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嗚呼、歌姫様

「それ、ちょうーだい!!」
 彼女は、なおも両手を突き出したまま、おねだりを繰り返す。
 キラキラした眼。細い眉。ほころんだ口元。ピンク色の唇。
(満面の笑みも仕草も声も可愛い……)
 もう少し小さな女の子だったら、本当に西洋人形が喋っているように思えただろう。
 そんな彼女が初対面の俺に、甘えるような声で言う。
「ねえ、お願い!」

 こうなると、先ほどまでの警戒心が嘘のようにどこかへ吹き飛び、協力してあげようという気持ちがムクムクと湧いてきた。
(いやいやいや! そうはいっても他人のノートを上げるわけにはいかない)
 思わず渡そうとして前へ動いた腕を元に戻す。

(こういう時は何と言えばいいのだろう……)
 元の世界ではずっとジュリと一緒だったので、こう言えばああ言うというパターンは定型文のようになっていて、ボケとツッコミですら体に染みついていた。選択(チョイス)する言葉が決まっているから、その決まりに乗っかっていれば面白い会話が成り立った。
 味気なく思われるかも知れないが、その同じパターンが楽だったし、しかも会話がタイミング良くポポンと()まると快感すら覚えた。二人で漫才でもやろうかと思った時期もあったくらいだ。

 やっぱりそれは安直だったのだ。
 並行世界へ一人放り出されてからというものは、そんな会話の相手が何処にもいない。
 普段、楽しく会話できていたのは彼女がいたからだ、と改めて思う今日この頃。
 今更ながら、周りの女生徒との接し方や話し方がまるで分からないことを痛感し、後悔し、分からないからどうしても無口になる。
 無口に慣れると、咄嗟(とっさ)に言葉が出ない。
 たまにポツリと喋る話し方が一見クールな印象を相手に与えても、その実、会話に対して心底臆病なのだ。

 俺にベッタリだった彼女が悪いのではない。
 あまりに楽な行動しかしていなかった自分が悪いのだ。
 この並行世界に来て、それがよく分かった。

(『うるせえ!』じゃないよな、『駄目!』でもないよな、『困るなぁ!』かなぁ)
 ここで使う言葉がいろいろ思い浮かぶが、決め手に欠けて汗が出る。
 結局こういう時に便利で無難と思われた言葉を選択(チョイス)した。
「ゴメン!」
 我ながら、芸がなかった。なんで謝るのか……。

 すると、彼女は、「全部欲しいんじゃないの。1枚でいいの。お願い!」と言って右手の人差し指を立てた。
『ゴメン』は『全部のノートはゴメン』の意味に思われたようだ。
 そして、こちらを拝むように顔の前で手を合わせて、目まで閉じる。
 人形のように可愛い彼女にここまで頼み込まれたら、断るには勇気が要る。
(1枚でいいとは、よほど紙が欲しいんだな。……じゃ、俺のを上げるか)

 今持っている音楽ノートにはメモ用の空白ページはないが、最後の方に音符が書かれていない五線紙が数ページある。これは、自分で好きな曲を書きなさいというページなのだが、俺みたいに作曲なんぞ出来ない生徒には無用のページだ。
「何書くのか知らないけど、空白のページはないが、何も書いていない五線紙のページならある」
 彼女は『五線紙』という言葉に目を輝かせた。
「それでいいの! それ、ちょうーだい!」

 そこで踊り場に左膝をついてしゃがみ込み、立てた右膝にノートの山を載せて自分のノートを探した。
 彼女が立ち上がってこちらに近寄ってきたらしく、上履きと足の一部が視界に入った。
 五線紙のページを探すためにノートをペラペラ(めく)っていると、「それ君の?」と彼女が(のぞ)き込む。
 自分のノートを人前で開いて見せるのは恥ずかしいものだが、顔を間近に近づけられるともっと恥ずかしい。
 視界に入った黄色い髪がサラリと揺れ、髪から漂うヘアスプレーの良いにおいが鼻腔を(くすぐ)る。
 ジュリ以外の女生徒の顔、しかもマネキンのように美しい顔が直ぐそこにあるのだ!
 これで平常心を保てるはずがない。

 音符が書かれていない五線紙を見つけると、少し震える右手で最後のページまで(つか)んで勢いよくバリッと剥がしてしまった。
 如何に動揺していたか、この行為を見ればよく分かるだろう。
 血圧が上昇してきたのが分かる。
「そんなにいらないけど、くれるんなら嬉しいな」
 彼女が目の前に両手を出してきたので、慌てて彼女に五線紙を渡してノートを閉じた。それからノートの山の一番上にそれを置いた。

