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3.トミー・チャイルド 入国審査検問所から塔に至る吊橋 その出口付近にて

 「いたっ……って危ねえ!」思わず叫んだ。
 風が止んだせいで今日の仕事ははもう終わりだと帰る途中、入国吊り橋の辺りから下層市街へと階段を降りようとしたときのことだった。橋をふらふらと渡ってきた背の高い黒髪の中年男に体をぶつけられたのだ。ただでさえ俺は体が小さいのだ。仕事柄、体を鍛えていないわけではないが体重差がありすぎる。そもそも、少し体がぶつかった程度のことがここでは死因になりかねない。
 「おい、おっさん!聞いてるのか?」四十五、六に見えるその男はまるで聞こえていないかのように、ぼうと突っ立ったままで、俺は思わず語気を強めてしまった。
 「あ……ああ、すまない」男は力なく応える。
 「おい、大丈夫か?なんかあったのか?」一瞬でも感情的になってしまったばつの悪さからか、それとも性分か、つい世話を焼くようなことを言ってしまう。
 「元気出せよ。そうだ、ダイナーに行くところだったんだ、一緒にどうだ?」二回り以上も年上の大人だったけど、その顔は悲壮感たっぷりで、ふと目を離せば谷底に消えてしまうような気がして、俺はついそう提案してしまった。
 「……いや、金がないんでな。遠慮するよ」先ほどと同じく、男はぽつりと呟く。
 「……あんた移民だろ、ここに来るまでに使い果たしちゃったのか?」俺は聞く。
 まずいことを聞いたらしい。男は一気に表情を暗くして、一瞬何かを言いかけて、でも結局何も言わなかった。
 「話してみろよ。重い話なんだろうけどさ、それならなおさら誰かに聞いてもらった方がいいんじゃないか?」まくしたてる。たぶん、放っておいたら後悔することになるような、そんな気がしたからだ。
 「それに、ここに知り合いもいないんだろ。これも何かの縁さ、俺が聞くよ」おっさんの右耳にぶら下がる一つの小さな黄色のリングを見て、俺はダメ押しとばかりにそう言った。
 「なんで私が移民で縁者がいないと分かるんだ?」一呼吸開けて、男は不思議そうに尋ねてくる。
 「なんでって、そのリングを付けたときに言われただろ?黄色のリングは“外から来た者、かつ親類縁者のいない者”だ」彼の右耳を指して言う。
 彼は驚いたように、自分の右耳を触り、そして言った。
 「いつの間にこんな物を付けられたんだ」なんともまあ、呆れた話だ。何があったかは知らないが、かなり痛かったはずだろうに、やっと気づいたという顔でそう言う。
 「ほら、俺の耳にも赤いリングがぶら下がってるだろ。ちなみに、リングの数が市民階級だ」やや首を傾け、耳を男に突き出しながら、そう言う。
 「なるほど、そうとう呆けていたようだ。そうか、そうだな。これも何かの縁か、私の情けない話を聞いてもらおうか」少し考えた後、意を決したように男は言った。
 「いや、待った。その様子だと検問所で何も話を聞いていなかったんだろ。家のことも仕事のことも知らないんじゃないか?まずは住宅局と就業局に連れてってやるよ、話はその道中で聞くからさ」俺はそう言って、男を促す。
 彼は、最初に見たときより、やや顔色がよくなったように見える。やはり、誰かと話をするだけでも変わるものだ。そんな彼を見てみると、最初に抱いた印象のような年齢ではないのかもしれない、と思った。俺の提案に同意した彼とともに、降りてきた階段を住宅局に向けて一段二段と上りはじめる。
 ──あ、そういえば。
 「そういえば、まだ名前を言ってなかったな。私はモチヅキ・ヨシキという。君は?」聞こうとした矢先に、同じ質問をされた。案外、気が合うのかもしれない。間違いなく初めて会う人間だろうに、そのとき俺はなぜだか懐かしいような感覚を覚えた。
 「オーケー、ヨシキ。俺はトミー、トミー・チャイルドだ。よろしくな」俺は、振り返りながら彼にそう言った。

 移民を案内するのは初めてだ。勝手は分からないが、仕事と家があればここではやっていける。だから、とりあえずは就業局と住宅局だ。服は今着ているものがあるし、入国できた以上身体届はそう急ぐものではない。生活しながら、追々でいいだろう。
 就業局も住宅局も上層市街のさらに上のほうだ。どれだけ天気のいい日でも雲がかかっていて、そのため日中でも道の端を示すための灯が焚かれているし、そもそも道幅が下層・中層の倍以上ある。
 石レンガを敷き詰めた薄いグレーの石畳の道をヨシキと歩く。左には集合住戸の入り口や岩壁や店舗がある。安全確保のため、それらの入り口は道から一メートルほど奥まったところに設けられている。入り口の戸がすべて内開きなのも道を歩く人の安全のためだ。そして、右には何もない。いや、正確には手すりらしきものはあるものの、中層・下層市街のこのあたりのそれは非常に頼りないものだった。
 この国は背の高い太い柱のような山を開発してつくられている。道は岩壁に深く孔を開け、そこに長い鉄パイプを挿して伸ばして、板を渡した上に石積みで造っている。まるで支柱の太い大きな螺旋階段のようにぐるぐると渦を巻くように上に向かって道は伸びている。もちろん、そこらにある螺旋階段のように曲率の大きさを認識できるほどカーヴはきつくない。誰がどうやって計ったかは知らないが、塔の周長は五千メートルほどもあるらしい。だから、それほど頻繁に階段を上るようなことはない。
 俺は念のためヨシキを左にやり、右側を歩く。この国で15年暮らしているが、転落事故は後を絶たない。塔とは呼ばれているものの、岩壁は完全な垂直ではないから、道から外れてしまっても運がよければ下階の道に落ちて大怪我をするだけだ。落ちるだけとはいっても高低差は大きいから、打ち所が悪かったり年齢によっては死ぬこともあった。運悪く、どこにも引っかからなければ地面まで真っ逆さまだ。この場合は打ち所が良かろうが働き盛りだろうが十中八九死ぬ。このため、下層市街に行くほど手すりは貧弱なものになっていく。下層であれば生き残る可能性が多少があり、改装と強化を図らねばならない上層を優先する必要があるためだった。
 「それで?ヨシキ、何があったか聞かせてもらおうか」先はまだ長い。話をしながらじゃないと退屈だ。
 「ああ、そうだったな。少し長くなるが聞いてもらおうか」ヨシキは眉間にしわを寄せて、苦々しげに言った。
 そうして俺はこの不幸な移民の話を聞くことになったのだった。

