バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

1.モチヅキ・ヨシキ 入国審査検問所にて

 「次の者、前へ」
 そう呼ばれて、私の前の男が動き出した。
 もう、1時間以上も待ち続けているものの、それもようやく終わりそうだ。朝も早いうちに到着したというのに、すでにそこは入国を待つ人が長い列を作っていて、早々に暗い気持ちになったものだ。しかし、これで何度目か分からないため息も最後になることだろう。そもそも荷馬車で数日揺られた末の行列であって、もはや脚は棒切れを通り越してまるで失くしてしまったかのように感覚がない。当初は物珍しく感じていた検問所の頑健な造りも、その洗練されたデザインも、あるいは豪奢な内装もいまやどうでもいい。
 最低限の衣職住医を提供してくれるこの国は、周辺にいくつかある国々の中でもひと際大きく、それゆえに人気で方々からの移住が後を絶たない。長い列を表現するときに蛇のようだとかいうことがあるが、ここにいる人の群れはあたかも海のようだ。もちろん私もその移民の中の一人であって、育ててもらった家を引き払い生まれ故郷を捨てた者の一人である。
 そのとき、空気を過剰に振動させるような耳障りなブザー音がホールに響いた。私の前で審査を受けていた男が崩れるようにへたりこむ。
 やはり、また駄目だったようだ。
 脂汗を浮かべ、青い顔をした男は屈強な男たちに挟まれて、なかば運ばれるように力ない足取りで出て行った。
 「次の者、前へ」
 ようやく私の順番だ。
 ここに来てからというもの、審査を抜けられた者を10人と見ていない。
 高い軍事力を持つわけではないこの国にとって、外からの侵入者は最も警戒すべきであって、この対応は頷けるものではある。しかし、ここに住む人々にとっては誇らしいシステムも外から見ればやり過ぎの感は否めない。
 私はとある理由からこの審査やその結果にそこまで悲観していないものの、長く待たされたこともあって否定的にそう捉えた。
 私はカウンターの前に立ち、ガラスの向こうの係官にシートを渡す。シートには氏名だの年齢だのといった個人情報を事前に記述してあった。係官はそれを一瞥していったん席を外して、戻ってきたときには数枚のレポート用紙を手にしていた。
 あれが、この国の管理する私の情報であるらしい。
 「お名前をどうぞ」係官は抑揚無く言った。
 「シートに書いてあるとおりです」私はそう答えた。
 「質問に正しく答えてください。あなたの名前はなんですか?」係官は諌めるように再びそう言った。
 なるほど、口頭での質問で情報と矛盾がないかを探るのか。
 「モチヅキ・ヨシキです」今度は素直にそう答える。
 「分かりました。次は生年月日と年齢を教えてください」係官は言った。
 「太陽暦1017年12月9日生まれ、35歳です」私は答える。
 こんな歳にもなって定職もなく、それを理由に移民になるのも恥ずかしいことだと思いつつ村を出たものの、ふと後ろを振り返れば順番を待っているのは同年代以上に見える者たちばかりだった。子を連れている者もいるが、やはり私と同じような年頃の者たちだ。どの地域でも食糧難・職業難に喘いでいる様で、年を食った者は肉体労働にも就きづらくなるから、考えてみればそれは当然のことのように思える。それでもこの状況を見ると気持ちが落ち込んだ。
 「分かりました」係官は眉ひとつ動かさずに質問を続ける。「次はあなたの家族についてです。現在、この国にあなたと血縁関係のある者はいますか?」
 「今はおりません。ですが、亡くなった祖父母はこの国の出身だと聞いています」過去の籍は無関係と知りつつも、下心から私はそう答えた。

 そう、私の祖父はこの国の出身だ。上級軍人だったと聞いている。祖父母が国を出た理由は知らないが、今でも彼らのことを知る人がいるかもしれない。
 数ヶ月前に村の食堂で出会った男にそう話したところ、どうやら彼は祖父の知り合いであるらしかった。