 彼女は腰の後ろに手を回し、上からノートの表紙を(のぞ)き込む。
「それ、なんて読むの? その難しい字」
 彼女は頭を上げ、読めない漢字に困って眉を寄せた。
「俺の名前?」
「うん」
 そして、また顔を近づける。今度は産毛まで見える。
 興味津々な彼女がこちらに向けた双眸(そうぼう)に吸い込まれそうだ。
(近い近い……)
 心臓の鼓動が体内を通って耳にまで聞こえてくる。
「キ……」
「キ?」
 思わず本名の君農茂(きみのも)を言いそうになり、慌ててゴクッと飲み込んだ。
「お、鬼棘(おにとげ)だけど」
「ふーん、オニトゲ マモルくんね。2年6組なんだ。私は4組だよ。ありがとね」

 彼女は右手で五線紙を握りながら踊り場の壁に背を(もた)れ、その場で腰を下ろして両膝を立てた。
 彼女が離れてくれたおかげで、高揚して(しび)れる脳細胞が少し落ち着いてきた。
 我に返った、という感じである。
 それでも団扇が欲しいほど顔に余熱は残っていたのだが。

 手元のノートの山が、自分に言いつけられた用事を気づかせてくれた。
「あのー、授業始まるけど」
「いいの」
 そう言うと彼女は、ポケットから銀色で小さな金属のペンケースを取り出し、それをパカッと音を立てて開けた。そして、中からサッと鉛筆を出す。実に手慣れた手つきだ。
 そして、膝上のスカートに五線紙を置くや否や、何か急かされているかのように鉛筆を走らせた。
「授業始まったぞ」
 もちろん、嘘だ。
 こう言えば相手が焦って腰を上げるだろうと思ったのだが、無駄だった。
 彼女は黙ったまま。一心不乱とはこのことか。
(ま、いいか)
 俺は、彼女はサボりを決めたのだろうと思い、()かすのを諦めて腰を上げた。
 そして、自分こそ早く教室に戻らないといけないことに気づき、階段を駆け上がった。

 階段を上り切ったところで、下の方から声がした。
「あたし、魚万差(うおまさ)ミカ」
 さすがにこのタイミングで声が掛かるとは予想していなかったので、ビクッとして立ち止まった。耳が下からの音をよく聞こうとして動いたように思えた。
(今頃名乗るか?)
 そう思いながら振り返って声の主を見下ろした。
 彼女は五線紙に視線を落としたままだ。
「ウオマサ ミカ?」
 問いかけた言葉にも顔を上げない。
「ミカでいいよ」
 まだ顔を上げない。
「ああ」
 俺は背を向けて足を一歩踏み出す。
 すると、また後ろから声が掛かった。
「今日はありがとね。頭からブワーッって(こぼ)れてくるから助かった」
(こぼ)れる? 何が?)
 振り返ると、今度はこちらを見て微笑んでいる。右手まで振っている。
 会話のタイミングが何かずれている。
 手を振ってあげたかったが、あいにくこちらは手が塞がっていた。
 代わりに笑顔を返してやった。
(それにしても、不思議なことを言うなぁ。別に何も(こぼ)れてないじゃないか)
 そう思いながら、急いでその場を立ち去った。

 二時限目が終わって長めの休憩時間が来た。
 ガヤガヤとうるさい同級生達を眺めているのも退屈なので、妹が作った弁当を早弁しようと思い、机の右横にぶら下っている手提げの中に手を突っ込んだ。
 弁当箱に手をかけたところで、何故かガヤガヤしていた声がスーッと潮を引くように消えていき、廊下の騒がしさだけが遠くで聞こえるようになった。
 俺は顔を上げた。
 同級生達が一斉に教室の後ろのドアへ視線を投げかけている。
 釣られてその方向を見た。
 そこには黄色い髪でマネキンのような女生徒が立っていた。
 ミカだ。
 彼女を見ただけで顔が火照(ほて)ってきた。

「マモルくん、いる?」
 彼女は俺を探してキョロキョロする。
 同級生全員がこちらを振り返るので、彼女はすぐに俺を見つけた。
 そして、何かを持ちながらニコニコ顔で走り寄ってきた。
「ありがとね。これ返す」
 気持ちが高ぶっていて、声が出なかった。

 彼女が手にしていたのは五線紙だ。
 さっき渡した方を返しに来たのかと思ったが、ノートを破いたような跡はなく、きれいな五線紙だ。
 渡した方は使ってしまったので、わざわざ購買部で買ってきたのだろう。

 彼女はそれを手渡すと、足早に教室から出て行った。
 同級生全員の視線が彼女を追う。
 そして、彼女が視界から消えると、一斉にこちらに向き直る。
(なんなんだ、こいつらの一体感は?)