 「そりゃあ、なんていうか、ご愁傷様、だな」しまった、思った以上にヘビィな話だった。ここに来るやつらはみんな、何かしら抱えて故郷を出てきたやつらばかりだ。ヨシキが抱えていた何かしらは、ここに着いた早々捨てさせられたわけだ。
 何かを抱えるのは決して悪いことじゃないと思う。どれだけ多くの重いものを持っていても、この国で少しづつでもそれらを手放していけばいいだけだからだ。自分に折り合いをつけて納得して少しづつ捨てていく。そうするから、新しいなにかを持つことができるようになるんだと思う。でも、ヨシキはいっぺんに捨てさせられた。故郷での思いとか夢とか、過去の積み重ねを新たな生活にのせて生きていくはずだったのに、それを否定されたわけだ。ただ金を奪われたわけじゃない。ただ騙されたわけじゃない。中級市民としての生活が惜しいわけでもないだろう。今のヨシキからしたら、これまでとこれからを奪われたのと同じだ。
 そう考えると、無性に腹立たしくなってきた。俺だって夢を持って生きているからだ。そのために日々努力している。努力なしに上に行こうとしたことは彼の落ち度だが、だからといって騙していいわけじゃない。まして、彼の思いを聞いた上でそれを利用してまで奪うべき金なんてあるはずがない。この事件に俺は完全に無関係だろう。だが、ヨシキの力になってやりたいと思った。犯人を捕まえて、なぜそんなことができるのかと訊きたい。そういう思いが、沸きあがってきて思わず声が大きくなってしまう。
 「で、どうするんだよ。犯人を捕まえるんだろ?」俺はヨシキに尋ねる。
 「捕まえて、どうするかな。金が惜しいわけじゃないんだ、職があればいつだって稼げるしな」ヨシキは力なく答える。
 「なに言ってるんだよ、捕まえるのが大事なんだ。もう被害を出さないため、とかそういう善人ぶった話じゃないぞ。お前がこれからここで生きていくために捕まえるんだ。そうでなきゃお前、どれだけ金と地位を得て最初の目的を達成できてもずっと後悔していくことになるよ。だから、絶対にそいつを捕まえなくちゃ駄目だ」思わず立ち止まって熱く語ってしまった。でも、だからこそ本心だ。
 物でもなんでも、大事なものを他人に無理やり捨てられると、それ以降すべてに執着がなくなってしまうらしい。自分で捨てるのにもためらいが無くなったり、そもそも新しく持とうとすらしなくなる。持つことが苦痛になるんだそうだ。
 夢や思いを持とうとしなくなる。考えるだけで恐ろしい話だ。そんなのは生きているとはいわない。
 買いなおせるものなら買えばいい。でも、思いは買うことはできない。だったら、捨てさせられたのなら拾いに行けばいい。それが犯人を捕まえることだ。それがヨシキの救済になるんだと思う。
 「協力するよ、俺も一緒にいく」思わずそう言っていた。だが、後悔はない。俺は体の奥からふつふつと湧いてくる怒りと正義感からか、完全にその気になっていた。
 「……驚いたな。誰かのために何かしようっていうやつが今どきいるなんてな」熱くなった俺とは裏腹に、ヨシキは眠そうな半目でぼそりと言った。
 「もちろん、あんたのためだけじゃないさ。こんな酷いことの出来るやつをとっちめてやりたいってのもある。さっきは善人ぶった話じゃないと言ったけど、理由のひとつにはそんな正義感もあるんだ。だから協力させてほしい」正義感、これも本心だ。
 「──そうだな。トミーの言うとおりだと思うよ。捕まえて、取り戻さなきゃな」ヨシキは強く言った。
 彼は何を取り戻すとは言わなかった。でも、考えていることは同じだと思う。彼の言葉はそんな決心を秘めている気がした。
 上(この国においては比喩ではない)を目指す向上心と努力。命ある限り精一杯生きていくこと。決して諦めないこと。そして新しく生み出すこと。それがこの国が必要としているものだ。ヨシキもかつては間違いなく持っていたであろうその決心をひとまずは取り戻したのだ。少なくとも、そう俺には思えた。

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