 年の頃は70歳台の後半くらいで、ぼろの羽織をまとっていて額が広く前歯のない男だった。
 この見るからに怪しい風体の男は、私に一杯のビールを奢り国にいた頃の祖父についての思い出を語ってくれた。
 最初は怪しんでいた私だったが、彼の話すその内容が私のよく知る祖父像と似通っていくにつれ、この男を信用するようになっていた。祖母のことは知らぬようだったが、祖母はもともと下級市民であったと聞いているから接点がなかったのだろうと思う。
 男は交易商をしているとのことだった。この国は入国だけでなく、出国にも厳しいと祖父が話していたのを思い出す。それがたとえ交易という”国のため”の仕事であったとしても、許可無くしては間単に国を出ることは出来ないそうだ。おそらく国防などの情報や技術の漏洩を危惧してのことと思われる。
 3度ほど食堂で顔を合わせた私たちだったが、彼は毎回ビールを一杯奢ってくれた。あるとき、男は警戒したように突然周囲を見回したかと思うと、私の耳元へ口を寄せすばやくこう言った。
 「俺が口添えしてやるからこっちに移ってこないか?」
 「口添えといっても、あの国の審査は厳しいと聞いていますよ。そう簡単にいくんですか?」私は尋ねた。
 「もちろん、いくら俺が交易商だとはいえそんな簡単に済む話じゃあない。だから謝礼は貰うつもりだ」男は言った。
 そういう話か。身も蓋もない言葉だが、分かりやすい話で結構だ。要するに国に入る手引きをしてやるから金をよこせ、という話らしい。
 「当然、ばれたらやばい話だ。だが、いくら蓄えがあるといってもこのままじゃあそのうち食べられなくなる日が来る。この村でだらだらと短い一生を終えたくないだろう?それに、あの爺の孫だというから特別に話をしているんだ」口元を歪ませながら男はそう言う。
 「お前の言うとおりあの国の入国審査は厳しいぞ、爺に聞いたこともあるだろう。無職のお前のじゃあ、たとえ審査をパスして正規のルートで入国できたとしても下級市民だ。日がな一日地面の上で道路を見つめて金を貰いたいのか」男は続けざまにそう言った。
 道路を見つめるというのがどういう仕事なのか興味を惹かれたものの、どうやら下級市民の仕事であるらしいことは分かったので、男の次の言葉を待つことにした。
 「俺が話をすれば、どんなに悪くとも中級市民にはなれるはずだ。それに加えてお前の場合は過去の血縁者に上級軍人がいるんだから、ほかのやつに比べて話は通しやすい」さて、どうする?と再び尋ねられる。
 この村には恩がある。幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育ててもらった折、村の者にも多分に助けてもらった。その恩に報いるため、祖父母亡き後も、職を失ってさえ村を出るまいと生きてきた。ほかの国に移り住んだとて、今より生活が豊かになるとも限らない。そう考えると、移住など不要な冒険であるように思えた。しかし、かつての恩人たちが生活苦から次々と村を出て行くさまを思い出して、この目の前の老人の言うことを信じてみてもいいのではないかという考えがよぎる。そこまで考えて、もしやこの目の前の老人も私と同じなのではないか、と空想した。地位と金を得て、世話になった者たちやその血縁者を国に迎え入れているのではないか、と。行き過ぎた妄想だろうが、そうであったらいいのにと考えるほどには、そのときの私は彼のことを気に入っていた。

 そうして、住み慣れた家を売った金を男に渡し、その見返りにメモ片を受け取って私はこの国にやってきた。
 「わかりました」係官はそう言って、少し考えるような素振りをした後、続けてこう言った。
 「では次に進んでください」
 ピーという甲高い音がなった後、私の左にあったゲートがひとりでに開いた。
 私はほっと胸をなでおろした。
 正直に言って、今の今まであの男のことを疑う気持ちは消えなかった。
 しかし、おそらく彼は本物だったのだろう。
