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ミカ・アーベントへようこそ

 放課後、俺は教室に一人居残り、ボーッと窓の外を見ながら彼女を待った。
 一雨来そうないやな天気だった。
 同級生達は全員が部活に行ったので、俺しか残っていないから、彼女が来ても(いじ)ってくる奴はない。
 でも、部活から戻ってきて俺達に遭遇されては、と気が気でなかった。
(早く来てくれ)
 下校時刻が近づいているので腕時計を何度も見ていると、やっと彼女が教室にやってきた。
 彼女が手招きをする。
 俺は鞄と手提げを持ち、急いでついて行った。
 廊下で肩を並べて歩いているところを見つかるとしばらく噂になるので、彼女のお供をするように距離を取って後ろを歩いた。

 音楽室は3階にあった。
 彼女は「ここ」と指を指し、扉を開いた。
 奥の方に黒板が見える。
 すると、黒板付近からキャーキャーと歓声が上がる。
 (のぞ)いてみると、色とりどりの髪の二、三十人ほどが黒板の前に置かれたグランドピアノの周りに立っていて、入っていく彼女に手を振っている。
 彼女も手を振って応える。

 しかし、歓声はすぐに途絶えた。
 俺が扉の外に立って中を(のぞ)き込んでいるので、不審者に思われたのだ。
 緑色の髪の女生徒が俺を指さす。
「あの人、誰?」
 彼女は嬉しそうに答える。
「ああ、今日の見学者だよ」
 彼女は振り返って手招きする。
「オニトゲくーん! 入りなよ」
 この一言で音楽室の空気が凍った。

 青色の髪の女生徒が俺を指さして言う。
「あいつって、暴力事件を起こした奴じゃないの?」
 その言葉に皆がざわつく。
 銀色の髪の女生徒が俺を指さして言う。
「そんな奴が何であそこにいるの?」
 ざわつきが増してきた。
 彼女は首を(かし)げている。
 赤色の髪の女生徒が腕を組みながら言う。
「でも、あいつ記憶喪失って聞いたよ。しかも、おとなしくなったって。悪さはしていないみたい」
 彼女はその言葉に安心したのか「優しい人だよ」と付け加える。
 その後しばらくザワザワしていたが、最終的に音楽室に入ることを許可された。
 部外者なので遠慮して、扉から入って一番近い席、ピアノからは一番遠い席の椅子に手をかけ、音を立てないように座った。

 彼女はグランドピアノの前に座って、すぐに曲を弾き始めた。
 離れていてもピアノの音は力強い。
 ズシンとくる低音、転がるような高音、歌うような中音。
 そのイントロの後に彼女が歌い始めた。

 その声質は、話し声と全然違う。
 歌う声の中に会話の声の特徴を探したが、無駄だった。
 感情豊かな彼女の歌い方にハッとした。
 声がよく通るだけでなく、心模様まで伝わってくる。
 遠くにいる俺に歌を届けようとしているのだろうか。
 初めて聞く歌詞だが、情景がこの俺にも見えてきて、心が歌の世界に引き込まれていく。
 その凄さにゾクゾクする。
 快感や感動で寒気がするのは何と表現すれば良いのだろう。

 みんながミカを<歌姫>と言う意味がようやく分かった。
 綺麗な声を出すのが歌ではなく、こういう歌い方をするのが<歌>なのだ。

 グランドピアノを取り囲んだ観客がうっとりとした表情で彼女の歌を聞いている中、ゆっくりと名残惜しそうに曲が終わった。
 直ぐさま拍手が起きた。
 俺は目立たないように軽く手を叩いた。
「作品250のお披露目!」
 彼女は万歳をして嬉しそうに笑う。
(こ、これを一日で書いていたのか!)
 度肝を抜かれて、ミカが恐ろしくなってきた。もちろん、畏敬の念であるが。

 先ほどまで何かに()かされるように彼女が鉛筆を走らせ、五線紙の上に生まれ落ちた音符達や歌詞が、ピアノと彼女の声を通じて感動の歌になる。そんな歌が紙の上で生まれる瞬間に幸運にも立ち会えた。
 そう思うだけでも頬が上気し、目が潤んできた。

 周りの観客は次々と賛辞を述べる。
 俺はまだ感動していたので賛辞を述べる心の余裕はなく、ただただ黙っていた。
「次は作品249」
「次行くよー、作品248」
「も一つ、作品247」
 彼女は途切れることなく、作品番号を言いながら歌を続ける。

