24話
葦原は驚愕の眼で建早を見つめていた。灰皿の上に煙草を押し付けて身を乗り出すと、葦原は建早の肩をぎゅっと掴んだ。
「先輩……!」
言葉が詰まる。何から話せばいいのか、わからない。
「俺……!俺……!」
あっちの世界とはなんだろう。話によれば、イツキはそこからの使者だ。監視者はそこからやって来たのか?事件が起きたことは葦原も知っていた。だが、監視者のことは知らなかった。何故政府は監視者のことを世間に、末端の世界観福祉士にすら隠している?
「俺も……理世さんに会いました!」
予想外の言葉が、口から飛び出す。こんなことを言うつもりではなかったのに、一番に口をついて出てしまった。
「あの公園で、理世さんに会ったんです!」
建早は目を丸くして、吸っていた煙草を注意深く指で摘まむと、下した。
そして、おもむろに微笑して、口を開いた。
「そうか……お前も理世の世界観を見たんだな。いや、見てくれた」
建早の声には、どこか安堵にも似た柔らかさがあった。その瞳が、すっと逸らされ、夜景を見つめる。葦原も、彼の肩から手を離した。
「葦原……お前に、話しておくべきことがある」
葦原はごくりと唾を飲み込んだ。冷たい夜風が二人の間をすり抜ける。
「……まず、監視者ってのはな」
建早は、火の消えた煙草を指で弄びながら、ぽつりぽつりと続けた。
「簡単に言えば……《《人類が認知の暴走を起こさないように》》、裏から制御してる存在だ」
「……え」
「二十年前、理世の力が発現して、世界が認知の可視化に晒されたとき、社会は、パニック寸前だった。
《《内面が見える》》ってのはな、自由じゃない。暴力だ。混乱だ。恐怖だ」
建早は遠い目をしていた。
「だから政府は、速やかに裏交渉に応じた。監視者とのな」
「交渉……?」
「認知を可視化する技術、発現個体、それに対応する制度。本来ならすべて、世界に公表されるべきだった。でも、監視者は言ったんだ。《《開示すれば、人類は自壊する》》ってな」
建早は、静かに言葉を重ねた。
「だから政府は選んだ。《《何も起きなかったこと》》にする道を。認知可視化は自然現象の一部。超常存在もいない。表で世界観福祉士みたいな現場職を作って、問題が起きたら、対処すればいい」
建早は、煙草を手の中で潰した。ぐしゃりと煙草が歪む。
「……末端の福祉士にすら真実を教えなかったのは、少しでも《《真実》》を知る人間が多ければ、その情報がどこかで《《現実化》》するからだ。認知は連鎖する。共鳴する。だから……隠した。一部の世界観福祉士だけが、守秘義務を課されてこの事実を知っている」
「じゃあ、理世さんが行ったあっちの世界……って何なんですか?」
葦原の問いに、建早はゆっくりと答えた。
「……あそこは、“人類の認知から見放された場所”だ。存在はしてる。だけど、誰も“見ていない”。誰も聞かない、誰も覚えていない、そんな認知の断片が沈む“境界層”」
「理世さんは、そこに……」
「ああ。監視者は、理世を“そこへ落とす”選択肢を提示した。撃たれて、消されるか。誰にも迷惑をかけず、虚無界にただ存在するか」
建早は低く、苦しげに息を吐いた。
「……理世は、後者を選んだ」
沈黙が流れる。
夜の街が、遠くで息づいている。葦原は、胸の奥をかきむしられるような痛みを覚えていた。
「……俺、知らなかった。そんなこと、何も……」
「いいんだ、葦原。知らなかったからこそ、お前は理世を……見てくれたんだ」
建早は、かすかに笑った。
「先輩!俺……!」
葦原が立ち上がる。建早は、少し驚いて彼を見上げた。
「俺……理世さんを助けたいです!」
建早が、目を丸くして聞き返す。
「理世を……助ける……?」
「はい!」
建早が、困惑した顔で葦原を見つめている。それはそうだろう。理世を助けると言ったって、荒唐無稽な話だ。
「どうするんだ、それ」
「わかりません」
建早が、ぷっと吹きだす。クックッと、建早が、額に手を置いて肩を震わせて笑っている。
(あー、こんな顔で笑うんだな……)
愉快そうにひとしきり笑うと、建早はちょっと涙目になった目を拭って言った。
「わかりません、か。お前らしい」
「俺らしい……?」
「いや、いい。俺は、今まで理世を助け出せるとすら思わなかった。お前は、そうじゃなかった……そうだな、理世は、助けられるかも知れないんだ」
葦原は、うなずいてぐっと拳を握った。
「先輩の話を聞くかぎりなら、この世界は理世さんの犠牲の上に成り立っている。それで平和ならいいって思う人、いるかもしれないけど、俺は、そんなの嫌だ」
「ああ……」
「方法はわからないけど、絶対助けたい。真剣にそう思います」
理世との出会いは、葦原にとって、ほんの数分の出来事だ。しかし、その出会いは、葦原の人生を変える……世界観福祉士になりたいと思うほどの、劇的なものだった。
通常、個々の世界観は互いの干渉を受けず、交わらない。だが理世は違った。彼女の世界観は、葦原の世界観に変化をもたらした。
理世の影響を受けて、彼女の花は、今も一輪、葦原の頭上で咲き続けている。
(この花を見て、この世界で微笑む理世さんが見たい)
これが、葦原の願いだった。それだけで、理世を救出する理由には十分だ。
「しかし……」
笑うのを止めて、建早が鋭い目つきで葦原を見る。
「理世をこちらの世界に呼び戻せば、どんなことが起こるかわからないぞ」
「承知の上です」
「世界が、終わるかも知れない」
「じゃあ、また始めたらいい」
「ハッ!」
短く笑い声をたてて、建早が破顔した。
「お前ってやつは、本当に……」
建早が立ち上がり、葦原の肩を抱く。
「やってやろうじゃないか。俺たちで」
「……はい!」
桜の花びらが散っていく。
二人を包み込んで、アパートの夜は更けて行った。


