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抒情詩 5

 記憶に支配され続けることに意味などない。
 今を彩る苦しさは過去を捨てられないからだ。
「それで?」
 苛立つ和也の声がある。
「臆病風に吹かれた訳だ」
「違う」
 答え返すことができない。和也の言う通りだ。
「嫌がる由紀恵を無理やり車から引っ張りだして帰ってきた訳か」
 背中を向けたまま、松島は項垂れている。
 答えが欲しいのだ。前に進む切っ掛けを掴むことができない苛立ちだけがあった。
「言い訳ばかり並べて、頷いて欲しいだけだろう」
「違う」
「同情か?」
「違う」
 呆れる和也が由紀恵に連絡を取ろうとしたが電源が切られていた。
 薄暗くなった空を松島は仰いだ。
「まるでエイセクシュアルだな」
「セリバシーとも言うぜ」
 
 過去のエイセクシュアル者が求めたものはプラトニックだ。
 求められることに嫌悪だけがあった。
「抱きしめてやれよ」
 窓際から二人を覗く小木がいる。
 煮え切らない松島の姿に苛立ちを隠せない顔を向けていた。
 階段を駆け下りてくるのも時間の問題であろう。腕を組んだまま松島を睨みつけている。
「鬼が来るぜ」
 和也の顔が松島の背中を強く押すようだ。
「そうだな」
 車に乗り込んだまま、アクセルを踏み込めない情けなさがあった。
「女は愛情だ」
 駆け下りてきた小木から逃げるように松島は車を走り出させた。
 男同士だから話せることがある。小木が入れば私情だけが顔をだす。いつもの事だ。
 走り出す景色が点と線になる、
 和也の言葉が松島の脳裏にきつく焼きついた。


     *



 別れを切り出した松島の顔を由紀恵は見ることはなかった。松島も由紀恵の顔を見ることができないまま別れた。
 不安だけが先走る、
 車を降りた由紀恵が歩き出した場所に松島は駆け出していく。
「由紀恵」
 辺りは薄暗さを通り越していた。
 鬱蒼と茂る大樹の影、
 小さく蹲った由紀恵を見つけた。


 初冬を思わせる寒さだけがある。
 吐き出す息が白い。


     *



 擦れ違う影がある。
 向かい合うことすら、もどかしいほどに躊躇いだけがあった。
 寒さで震えた指先が妙に苦い。
 後ろめたさばかりが先にでる。
 構えた顔つきを向けたまま、松島は微動だにもできない。

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