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抒情詩 6

 焦りの色さえ濃くなる。今まで誰かを思うなど考えもしなかった。
 由紀恵が性同一性障害であるように、松島はエイセクシュアルに近い。
 感情や欲求を抱けない解離的な性質は自己を保とうとする強い自己防衛の表れだ。
 ただ感情がない訳ではない。
「セリバシーと言われたよ」
 寒さで震えた由紀恵の身体が小さく見える。
 振り向いた由紀恵を強く抱きしめた。
「悪かった」


 重なる影がある、
 強く抱きよせる腕が由紀恵の心を惹きつけて止まない。
 高鳴る鼓動が、まるで共鳴していくようだ。
 最初は誰でもよかった。
 困らせてやりたい思いだけがあった。
 だけど、今は違う――。
 松島を覗き込む由紀恵の目に安らぎがある。


     *



 向かいあうことに抵抗ばかりがあった。
 震えた身体が休まる時、由紀恵は気づいた。
 凭れた松島の身体は想像いじょうに広い、
 自分が男であることさえ忘れてしまう力強さがある。

 ぎこちないまでの二人。
 前に進もうにも互いを知らなすぎる。
 語るには二人の過去は重い。
 名前を尋ねていいのかさえ躊躇う。
 二人は言葉を探した。これ以上、傷つけあいたくはなかった。
 走り出す車のなかに違った重さが漂う。
 思い通りにならないことばかりが由紀恵だ。
 今までの松島は応じることで答えてきた。
 劣情すべてに虚しさだけがある。

 軽率な欲情は劣情以外の何ものでもない。
 求めあい続けることができない、もどかしさに惰性があった。
 貪ることで誤魔化しあう関係をもう繰り返したくはない。
「たくさんの言葉を思い出した。セクシュアリティ、それにマイノリティ――」
「ジェンダーも?」
 走りだした車は由紀恵のマンションに向かいだしている。
「セリバシーを拒絶と取らないのか」



 肉体を彩るものが若さなら、
 精神を司るものは心だ。
 絡み合う互いの感情。
「送るよ」
 走り出す車に加速がつく、
 松島はプラトンの饗宴を思い出していた。


 抱き合い眠ること、
 互いの鼓動が今を刻む。
 子猫のような小さな欠伸、由紀恵は松島を離さない。
 強く握った指先から今が溢れ出してくる。
 軋む小さなベッドの上、背中を丸めた由紀恵が眠りについていた。
 瞬く星空、蒼白とした月明かりが幻想的な今を作り出している。

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