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4.凍てつく迷宮の悪魔

 いつ壊れてもおかしくないような、木製の梯子(はしご)階段を降り、再び静まり返った一本道を進む。
 先ほどのような、冒険者の成れの果ての気配が感じられない。隙間なく平積みされた石壁には、高熱の炎で炙られたような黒い跡が見受けられる事から、その骸すら残らなかったのだろう。
 もしくは、全て平らげられたか……いずれにせよ、ここにはかつて、凶悪なモンスターが蔓延っていた事は確かである。既に立ち去ったとは言え、その恐ろしさは迷宮に深く残されていた。

 一本道を更に突き進んだ先には、かつての“裁きの間”を彷彿とさせるような、だだっ広い“間”が広がっていた。
 そこで――ズシリ……とした重苦しい暗黒が、黒色以上の黒い何かが、一向を包み込んだのが感じられた。
 誰もがその異様さに気づき、身構えた時――迷宮に残された漆黒の闇が、ついに牙を剥いたのである。

「む……」
「シェイラ、来るぞッ」
「え、えっ……?」

 突然のそれに戸惑うシェイラの目の前に、闇の()()が広がる。
 身を沈め、這い出て来たそれは、剛柔併せ持った巨大な体躯……まるで巨大な猫や獣にも感じられた。
 絶望と恐怖を形にしたそれは、悪魔の中でも最上位に位置する存在――真っ青な肌をした、“あくま”がズルリと姿を現したのである。
 その場に、凍てつくような空気をもたらした《悪魔》は、久方ぶりの来訪者を見定めるかのように、ジロリと見下ろしている。

「あ……ぁぁ……」

 その爬虫類のような巨大な瞳と牙に、シェイラの声が出なかった――。
 闇の中でもハッキリと分かる、真っ白な煙を吐くそれに、呆然と立ち尽くすだけであった。
 身体が震え、喉が乾く。気管が張りつき、呼吸が出来ていない気がする。唯一分かるのは、“冷たい”という感覚だけがそこにある。
 ゆっくりと揺れる頭は、自分が何者であるのかすらも分からなくなり、名を叫ばれても誰のことなのか、それすらも理解出来ていない。

「――シェイラッ!! しっかりしろッ!!」
「え……あ、ああ、そ、そうかっ……!」

 ベルグの激に、ハッ――と我を取り戻し、手にした槍を握り直した。
 その爪は麻痺と猛毒を持っているため、絶対に触れるな! と、ベルグは続けた。
 言葉を理解したか、していないか分からない表情のまま、彼女はコクコクと頭を縦に動かす。
 そして、『《ヤツ》が両手を頭上に掲げたら……』と説明しようとした今まさに、その《悪魔》が、両手を頭上に掲げようかとしていた。

「――まったく、もう少し時間をよこせと言うのだ……」
「“障壁”いくわよっ!! 数少ないんだから、さっさと倒して頂戴っ!!」

 ローズは腰にぶら下げた試験管を取り出し、皆にそう叫んだ。
 それに合わせて、レオノーラの指示が飛ぶ。

「シェイラッ、構えて“霧”が晴れた瞬間に、飛びかかれッ!!」

 シェイラには二人の“教官”の言葉が、まるで理解できていなかった。
 それを余所に、ローズは手にした試験管を地面に叩きつけると、モクモクと立ち込めた煙に包まれ始めたのである。
 理解できたのは、それと同時に《悪魔》の両手の中で発生した“何か”が、カッと光り輝いた事だった。

(これって――テアさんが使ってたような、“魔法”?)

 《悪魔》の手から放たれた光は、凍てつくような氷の嵐となってベルグ達を襲った――。
 しかし、その“魔法”は、彼らを包む真っ白な(もや)に阻まれ、少しでも触れれば致命傷になるような冷気が届かない。
 それでも、冷やされた空気のそれは感じるようだ。シェイラは、どこか真冬に氷風呂に入ったような猛烈な寒さを覚えていた。

「――来るぞッ!」

 その冷気が止んだと同時に、レオノーラの声が響く。
 全員がその(もや)から飛び退るのを見て、シェイラも急ぎそこを離れた直後……猛烈な勢いで、《悪魔》の右手の爪が振り抜かれ、その(もや)を切り裂いた。
 裂け目から《悪魔》の顔が覗く。

 そこから見える、《悪魔》の爬虫類のような瞳が、正面にいる女――レオノーラを捉えた。
 飛び込んでくるそれを、真っ二つに引き裂かんと、《悪魔》は右手を戻すと同時に左手を繰り出す。が、それはギリギリの所で躱され、地を踏みしめる強靭な脚を撫で斬りにされた。
 《悪魔》からすればこの程度のダメージは軽いものだが、それに続いて獣人(ベルグ)の斧が同じ場所に叩き込まれ、思わず怯みを見せてしまった。

「――――ッ!!」

 ベルグよりもまだ二回りほど大きな《悪魔》が雄叫びをあげ、両腕を広げてベルグに飛びかかる。
 爪先でも掠れば動きを止められるが、その獣人は見た目に反して俊敏だった。
 それに誘いこまれ、逆に《悪魔》が隙だらけの脇から槍を突き入れられてしまう。

 突き入れた女・シェイラは、誰かに言われたからでもない。ベルグからそれを感じ取り、自然と身体が動いていた。
 その頑丈な皮膚を貫いた、“ヴァルキリーの槍”であったが、収縮したその屈強な筋肉が穂先を締め付け、それ以上、押しも引かせもさせない。
 《悪魔》は腕を思いきり振りかぶり、身を反転させると同時に、“ヴァルキリー”を切り裂かんとするも――

「ふ――ッ!!」

 シェイラとて、いつぞやの人造人間で踏んだ同じ轍は踏まない。
 今回のシェイラは迷わずその槍を手放し、後ろに大きく飛び退ってカウンターを躱す。
 ……が思った以上にその腕が伸び、チッ――と白銀の鎧を掠めた。

(か、掠っただけでこんな削れるの……っ!?)

