20話
帰り道。
「先輩!大丈夫ですか!?」
「うう……」
葦原は、建早に肩を貸しながら歩いていた。建早の脚はもつれ、千鳥足だ。
(先輩の家、どこだっけ)
住所がわからない。しまった。と葦原は思った。こうなれば、自分のアパートに彼を連れて行こう。
「俺んち近くですから、休んでいってくださいね」
「……」
酒の味が嫌いと言っていたが、普通に酒が弱いらしい。この先輩は。
葦原は、彼の腰を抱え直しながら夜道を歩いていた。
「大変そうだね」
ふっと、声をかけられる。道の先、電灯の下に、誰かが立っていた。
葦原が目を眇める。銀色の頭髪、輝く目、白い肌、水干のような服装。
「イツキ……くん……!」
思わず名前を口にした葦原に、イツキは微笑んで答えた。
「会えてうれしいよ。どうしたの、それ?」
「いや、あの……先輩が酔っちゃって。今から俺の部屋に……」
建早の肩を支え直しながら、葦原ははっとした。だいたい、彼は何なのだろう。監視者とは、誰のことなのか。どうして世界観の中へ自由に出入りできていたのか。
(彼は、人間なのか?)
イツキはちらりと建早に目をやった。
その目は、相変わらず深い井戸のように底が見えなかった。
「……人間らしい光景だ。君たち世界観福祉士にも、こういう時間があるんだね」
「まあ、仕事だけの人間じゃないですし。君こそ、どうしてここに……?」
「観測だよ。君たちがどこへ向かうのか、興味があって」
「どこって……?」
イツキはゆっくりと波がたゆたう様に葦原に近づく。音がない。イツキの歩みには、足音がなかった。
「君は今日、百足という男の<聞かれなかった声>を拾った。そしてそれを、彼の世界観の中で<聞かせ返す>ことで、救った」
「……うん。それが俺たちの仕事だから」
イツキはゆっくりと首を傾げた。
「でも、それは同時に、<聞かなくてよかった沈黙>を掘り起こしたことでもある。君は、世界が封じた記憶の蓋を、開けようとした。君の<聞く力>が、やがて世界の均衡を壊す可能性があるとは思わない?」
葦原は一瞬、足を止めた。
「……それでも、俺は……」
言いかけて、葦原は建早の重みを感じた。
肩に預けられたこの体温が、彼の言葉の背中を押した。
「俺は、誰かが黙ったままでいることの方が、ずっと怖いです」
イツキは目を細め、微笑んだ。
「そう。だから君は、危うい。でも……僕は、そういう君を面白いと思っているよ」
彼は歩道の先へ視線を投げた。風が吹き、街灯がかすかに揺れる。
「理世との邂逅は世界観の融合をもたらす。それは、個の死と境界の融解。本当にそれを望むのか、君自身の答えを、そのうち聞かせてね」
言い残すと、イツキはそのまま路地の奥へと歩き出す。
「ま……っ!」
葦原が言葉をかけようとしたときには、すでにその白い影は、夜の闇に溶けて消えてしまった。
微かに、建早が腕の中で呻いた。
「……アイツと……話したのか……?」
「先輩!聞いてたんですね!」
「最初から聞いて……うっぷ……!」
顔面蒼白で建早がえずく。
「うわっ!俺の家行きましょう!」
葦原は慌てて建早を引きずりながら、また歩き出した。
その胸の奥で、何かが静かにざわめいていた。