 戸惑っていると、後ろの席にいる女生徒が鉛筆で俺の背中を突きながら言う。
「歌姫とどういう関係?」
 慌てて「何のことやらさっぱり」と答えると、右横の席にいる女生徒が不機嫌そうに言う。
「何であの超有名な歌姫がお前を下の名前で呼んでいるんだ?」
(お、俺も知りたいくらいだ)
 それには答えず黙っていると、前の席にいる女生徒がニヤニヤして言う。
「こいつ、手が早いな」
 この言葉に、同級生達はゲラゲラと笑い始めた。
「いやいやいや、そういう関係じゃなくて」
 この場の誤解を解きたかったが、無駄だった。

 初めて笑いの中心にいる気がした。安堵した。
 しばらく彼女のネタで(いじ)られているうちに、チャイムが鳴った。

 三時限目の授業中にチョークが足りなくなったので、教師が「日直は職員室へ行ってチョークを取ってこい」と言う。
 日直は二人だが、もう一人は一時限目で早退したので、日直と言えば俺と言うことになる。
(授業を受ける権利がある生徒を外に追いやるのか?)と皮肉の一つでも呟いてやろうかと思ったが、黙って立ち上がり、イヤそうな顔を見られないように右横を向きながらノロノロと歩いた。

 ドアを開けて教室を出ると、歩き出そうとしている方向が、教室を出て行ったミカの走り去った方向であることに気づいた。
(記憶に刷り込まれたのか?)
 まあ、どっちの方向に行っても職員室までの距離はさほど差がないので、一度立ち止まった足を前に踏み出した。

 階段のところへ近づいて行くと、廊下と階段の境界から黄色い髪の頭が徐々にせり上がってきた。
(ああ、やっぱり)
 彼女である。
 また階段の途中で座っているのだ。
 顔が少し熱くなってきた。彼女を気にしているのだ。
(俺、どうしちゃったんだろう……)
 彼女がそこにいると言うだけで、逆上(のぼ)せてくるのである。

 やあ、と言うほどまだ親しくはないので、そっと後ろから近づいた。
 彼女が気づく様子はない。
 横に立ってみると、膝を抱えているかと思ったがお腹に手を当てているのが分かった。
 急に心配になって立ち止まった。
「どうした?」
 彼女は苦しそうに言う。
「お腹が痛い」
 弱々しい声の調子から、かなり痛そうである。
 さすがの俺も階段の途中からこの体勢では運べないので「立てるか?」と聞いてみた。
 彼女は黙って(うなず)く。
「手を握って」
 そう言って彼女へ手を差し出す。
 実は、ジュリ以外の女生徒にこんなことをするのは初めてなので一瞬躊躇したのだが、だからといって黙って見てはいられなかったのだ。

 彼女はソッと俺の手を握る。
 ジュリ以外の女生徒と初めて触れ合った戸惑いもあるが、それより手の冷たさにビクリとした。
 手が冷たいだけではなく、顔色も血の気がなく、青くなっている。
 胃の辺りに血が集まって、四肢が冷たくなっている状態ではないだろうか。

「保健室へ行こう。さあ、立って」
 保健室は一階だ。
 彼女は右手で俺の手を握ったままゆっくり立ち上がったが、少し蹌踉(よろ)めいた。
 その拍子に彼女の体重が手に加わってきたので、しっかり足を踏ん張った。肩も押さえた。
「歩ける?」
「……うん」
 左手でお腹を押さえて少し前屈みになり階段をゆっくり一段一段降りる彼女とそれを支える俺。
 こんなことはジュリにもやってあげていない。初体験である。
 全神経を集中して、途中で彼女に異変が起きないか、足を滑らせないか、見守りながら階段を降りた。

 踊り場にたどり着くや否や、彼女がポツリと「駄目……」と言ってヘナヘナと座り込んだ。
 階段はまだ半分しか降りていない。
 今の彼女の様子では、さらに階段を降りるのは難しそうだ。こういう時は、いろいろ抱き方はあるが、おんぶが無難だろう。
「分かった」と言って動こうとした時、彼女がこちらをチラリと見て袖を(つか)んだ。
「お姫様だっこしてくれるの?」
 それは考えていた選択肢の一つではあったが、あえて避けていた。しかし、それを言い当てられてしまったのだ。心が読まれたのか。
 ドギマギしながら答える。
「いや、おんぶ」
 彼女は微笑んで、おねだりする。
「お姫様だっこがイイ」
「……」
 ジュリにもお姫様だっこをしたことがないので、大いに困った。
(どうやるんだっけ?)
 初体験が多すぎる。