 それは、1ミリほど爪先が触れただけにも関わらず、まるでバターを撫でたかのように、頑丈な金属鎧に溝を作った。
 素肌に触れられ、毒が回ったわけでもないのに、全身が強張り冷たくなってしまう。
 《悪魔》の爪の鋭さと恐ろしさを身を持って知ったシェイラは『次はもっと大きく』と、より慎重に動く事を決めたようだ。
 丸腰では戦えないため、攻撃はベルグとレオノーラに任せる事にして、狙われたら回避に徹するつもりでいる。

 そのベルグとレオノーラは攻撃を躱しつつ、《悪魔》の身体に傷を増やして行く。
 仮にシェイラが“静”であれば、レオノーラは“動”である。
 シェイラはベルグとの“阿吽の呼吸”を見せたが、レオノーラとも違った“阿吽の呼吸”を見せ、《悪魔》を翻弄しながらガンガンと攻撃を加えてゆく。

(こんな時だけど……すっごい悔しいの何でだろう……)

 カートはその武器のリーチの短さから、前に立つ二人の邪魔にならぬよう、ローズの防御に回っている。
 ローズも下手に動き回らず、《悪魔》が魔法をぶちかましてくるそれに合わせられるように、先ほどの“障壁”を発せられる瓶を握り、次の魔法に構えていた。
 《悪魔》に、突き刺さったままの槍がカツカツと地面を叩く。幾多もの攻撃を繰り出し続けるも、全く敵を捉えられる気配がない。
 《悪魔》は、埒が明かなくなって来たのか、大きく飛び退ると――。

「ローズッ!!」
「言われなくても分かってる!!」

 “夫婦”の呼吸もさることながら、“姉妹”の息もぴったりであった。
 悪魔の両手から、再び凍てつく風の“魔法”が放たれ、(もや)に猛烈な冷気を浴びせかける。
 これは、魔法使い(メイジ)が唱える魔法と同じ、“魔法障壁”を発生させる薬液である。
 しかし、ローズが使用するのは、科学の力でも可能だと言うのを証明すべく作り出された“薬”であり、その効果は魔法使い(メイジ)にもヒケを取らぬものである――のだが、

「あ、や、やば……ッ!?」
「ローズッ! 何をしている!!」
「あの、バカッ――」

 先ほどと同じく、皆が飛びのいた煙の中からローズの声と、姉の声が響いた――。
 問題は、それが“魔法”ではなく、“薬品”によって物理的に生じさせた物であるため、“視界不良”と言うデメリットがあるのだ。
 ローズは『まず後列狙われない』と言う慢心と、己の反射神経の鈍さを考慮しておらず、真っ白な(もや)から、真っ直ぐに向かってきた鋭い爪を、ただ茫然と見つめるしかなかった。

 ――ザッ……と、何かが掻く音が起った。

 《悪魔》の手に、“人”の身体を掻く、確かな手ごたえを感じている。
 鎧に阻まれたであろうが、その爪先は確かに人体を切り裂いた――。
 これでもう邪魔な“障壁”は放てまい……と思っているのだろうか、そのむき出しの牙を動かし、ニヤりと笑みを浮かべている。
 しかし、(もや)が晴れ、そこに(うずくま)っていたのは――

「――か、カートッ!? あ、あ、アンタどうして!?」
「る、せぇ……。……の、薬なら何とか……」

 ローズを庇い、右肩に深い傷を負ったカートが膝をついていた。
 動かない身体に、急激に回る毒に身体を震わせ、苦悶の表情を浮かべている。
 己に迫った“死”の恐怖と、目の前で血を流して苦しむカートの姿に、ローズの頭が真っ白になった。

「ローズッ、何をしているッ!! さっさと毒消しを与えろッ!!」
「あ……あ、そ、そうだッ……」

 姉の叱責に、ようやく己を思い出した――。
 このような時に備え、自分は錬金術師(アルケミスト)となり、この地へとやって来たのだ、と。
 いつもの勝気な目に戻った“妹”は、あれとこれとと薬瓶を取り出し、カートに与えているのを尻目に、《悪魔》は再三に渡り、“魔法”を繰り出さんとしていた。
 ……が、“生徒”を傷付けられた怒りを露わにした教官・レオノーラのロングソードが、それよりも早く《悪魔》の脇腹を切り裂く。
 これまで以上のダメージに、《悪魔》の魔法の詠唱は止まり、今度はそれが片膝を着くこととなった。

「オォォォォッ――!!」

 次に《悪魔》の瞳に映ったのは、鈍く光る銀色の斧を掲げた“獣人”の姿であった。
 その、ベルグ(断罪者)の斧が振り抜かれ、《悪魔》の首をザンッ――とハネ飛ばした。

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