 作品245を終えたところで休憩になったらしく、彼女は全く感じの違う曲を弾き始めた。
 歌わないのでピアノの曲を弾いているらしいが、俺には何の曲か分からなかった。
 観客はそれをBGMのように聞きながら、雑談している。
 すると、赤色の髪の女生徒が俺の方を向いて立ち上がり、ツカツカと近づいてきた。
 初対面だが、あまり警戒していない様子でこちらに感想を求めてきた。
「どう?」
 そう言われてもこの場に相応しい言葉が出てこない。
 沈黙はまずいと思って咄嗟(とっさ)に答えた。
「あ、ああ。……素敵な歌声」
 情けないことだが、これ以外にうまい言葉が思いつかなかったのだ。
 彼女はニヤッと笑って言う。
「そりゃ、歌姫だもん」
 それは俺を小馬鹿にしたのではなく、同じ感動を覚えた聴衆の一人として歓迎しているように思えた。

 それから彼女は解説を始める。
「今ミカが弾いているのは、バッハのフランス組曲。バッハって一族に何人もいるけど、大バッハの方だよ。ドイツ語でヨハン・ゼバスティアン・バッハ。もちろんミカはバッハが大のお気に入りなんだ。それにしても凄いよね。毎週毎週新曲を書いて来て、私たちに歌って聞かせてくれるの」
「ふーん」
 俺は大だろうが小だろうがバッハと言われても誰のことか分からず、気の抜けた返事しかできなかった。
「あ、次の曲はドビュッシーのアラベスクだ。私この曲好きなんだよねぇ。ミカってドビュッシーをあまり弾かないんだけど、私のために弾いてくれたのかな?」
(さあね)
 俺は興味を示さなかった。第一、単語が分からなさすぎる。

 彼女はミカの方を向いて言う。
「この集まりは<ミカ・アーベント>って言うの。<ミカの夕べ>のこと。ファンが毎週この時間に集まるんだ。ああ、それにしてもミカは歌姫を通り越して神様ね」
 事実、あの曲を目の前で作っているミカを見ているので、これには即座に賛同した。
「確かに」

 彼女は俺の方に向き直る。
「ねえ、知ってる? ミカのフルネーム」
「ああ、確かウオマサ ミカだっけ」
 彼女は(うなず)いて、「だから神様、そして王様なの。なぜだか知ってる?」と謎をかける。
 分かるわけがなく、早々に諦めた。
「いや、知らない」
 彼女は小馬鹿にしたように言う。
「なんだ、知らないんだ。ヒント言おうか?」
「降参降参」
 即座に白旗を揚げる俺を見て、彼女は人差し指を下から上に動かして言う。
「逆から読んでごらん」
 言われるままに名前を一字一字ひっくり返して読んでみる。
「ほんとだ」
「でしょ?」
 微笑む彼女は立ち去り、観客の輪の中に入って行った。
(歌姫様は神様か)
 俺はピアノを弾くミカの姿が天使か何かに見えて、今にも羽が生えてくるのではないかと思ってしまった。
 彼女に超人的何かを感じた。

 後半は、ミカの古い歌を全員で合唱していた。
 3曲終わったところでお開きになったらしく、彼女が立ち上がる。
 緑色の髪の女生徒が「今日は私んちだよね?」と彼女に尋ねる。
 彼女は楽譜をトントンと揃えながら「そだよ。泊めてね。よろしく」と答える。
 銀色の髪の女生徒が彼女の後ろから声をかける。
「明日は私んち」
 彼女は振り向く。
「そだよ、よろしく」
 青色の髪の女生徒が挙手をするように右手を挙げて言う。
「次は私んち」
 彼女も右手を挙げる。
「うん、ありがと」
(これって、連続お泊まり会?)
 人の事情にあまり首を突っ込むタイプではないが、こうも出歩く彼女を許している家族が心配になってきた。

 彼女が俺を見つけて小走りに近寄ってきた。
「待たせてゴメン」
「お、おお」
 彼女のファンの目が気になるので狼狽(うろた)えた。
(抜け駆けは許さない、と後で締め上げられそうだ)
 視線を避けるようにそそくさと教室を出た。

 逃げる俺の背中へ、彼女がソッと声を掛けてきた。
「渡したいものがあるの」
 さらに狼狽(うろた)えた。
(頼む、この場で言わないでくれ!)
 逃げる俺を彼女が追いかけてくる。
「これ、受け取って。お礼」
『お礼』の言葉に足を止めて振り向く。
 幸い、彼女の後ろにはファンの姿が見えないのでホッとした。

 手渡されたのは歌詞と音符が書かれた五線紙。
 端には破れた跡があり、右上に<No.250>と書いてある。
(俺の五線紙だ)
 今日できてお披露目も終わった新曲を『お礼』だと言って渡す。
「何のお礼?」
 腑に落ちない俺を見て、彼女は微笑みながら首をちょっと傾ける。
「保健室の」
(ああ、そうか)
 一礼して受け取ると、素早く鞄の中に隠して辺りを(うかが)った。
 端から見ると怪しい物の受け渡しみたいなので、彼女が笑った。
 その時、下校のチャイムが鳴った。

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