 ここまでの疲れも忘れ、私は軽い足取りでゲートを抜ける。
 ゲートを抜け、扉をくぐったその先にあったのは水盤だった。
 この国がここまで発展し、勢力を大きくしてこられたのは、水を含む豊富な資源を有しているからだろう。
 私の村では生活用水を確保するのにも精一杯だったというのに。
 水盤は正方形で一辺は3メートル程度だ。浅く、大人の足首程度の深さしかない。水は清純で、底に敷かれた砂利の一粒一粒まで良く見える。その四隅には太く四角い柱が立っている。柱は黒く、燻した石レンガを積んでいるらしかった。
 上を見上げるとその燻し石レンガの柱がどこまでも伸びている。時折、横方向に横架材が伸びて、石を積んでいるだけの空間を頑健に保っている。私がここに到着して検問所を見たときにまず思ったのが、どのようにしてこれだけ大きな建物を造り上げたのか、だった。私はの村では丸太組みの建物や切り出した自然石を積み上げた建物しか見たことがない。木では造れる建物のサイズに限度があり、広い空間を柱なしで支えることは出来なかったし、石積みの建物は熟練の技術を持った一握りの石工しか建てることができなかった。何から何までレベルが違う。今日からこのような国の一員なのだと思うと、心が晴れやかになるのが分かった。
 周囲に扉以外の開口部はないが、光が差しているのを見ると上方には窓があるのだろう。上から差し込む光が、水に反射して神聖な雰囲気を醸し出している。
 水盤の脇から階段が出ていた。
 もしや、この階段を登っていけっていうのか?
 忘れたはずの疲労感が一気に脚に帰ってくる。
 観念した私は階段を登り始める。階段は4つの柱の周りを同じテンポでぐるぐると登っていて、水盤と同じようにこの空間も正方形であるらしい。
 予想通り、上階の壁には一定の間隔で窓が開いていた。壁一面に対して、2x3メートルほどもある大きな縦長の開口が3箇所並んでいる。こんなにも大きな一枚ガラスを見るのはもちろん初めてで、この国が資源だけでなく技術においても優れているのだということがよく分かる。また、石レンガの柱をよく見てみると、レンガの間に白く硬い泥のようなものが詰まっているのを発見した。これがレンガ同士の隙間を流動的に埋めているのか、あるいは接着剤の役割を持っているのだろう。新たな材料の開発にも余念が無いようで、ますます感情が高ぶってくる。
 ふと見ると、壁の上のほうに周囲とは違うガラスが嵌っているのが目に付いた。黒く色が付いていて、向こう側がよく見えない。
 奥に人の気配がある。
 おそらくこちらを監視しているのだろう。おかしな素振りを見せれば、すぐさま上に報告が行って追い出されてしまうに違いない。
 ようやく最上階に着いた。137段だった。長い階段を見ると段数を数えてしまう。子供の頃からの癖だった。
 上にも広いホールがあって、下と同じようにゲートとカウンターが並んでいる。カウンターのガラスの奥には男性の係官がいて、私を見ていた。
 「こちらへどうぞ」係官は言った。
 まだ何かするようだった。私は彼から目線をはずさないよう、努めて冷静に彼の前まで歩いていった。
 彼も下の係官と同じように数枚のレポート用紙を持っている。
 「入国おめでとうございます。ここではあなたの身分を決めます。身分によって衣職住医のグレードが決定されます。つまり、身分が高ければ良い服を着て、良い職に就け、良い家に住めるということです」係官は言って、さらに手元のレポート用紙に目を落とし、そこに書いてあるのであろう文章を読み上げる。
 「モチヅキ・ヨシキさんは太陽暦1017年12月9日生まれの35歳。南方の村出身、無職。以前は建設関係の肉体労働に従事していたが、景気の悪化により新規の建設が減少したため失職。両親とは幼い頃に死別し祖父母に育てられるも、両者とも逝去。婚暦はなく、扶養の義務のある家族も無し。犯歴もなし。──間違いはありませんね?」