 決心するまでの間、彼女は俺が固まっていたように見えていたに違いない。
 しかし、苦しんでいる彼女を前に、どうしようかと悩んでもしょうがないではないか。
「じゃ、首に手を回して」
 言われたとおり、俺の方へ腕を伸ばす彼女。
(え? 両腕?)
 片腕だろうと思っていたが、両腕が伸びてきたのは意外だった。
 彼女が首の後ろで手を握ったように感じたので、ゆっくりと彼女を抱え上げようとした。
 だが、首に手を回すだけでは、彼女の体が俺の腕から落ちそうになることが分かった。
「ちょっと怖い」
 彼女はそう言って、俺の胸の方にグッと体を押しつける。
 さらに、安定する位置を求めて半身をこちらに向け、腕を引き寄せるようにして首へしがみついてくる。
(密着しすぎ……)
 否応なしに鼓動がドクンドクンと波打つ。

 体制が整ったようなので、腰に力を入れてヨイショと立ち上がり、彼女を持ち上げた。
「キャッ」
 彼女は小声で嬉しそうに言う。
 その声に鼓動が益々早くなる。
 そのドキドキが、胸に接している彼女の柔らかい体に伝わっているのではないかと思うと、余計に顔が熱くなってきた。
 逆上(のぼ)せてフラフラしそうになりながらも、慎重に階段を降りていく。
 彼女の体があるので足下が見えないだけに、足を踏み外さないか、一段一段が恐怖だった。
 よく考えると、階段でこういう搬送は危険であるのだが、その時は彼女を助けることに夢中で気づかなかった。

 保健室まで行く間、誰もこの場を目撃しないように、と祈り続けた。
(好きでやっているんじゃない。こうしてくれと言われたからこうなっているんだ)
 と、言い訳まで考えた。
 その道のりの長く感じたこと……長く感じたこと。

 ようやくの思いで保健室にたどり着いた。幸い、途中で誰にも会わなかった。
 ドアの前で彼女を降ろす。同時に安堵の溜息をついた。
 保健室で寝ている人がいるだろうからそっとドアを開け、中にいた保険医の先生に声を掛けた。
「先生、お腹が痛いそうです」
 先生はこちらを向いて彼女を見つけると、「また?」と呆れたように言う。
「昨日も一昨日も。何食べたのかしらねぇ」
 彼女は先生を無視して、ニコニコ顔で俺に手を振ってゆっくり中に入っていった。
 笑顔に釣られてこちらも手を振った。
 そして、また顔が火照(ほて)っていくのを感じていた。

 四時限目の授業中に居眠りをしていた俺は、教師に見つかり廊下に立たされることになった。
 元の世界でもそうだったが、この世界に来ても廊下に立たされるとは、俺はどの世界へ行っても立たされる運命なのだろう。
 窓から(のぞ)くと教師はこちらを見ていないので、ここから逃げることにした。
 いないところを見つかったら、トイレに行っていたと誤魔化せばいい。
 教師たるもの、そこで漏らせとは言わないだろう。
 もちろん、俺の足はあの階段の方向を向いていた。

 階段へ近づくと、また黄色い髪の頭が見えてくるだろうと期待していた。
(そんな訳ないよな)
 期待外れかも知れないので、そう考えておけばショックも和らぐ。
 さらに近づくと、徐々に歩みが(のろ)くなった。
 今に見えてくると思ってドキドキするし、逆に、見えてこなかったらどうしようと思ってドキドキする。天秤の腕のように気持ちが揺れる。

 頭がなかなか見えてこないので、やっぱり期待外れかと思ったその時、踊り場で座り込んでいる彼女が視界に入った。
 おかしな話だが、期待していたはずなのに、視界に入ると、予想外に彼女を見つけた時のように驚いた。
(何故こうも彼女にドキドキするのだろう)
 まだ会ってから数時間しか経っていないのだが、何度も出会うので、なんだか運命的な感じがしていたからだろうか。

