18話
リンク解除の合図とともに、葦原はゆっくりと目を開けた。
視界の輪郭が戻ってくる。天井の木目、静かな空気、小さく響く時計の音。
そこは、百足敬之助の自宅……現実世界だった。
隣では建早が、すでに端末で世界観の安定値を確認している。
「数値は正常だ。異常なし。認知層の暴走は完全に収束した」
百足はベッドの上に横たわったまま、おぼろげに目を開けて言った。
「……すっきりしたな……」
葦原がそっと顔をのぞきこむ。
百足の頭上に浮かぶ世界観は、以前のような入り組んだ浮遊都市ではなくなっていた。
彼の世界観は、丘の上にある、多層的に積み上げられた夕焼けの街に変化していた。
そこで、それぞれの音……過去の声、家族の声、生徒の声、幼い自分の声が、穏やかに交差しながら流れている。
それらは、響き合い、聞こえ合い、調和したまま彼の<内面>として存在している。
葦原はその世界観を見つめながら思った。
(百足敬之助の世界観に“複数の声”が混在していたのは、彼が「聞くこと」にすべてを捧げ、自分の声を封じ続けてきたからだ)
教師として、生徒の声を。
父として、家族の声を。
戦災孤児として、沈黙の記憶の中に封じた<幼い自分の声>さえも、彼は背負ってきた。
彼にとって<声>とは、誰かのためにあるものだった。
そうして、世界観が他者の声でいっぱいになり、世界観が混線した。
一方で抑圧され、聞かれることのなかった<自身の声>が溜まりに溜まって、下層に押し込められていた。
だが今ようやく、自分で、<自分の声>を他者に話すことを許せたのだ。
美代が、そっと百足の手を取る。
「お父さん……」
百足は、ゆっくりと視線を彼女へと向けた。以前のような焦点の合わない目ではない。
今、彼は確かに、今ここを見ていた。
「……静かだな」
「え……?」
「……ずっと、声がうるさかった。けれど、今は……全部、ちゃんと聞こえる……全部、わしの声だとわかるよ……」
葦原は思わず、息をのんだ。
その言葉は、彼が<過去と他者のために捧げすぎて失ったもの>を、ようやく取り戻した証だった。建早が静かに言った。
「認知同調レベル、正常に戻ったな。あれだけ混線していたのに、まるで音楽みたいに整ってる」
「……声って、不思議ですね」
葦原がつぶやく。
「<聞かれなかった>声があると、人は他人の声を<聞きすぎる>ようになるのかも……誰かの声で、自分を埋めようとして」
建早は何も言わなかったが、少しだけ目を細めた。
その表情には、どこか朗らかで、優しい色が宿っていた。