 驚いた。ここまで調べてられているのか、と。しかし、そうであるなら下階でやったことというのはなんなのか。完全に身分証明だけのためのものではないか。そして、それすらも通過できない者が大多数だったというのはどういうことなのか。
 「モチヅキさん、どうかされましたか?間違いがありましたか?」係官は何事もないような顔で再び訊いた。
 「……いえ、少し驚いただけです。間違いはありません」私はやっとのことでそれだけを言った。
 「そうですか、では続けます。──素行に特段の問題はなく、感染率の高い病歴もない。よって入国に支障は無いものと判断する」係官は流れるように言う。そして彼はレポート用紙から目を離し、私の目をまっすぐ見て続けてこう言った。
 「これらの情報を鑑みて、当国はあなたを下級市民として迎え入れます」係官は、はっきりと私にそう告げたのだった。
 私は狼狽した。
 話が通っていないのか。しばらく呆然とする。
 「は、話が来ていませんか?私は元上級軍人 イシグス・カノンの孫のモチヅキ・ヨシキです」喉から声を絞り出して、ようやく、そう係官に尋ねることができた。
 「話……というのは分かりかねますが、血縁については把握しております。54年前に出国されたイシグス・カノン氏とヤン・リャンホァ女史のご夫婦ですね。しかしわが国では、2親等以内での血縁関係者が、いま現在わが国の籍を有しているかでしか判断されません」係官は私を諭すように言う。
 ここに至って私はメモのことを思い出した。慌てて懐を漁って、軽く震える手で係官に手渡す。
 あの男から受け取ったメモ片だ。万が一、不備があったら使うように言われていた。
 係官は不審げにメモを見ている。ふと、係官はなるほど合点がいったという表情になる。そして、そのままの顔でこちらを見てきっぱりと言った。
 「このメモには何の意味もありません。この国の交易商だという男に話を持ちかけられたのでしょう?少し前から偶にある詐欺事件ですよ。あなたは騙されたのです」一気に鼓動が速くなる。内容とあいまって、その言葉は私には氷のナイフのようだった。まるで、それで眉間を突き刺されたかのような感覚があった。冷えた刃物が頭の中に侵入してくる幻想と、しかし、確かな痛みがあった。
 「以前の事件のあとに当局の捜査がありましたが、交易商の中にそれらしい男はいませんでした。おそらく、秘密の抜け道のようなものを知っている下級市民の仕業だと思われます。国防の観点から見て非常によろしくないことなので、もしこれからの生活の中で犯人を知ることがあればぜひ教えて頂きたい。──では続いて国内でのことですが……」係官は続けて何かを言っている。しかし、私はすでに話のほとんどを聞いてはいなかった。
 ああ、私は騙されたのだ。あの小悪党に金を奪われたことが、それほどの痛みを私にもたらしている訳ではない。その金を得るために祖父母と暮らしたあの家を売ったという事実が、私に深い傷を与えた。私を助けてくれた恩人たちに報いることができなくなったという事実が、まるで蛇のように両足に纏わりついて私を暗い沼へ引きずり込んだ。卑劣な手段を使おうとした、その罰が当たったのだ。
 係官に促されるまま、ふらふらと歩みを進める。先ほどまでいやというほど見てきた彼らのことを思い出す。入国できなかった彼らだ。今の私は、彼らとは明らかに逆の立場のはずだった。しかし、その風体はここから引きずり出されていった者たちとさほど変わらないように思える。
 子供の頃、祖父母が生きていた頃、二人は私にこの国の話をよく話してくれたのを思い出す。たしか、検問所から"塔"に吊橋がかかっているということだった。そこから見える“塔”の雄大な姿は忘れることができない、といったようなことも言っていた。祖父母がこの国のことを悪く言うのを、私は聞いたことがなかった。そんなふたりがこの国を離れることになった理由は知らないし興味もない。ただ、私は彼らの話を聞くのが好きだった。話をしているときのふたりは幸せそうだったからだ。

 だが、私の真っ暗になった目の前はそれらを見ることはなかった。

しおり