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11.救いの手

 翌日の夕方、長い影の輪郭をぼやかせ始めていた頃であった――

「シェイラちゃん! シェイラちゃん!」

 焦りを顔に浮かべた女将は、必死の形相でシェイラの部屋の扉を叩いていた。
 当初は『顔が上気し、心ここにあらずだったから、きっと長旅で疲れているのだろう』と、そのままゆっくり寝させてやろうと思っていた。しかし、それから昼をとうに過ぎても部屋から出てくる気配がなく、扉越しに呼びかけても返事が無かったのである。
 そんな、尋常ならざる女将の声を聞きつけ、ベルグが血相を変えて階段を駆け上がって来た。

「――女将、一体どうしたのだ!」
「シェ、シェイラちゃんが、部屋から出てこないんだよっ!
 返事もしないし、もしかしたら倒れているんじゃないかと思って……」
「離れていろっ!」

 ベルグは言い終わる前に身をクルリと反転させ、次の瞬間には扉を蹴破っていた。
 ダァンッと大きな音と共に、開け放たれた部屋を覗き込むも、そこはもぬけの殻――中には誰もいない。
 窓は閉め切られ、中は蒸し暑い。しかし、むわっとした熱気が籠った室内の中で、ベルグの狼の鼻は確かに“姉”の存在を嗅ぎ取っていた。
 ベッドの上に、雌の匂いが色濃く残されており、シェイラの匂いはそこで途切れている。

「ベッドの上で、消えた――?」
「そ、そんな神隠しみたいな事って……」

 間違いではないか、と女将は尋ねる。
 だがしかし『ベッドから外に向かった痕跡もない。匂いがそこで留まったままである』と、ベルグは答えた。
 それでなくとも、“姉”と慕って来たシェイラの香を、“弟”が間違えるはずがないのだ。
 しかし、そこに“姉”はいない――あるのは、開かれたままになった、一冊の本があるだけである。

「手がかりは、この本か――?」

 その本を手に、綴られている文字に目を落とした。

【――“シェイラ”は走り続けた。
 “少女”を捧げると決めた男を蹴り飛ばし、町の裏路地を駆け続けている。
 しかし、常連である男がその腕を掴み、いつもの様にしろとズボンのベルトを外す。
 シェイラの目には恐怖が浮かんでいる。その目はこれまでの少女の目とは違い、『助け』を求めていた。
 しかし、誰も助けには来ない――誰もが傍観するだけだ】

 ベルグは驚愕の色を浮かべ、急いでローズを呼ぶよう女将に指示した。
 その目には焦りが生じている。“獣の本能”と言う物か、その本に書かれている“シェイラ”は創作上の人物ではない、と瞬時に感じ取っていた。
 本の中では、蹴り飛ばされた男が追いつき、シェイラに口淫を迫った男と掴み合いになっている。
 先ほどまで無かったページに、新たな文字が浮かびあがり

【シェイラはその隙に逃げ、建物の中に隠れた――。
 彼女の身と心は、いつまで持つか分からないだろう】

 と、どこか嘲笑い、挑発するような文が綴られている。
 “弟”はそれに、強い怒りと焦燥感を覚えた――“姉”の事となると、ベルグは平静を保てなくなるのだ。
 そこに、先ほどまで眠っていたのか、女将に叩き起こされた寝ぼけ眼のローズが姿を現した。

「何よもう、騒々しいわね……。さっき寝たばっかなのに……ふぁ、あぁぁ――」
「シェイラが消え、この本にシェイラの名が記されているのだッ! 何か知らないのかッ!」

 矢継ぎ早に繰り出されたベルグの言葉に、ローズは欠伸姿のまま固まった。
 眠たげな眼はハッと見開き、口をだらしなく開けたまま止まっている。
 知っていても知らないと言おうとしたが、シナプスが結合したのは、とんでもないシロモノであった。

「そ、それって、まさかとは思うけど……“封印書”、とかじゃないわよね?」
「――こんな本だ」

 ベルグがバッと見せた本に、ローズは立ちくらみを覚えた。
 夢は記憶の整理だと言う。今見ているのは、その整理中の光景であり、自分は今ベッドの中に居るはずだ……。そう願っているが、目の前で起っている事は現実である。
 蒸し暑い部屋のせいか、頭の中が霞がかったような錯覚すら覚えてしまう。

「何で……何でこれが、こんな所にあるのよッ!?
 これ、物語の完結……最終ページまで行かなきゃ、永遠に取り残されるの代物なのよッ!」
「な、何だとッ……だが、それならシェイラが最後までいけば――」
「違うのよッ、最後まで行けないのよこの本はッ……」

 別名、“封()書”だ――とローズは言った。
 本来は“魔族封じ”のためのそれであったのだが、ある魔導師がそれを改良し『理想のシチュエーションで、理想の人物とのセックスが味わえる』との触れ込みで、本の中に転移できるマジックアイテムを作ったと言う。
 だがそれは、封印した|《サキュバス》の“書”の処分が面倒であり、ただ簡単な“制約”を設けただけの、お粗末な代物であったようだ。

