてしまう。
教官の厳しい訓練を受けた
鎧の身体には剣でのダメージはさほど無いが、攻撃が当らぬ上に、先ほどまでとは違った己の太刀筋にイラつきを見せていた。
「何だ、コソ泥風情のくせに、
『ぐ、ぐぬゥゥゥゥゥ……』
「頭がねェのが残念だよ。更に悔しがる表情を見られたのによ――」
『く、黙れッ!』
カートは、ビュッと突き出されたその剣を避け、左わきに挟んで捕えた。
「ウチの訓練場で鍛えてもらったらどうだ? 教官の剣術はなかなか狂ってんぜ?」
『ぐッ――』
ガッチリと絞められた腕は、押しても引いても動かない。
その横ではムクリと起き上がった、赤い目をした獣が一歩一歩近づいて来ている。
「そうだ、犬っころ。コイツに宝箱開けさせようぜ」
「む、それは良案だ。……で、あの宝箱の罠は何なんだ?」
「ん? ああ、あれな――」
もう一つの、理解しがたい事――。
それは、カートと対峙した時から、“タブレット”が力を発揮しなくなった事である。
いや、対峙した時ではない。二十数年前から、それは急速に弱まり始めていた。
“審理者”自体は元々から特別な力を持っていない。“断罪”の力が引き出せなくなった今では、一介の《デュラハン》に過ぎなかった。
「ま、やりゃ分かる」
「ふむ……そうか。どんなのか楽しみだ――」
獣の斧は大きくテイクバックし、ブォンッと野太い風切り音が鳴り響く。
フルスイングされた“断罪者”の斧は、その鎧の身体を強く叩きつけた。
「“電撃罠”は、複雑すぎて嫌いなんだよな……」
“審理者”の身体が、ガァンッと宝箱にぶつけられたのと同時だった。
宝箱に仕掛けられた《悪魔》の置き土産――高圧の電流が、金属の鎧を襲ったのである。