17話
その時だった。
世界が、揺れた。
風が止み、空の青がピンと張りつめ、街全体が一度深く息を吸い込んだような静寂に包まれる。
建早がすばやく腕を見た。腕時計の針が振り切れている。
「出るぞ!」
瓦礫が、ガタガタと振動している。焼け焦げた防空壕の中から、風を切る轟音をあげて、何かが飛び出した。
それは、赤ん坊の頭がくっついた、巨大なムカデだった。
「これが、核だ!百足《ももたり》が一番聞かれたくなかった過去。その記憶が形を取るぞ!」
「……この子が……!百足さんの歪みの核……!」
赤ん坊の口は、縫い留めてあり、硬く閉じていた。ムカデ赤子は、30対の足を蠢かせて二人に襲い掛かる。
「うわっ!」
頭が突っ込んできて、葦原が身を捩る。寸での所で避けた。建早が距離を取りながら、背中に背負っていたライフルでムカデ赤子の頭を狙って発砲した。弾が飛び出し、ムカデ赤子がそちらを向く。弾がそれて、ムカデ赤子の口に命中した。
耳をつんざく様な高い悲鳴があがる。ムカデ赤子が咆哮している。見ると、縫い留められた部分が千切れて、口が開きかけていた。
その口端からは、どろどろとした紫色の粘液が零れ落ち始めている。明らかに触れてはならないであろう色だ。ツンとした刺激臭が辺りに立ち込める。粘液が滴って、落ちた。まともに粘液を受けた鉄骨が、じゅわりと溶け出す。
毒だ。
ムカデ赤子がなおも頭を振る。粘液が飛び散り、こちらへ飛んでくる。
「葦原、隠れろッ!」
葦原と建早は互い違いの方向へ走り出した。瓦礫に身を隠し、粘液をやり過ごす。
蹲って、葦原は隙を伺うが、粘液は止めどなく飛散して雨のように降り注いでいる。
盾にしていた壁が、じわりと溶けていく。
(このままじゃやられる)
葦原は、何処かに隠れているであろう建早に向かって、大声で叫んだ。
「建早さん!!戸籍謄本!早く!!」
「それが何だってんだ!」
素早く身を乗り出し、建早がライフルでもう一度ムカデ赤子の頭を狙う。撃鉄が落ち発砲音がして、ムカデ赤子の頭に弾が命中して爆ぜた。ムカデ赤子が叫びながら身を丸める。
「撃たないで!確かめたいんです!確信が持てればなんとかできます!!」
「チ……ッ!……わかった……」
建早は、瓦礫の後ろに隠れると、自身の端末を取り出して、役所に連絡しはじめた。
「もしもし、建早だ。百足敬之助の件で……ああ、彼の戸籍謄本を出して、こちらにデータを転送してほしい。大至急!頼む!」
彼が端末を切る。データが転送され、建早がそれを読み上げる。
そこには、こう書かれていた。
氏名:百足敬之助《ももたりけいのすけ》
生年月日:六歳
出生地:不詳
父母の氏名:森本敬太 森本美予
養親:
養父:百足正雄(大正五年三月十五日生)
養母:百足かな(大正七年九月一日生)
養子縁組日:昭和二十三年四月四日
続柄:養子
記載事項:本籍地に転籍、養子縁組により入籍。
「養子……!」
葦原は目を見開いて、その声を聞いていた。そして、声を採取した背中のディクタフォンを見て、再びムカデ赤子を見上げて叫んだ。
「建早さん!東京大空襲は昭和20年!彼は……百足さんは戦災孤児です!」
「戦災孤児……!それが百足の絶対に言えなかった秘密か!」
「葦原さん!俺がこのディクタフォンに録音してある声を、彼に聞かせます!援護頼みます!」
「了解だ!」
「合図行きます!いち、にい、さん!」
葦原は、瓦礫の中から身を躍らせた。建早が駆けて来て、彼のそばにぴったりと寄り添った。
ディクタフォンが逆回転し、送話口から声がほとばしる。それは最早、拾った時と同じものではなくなっていた。
『僕は……僕は悲しかった!お母さんが死んで!誰からも見向きもされない孤児になって!』
ムカデ赤子が、丸めていた背を伸ばして、叫び声と共に身もだえした。
『……だれも……きいてくれなかった……!』
『なにもいわなければ……無い物にされてけされる……!』
『こんなみじめなこと……誰にも話せなかった!僕は!僕は!』
周囲の瓦礫が空中に浮き、録音した“声”の記憶が強制的に再生され、断片的に壊れていく。
『やめろ……きくな……もう、きかないで……!』
葦原は、ディクタフォンを強く抱きしめ、叫ぶ。
「貴方は怖かったんでしょう!?だから声を閉じ込めた。沈黙して、世界から消そうとした!でも、本当は聞いてほしかった!だから美代さんに、お母さんと同じ名前を付けたんだ!」
『……きかれるのが……いたい……』
「痛くていい! 苦しくていい!でも、ちゃんと言えたら、あなたはもう、そのときの自分じゃない!」
『……こわいよ……たすけてよ……もう、さびしいの、やだよ!』
ムカデ赤子の身体が、震えた。
全身が、徐々に崩れはじめる。
『……これ……は……』
「それがあなた自身の言葉です。ようやく今、ちゃんと誰かに届いた」
葦原の声が、温かく響く。
「僕は、あなたの声を聞いた。あなたは、確かにここで、生きていた。泣いていた。呼んでいた。叫んでいた」
ムカデの体は、ついに完全に動きを止め、ゆっくりと、ひとつの人の姿へと戻っていく。
それは、6歳の百足。
彼は、目に涙を浮かべながら、口を開いた。
「……ありがとう……きいてくれて、うれしかった……」
そして、彼の身体は光へと還り、空気に溶けるように消えていった。
世界観が再構築されていく。
黒煙と瓦礫は消え、代わりに、一本の歯車仕掛けのラジオ塔が空に浮かび上がった。
その頂には、小さなスピーカーがあり、さきほど再生した声が、静かにループしている。
だがそれはもう、<聞かれた声>として、ようやく安らかに存在していた。
もう声は、痛みだけを発するものではなくなっていた。
建早が端末を確認しながら言う。
「……認知歪み、解消確認。世界観安定。百足敬之助の世界観、回復段階に入る」
葦原は、ディクタフォンの再生を止め、胸にそっと手を当てた。
「……これで、もう……彼の声は、消えない」