「私も聞いただけで、ホンモノを見たのは初めてなんだけど……この本は【封じられし者は筆者に従う】って条件文が書かれてただけの欠陥品だったみたいなの。
 一人で使ったら、その快楽の奴隷にされ、サキュバスまで解放してお終いってね」
「なら、この本の中に、《サキュバス》が居ると言うのか」
「いる……と言うか、この本が《サキュバス》と言っても過言じゃないわ。
 だから、意思の弱い奴が登場人物と交わったら終わりよ。現実と物語は別物だけど、本人の“記憶”はそのままだから――。
 言っちゃなんだけど、シェイラなら……恐らく一回で快楽の(とりこ)にされるわ」
「なっ……くそッ、シェイラを、シェイラを助け出す方法はないのかッ!」
「もちろんあるわよ? 襲いに来るのは《サキュバス》一体だけだから、第三者がその手を払い退け、彼女を最後のページまで導けばいいの」

 落ち着きを取り戻したのか、普段のようにどこか軽い口調になりつつあるものの、その言葉には厳しい物が含まれている。
 飛びこむのは簡単だが、丸腰で敵のホームに挑むようなものだ、とローズは言う。
 下手をすれば、ミイラ取りがミイラになる――見知った者であればあるほど、窮地に陥った者は心を許してしまうため、シェイラの貞操の危機がより一層増してしまうらしい。
 いかなる誘惑に打ち勝てるほどの精神力が要求されるため、救出チーム選びは慎重に行わねばならないのであった。

「ならば、俺一人で行こう」
「性欲に忠実な《ワーウルフ》とか、より危険じゃないの……。まぁ、“姉と弟”の関係ってだけ、そこらの人間よりまだマシかもしれないけど。
 確か――満月がヤバいんだっけ?」
「うむ。だが、それもまだ先であるしな――で、行き方はどうすれば良い?」
「汗とか体液を付けて、名前の無い登場人物に自己投影するだけでいいはずよ」

 開かれたページに目をやると、若い男に捕えられた“シェイラ”が、寝室に押し倒された所であった。

【手足が縛られ身動きが取れなくなっている。ケダモノと化し、荒く吐く息がシェイラの頬を撫でた――】

 と、綴られている。


 ◆ ◆ ◆


 柔らかく、高級感のあるふかふかのベッドの上で、シェイラは必死で首を左右に振った。
 男の鼻息が首筋をくすぐり、思わず身の毛がよだってしまっている。
 だが、それが逆に快楽にも感じつつあった。縛られ身動きの取れない自分がこれからされる事――被虐性が増し、それを期待する彼女がそこにいた。
 大きく抵抗を見せていたそれが、徐々に萎縮し始め……熱を帯び始めた瞳に、期待が満ちている。

『これは物語の中なんだから――』

 もう一人の自分が語りかけた。獣の様に鼻息を鳴らすそれは、物語の“少女”が初めてを捧げようとした相手ではないか、身体――腹の奥が求めているではないか、と語りかけて来ている。
 もう一人の“少女”は、この時とずっと待っていた――と言う。
 シェイラも、甘美なその言葉に耳を預けてしまっている。物語の中なのだから、登場人物は従わなければならないと……目の前の獣は愛した男なのだ。

(“少女”は“私”であって、“私”は“少女”じゃないんだ――。
 この不幸な生い立ちの女の子を変えるのも“私の自由”、なんだよね……?)

 貧しくとも、愛した男と一緒に暮らす――それは、シェイラ自身の望みでもあったのかもしれない。
 彼女は、決意をしたように目を瞑り、再び目を開き、

(そう、目の前のスリーラインと暮らすんだ……って、あれ?)

 と、シェイラはぎゅっと目を瞑り、もう一度目を開いた。
 霞む視界の中に居るのは、確かに見知った灰色毛の《ワーウルフ》であり、何度も何度も助けを求めた“弟”のような存在――。

「す、スリーラインッ!?」
「む? ようやくリンク出来たようだな。シェイラ、無事だったか?」
「本物!? 本物だよね!?」

 そう言うと、シェイラは涙を浮かべ、ぎゅっと抱きついてきた。
 震えるその身体を抱きしめてやりたかったが、この状態が続くと、ベルグも意識を持って行かれそうになってしまう。
 目の前のシェイラの身体から、オスの欲を掻き立てる“メスの匂い”がプンプンとしているのだ。
 ぐっと突き放されたシェイラは、自分の心が舌打ちした気がしていた。

「で、でも、スリーラインはどうして……いや、それよりも、私たちどうしちゃったのッ?」
「ここは《サキュバス》が封印された本の中、であるようだ。物語を早く完結させねば危険だ」

 ベルグは、ローズから聞いた説明を簡単に話し始めた。
 細かい説明を受けていたのだが、その殆どが右から左に流れたため『誘惑に負けないでゴールまで行く』程度にしか分かっていない。

「相変わらず、ざっくりした説明だね……」
「だが、これ以上の説明はないだろう」

 ベルグはどうだ、と言わんばかりにワフワフと笑っている。
 シェイラはそれを見て、流されそうになった自分の異常性が怖くなった。
 もしあのまま流されていれば、このベルグや今までの日常が全て、消え去ってしまいそうな気がしていたのだ。

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