15話
ネクタイを締めた白いワイシャツに黒いアームカバー。背筋は真っすぐで、姿勢はピンと胸を張っていた。手には、黒い虫取りあみを持っている。
それは、若き日の百足敬之助だった。歳の頃は40代前半だろうか。
生徒達が、次々に百足に声をかける。
『先生、俺とうちゃんと喧嘩しちゃってさあ』
『あたし、進路をどうしたらいいか……先生どうしよう?』
『先生、僕って、生きている意味があるのかな?』
その飛んでくる言葉一つ一つを、百足が手に持った虫取りあみで捕える。彼は採った言葉を一つ一つ取り出しては、吟味しては頷いている。やがて言葉たちは、するすると百足の耳の中へ入って行く。そして、葦原の頭上に溜まって行った。
ふいに、百足が、葦原たちの方を向く。彼が、口をきいた。
『言葉を《《言う》》より《《聞く》》ことが、彼らにとって安らぎになることもある。私はそれを信じていた……』
生徒達が、安堵した声をあげて、一斉に百足に叫ぶ。
『先生!聴いていただいてありがとうございました!』
百足の頭上に浮かぶ世界観は、今や他人の声で満たされ、彼自身の苦悩や想いは、どこにも存在しない。
葦原は、すっと彼に近づいた。
「百足さん。貴方は、何故<自分の声>を発しないんですか?」
百足は、ぼんやりと葦原を見つめた。その時、教壇が音を立てて動き始めた。
「うわっ!」
驚いて、葦原が飛びのく。教壇と黒板が引っ繰り返り、世界が教室から家の居間に変わっていく。
そこには、テーブルの前に座る百足と、制服姿の少女……美代がいた。
美代は百足に向かって叫んでいる。
「父さんはどうして黙ってるの!どうして、自分のことを話さないの……!」
百足は、ただ静かにうつむいていた。
『私は“言わなければ、誰かが救われる”と信じていた。私が黙れば、生徒は安心する。家族は安心する。だから私は“自分のための声”を持たないと決めたんだ』
葦原はゆっくりと首を振った。
「……それって、誰にも貴方の声が……本当の気持ちが届かないってことじゃないですか」
『それでいい。聞く事に徹していれば、世界は回る。それが教師という、父という仕事だと、私は思っていた』
「ここに、歪みの核はないな。彼の声がない」
建早がシルクハットのつばを持って言った。彼の周りにはいつのまにか影の生徒達が集まって、物珍しそうにコートをつついたりひっぱったりしている。建早は、しっしっと手で子供たちを散らすと、葦原に言った。
「行くぞ、目指すは最下層だ」
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