 彼女は、踊り場の壁を背にして両膝を立てて座っていた。
 膝上のスカートに紙を載せて何か書いている。
 その紙を見なくても、それが五線紙だと分かった。
 近づいていくと彼女が顔を上げるかと思いきや、書くことに夢中で視線を落としたままだった。
 そこで、彼女の横に少し距離を置いて座り、「やあ」と声を掛けた。
 彼女はチラッとこちらを見るが、さっきはありがとうの一言でもあるかと思いきや、五線紙に向き直り、無言でひたすら何かを書いている。
 まるで別人のようだ。
 言葉が続かないので「何してるの?」と声をかけた。
「写譜」
 彼女の口調には、声を掛けるな的な威圧感があった。
 横から(のぞ)くと、一心不乱に五線紙へ音符を埋めている。
 そのあまりの早さに、ただただ見とれるだけだった。
 置いてきぼりにされた気持ちになっている俺に早く気づいて欲しいのだが、これではしばらく彼女の心は遠くへ行ったきりで無理そうだ。
 俺は諦めて立ち上がった。

 と同時に彼女が、「終わったー!」と叫んで万歳の姿勢をした。
「ちょっと、声が大きい」
 慌てて辺りを見渡したが、人気(ひとけ)がないので安心した。
「あ、さっきはありがとね」
 彼女は外れたタイミングで感謝を伝えてきた。前もそうだった。
「保健室のこと?」
「そだよ」
 普通なら、今更言われても有り難みが半減である。
 でも、いつもの彼女に戻ってくれたのは嬉しかったので、そこは気にしなかった。
「元気になって良かった」
 再び彼女の横に少し距離を置いて座った。
 すると、彼女の方から俺との距離を詰めてくる。
 これにはさすがに焦った。

「さっき、写譜って言ってなかった?」
「ああ、みんなは作曲って言っているけど」
「作曲してたの?」
「そだよ」
「へー、すごいな」
「すごくないよ。天から降ってくる音を書き写しているだけ。だから写譜」
(……天から?)
 俺は目が点になった。
 彼女はニコッと笑う。
「雲の上で即興演奏する人の下にいる写譜師の私が、音を聞き取りながら書いていく、って感じかな」
 ますます分からないので、素朴な疑問をぶつけてみた。
「誰が即興演奏しているの?」
 彼女は困ったように言う。
「分からない。でも、天から音が聞こえてくるんだもん」

 そして、彼女は五線紙の右上に<No.250>と書く。
 それを目敏(めざと)く見つけたので聞いてみた。
「その250って何?」
「作品250」
 さっきから、彼女の言葉は謎だらけだ。
「作品って?」
「250番目に作った曲、という意味」
 彼女はポケットから折りたたんだ紙の束を取り出す。
「これが245、これが246、これが……」
 一つ一つ見せてくれるのだが、チラシや包み紙に線を引いて音符を書いているようだ。
「書きたいときに五線紙がないと、こんな紙でもいいから、ある物で書くの。だって、急がないと音が(こぼ)れるから」
 普通のことのように彼女は言うが、その普通が理解できない俺は呆れるしかなかった。

「いつから作曲しているの? いや、写譜しているの?」
「小学1年生の時から。最初はピアノ曲だけ。最初から番号ついていなかったから何曲作ったのか分からないけど、結構あるよ」
「番号つけたのはいつ頃から?」
「6年生の時から。思い出したくないイヤなことがあって、それがきっかけで歌にはまって、作った歌を数えるため番号をつけたの。今も歌ばっかり」
(歌?)
 まだ彼女のスカートの上にある<No.250>を二度見した。音符の下に小さな文字で歌詞らしいのが書いてある。
「それって歌だったの?」
「そだよ」
 彼女は五線紙を手にして立ち上がった。

 歌を作る時は作詞家がいるはずだ。
「誰かの作詞?」
 彼女はサラッと否定する。
「ううん、作詞も全部私」
(作詞も作曲も一人で??)
 驚きのあまり俺は固まっていた。
「お母さんは、交響曲を書きなさいだの協奏曲を書きなさいだの、うるさいの。でね、仕方なーく小学生の時だけ二、三十曲くらい書いたんだけど」
 彼女が口にする音楽用語がさっぱり理解できなかったが、数だけでも凄いことはなんとなく分かった。
「でもね。それ、6年生の時にぜーんぶ燃えちゃった」
(燃えた?)
 その時、火をつけられた五線譜の束と火事で燃える家の両方を連想して背筋が寒くなった。

 彼女は伸びをしながら言う。
「放課後来る?」
 いきなりの招待に驚いた。
「どこへ?」
「音楽室」
「俺が?」
「そだよ」

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