第19話【謎の遺体】
遺体の正面に立ち、湊は懐中電灯の光を少しずつ動かしていく。
机に突っ伏したような姿勢。骨と皮だけになった腕が、今にも崩れ落ちそうにぶら下がっている。衣服は色褪せ、すでに原形をとどめていないが、かろうじて長袖のシャツとズボンであることがわかる。
性別──おそらく男性。
年齢は不明。頭部はほぼ白骨化し、皮膚や毛髪はほとんど残っていなかった。
「……死後、数年は経っているか」
湊の呟きに、柏原がすぐに反応した。
「もっと具体的に言えば、恐らく二年から三年ほどってところかしら」
「なぜわかる」
湊が驚きつつ問い返すと、柏原は足元に落ちていた卓上カレンダーを拾い上げた。
「これ。二〇二三年から二〇二四年のものよ。……六月十九日に丸がついてるけれど、何かの予定だったのかしら」
「ふむ……。その日付に何があったのかまでは分からないが、関連しそうなものはあるな」
湊は言いながら、白骨死体の下にかろうじて押しつぶされていた薄いノートを引き抜いた。
表紙はすでに破れかけ、インクもほとんど消えかかっている。それでも、中の文字はわずかに読み取れた。
「……日記、のようだな」
表紙には、かろうじて“記録”という二文字が残されていた。
ページを開こうとしたその瞬間、背後で小さな足音が近づく気配がした。
柏原は、湊が拾い上げたノートを横目に、机の上と足元へと視線を落とす。
空になったインク瓶、乾いたコップ、ページが破られたまま放置された本。どれも使い古された痕跡ばかりで、生活感というよりは、籠城を思わせる気配が漂っていた。
──閉じ込められていた?
それとも、ここを選んで籠もったのか?
彼女は無言のまま、遺体の腰元──ズボンのポケットに目を留めた。生地はすでに風化しているが、ふくらみの形から何かが入っているのがわかる。
「ちょっと失礼」
柏原は手袋越しにそっと取り出す。
出てきたのは、小さな銀色の鍵だった。
「……鍵、ね」
掌に乗るほどのサイズ。錆は浮いていたが、鍵山は明確で、使用可能な状態に見える。
湊が視線を上げた。
「形状からして、部屋の鍵……ではなさそうだな」
「そうね。そもそも、この屋敷の鍵はこのタイプではなかったし」
沙耶が、おずおずと口を開いた。
「そ、それなら……どこの鍵なんでしょうか? 湊さんと旦陽さんが捜索した限りでは、それっぽいものは無かったんですよね?」
「ああ。ただ、俺たちが調べたのは、まだ館全体の一部だけだ。捜索していない場所が残ってる限り、何とも言えないな」
「例えば……閉ざされた部屋、とか?」
沙耶のつぶやきに、誰も即答しなかった。
その瞬間、室内にわずかな物音が重なった。
足音──。
隠し戸の向こうから、誰かが近づいてくる気配がした。
* * *
広間には、しんとした静寂が流れていた。
理沙は、毛布をかけたまま身を起こし、周囲を見回す。
──いない。湊、柏原、沙耶。さっきまで確かに一緒にいた三人が、いつの間にか姿を消している。
理沙はソファの脇に座っていた赤坂に目をやった。
「赤坂さん、湊たちがいないの。沙耶ちゃんまで……」
「……寝たふりでもしてたのか?」
赤坂は小さく肩を竦め、立ち上がった。冗談めかしてはいたが、顔には静かな緊張が浮かんでいる。
「あいつら、どこ行ったんだ。探しに行くか」
「はい」
ふたりはライトを手に取り、並んで広間を後にした。
廊下に出た途端、理沙は軽く身震いする。夜の冷気が、ほんのわずかに重く感じられる。
静まり返った廊下を、音を立てぬよう慎重に進む。
客室の扉を順に確認しながら、角を曲がろうとしたとき──
理沙が立ち止まった。
「あの扉……開いてる」
指差した先は、地味で目立たない木扉。昼間、柏原が「ただの物置だった」と説明していた部屋だ。
「本当だな。まぁ、大体どこも開いてるが、気にはなるな」
赤坂がささやき、そっと扉に近づいた。
隙間から、かすかに光と──人の声が漏れてくる。
「この声は……あいつらか?」
理沙は頷き、意を決して扉を押し開けた。
その奥に広がっていたのは、埃と古びた空気に満ちた物置部屋──そして、そのさらに奥。
まるで壁の一部だったはずの装飾が、見たこともない“開口部”へと変貌していた。
理沙と赤坂は顔を見合わせ、無言のまま奥へと進む。
そして──
「沙耶ちゃん……!」
その先に、こちらへ振り向いた少女の姿があった。
沙耶が小さく振り返る。
その顔に安堵が浮かぶのを見て、理沙は小走りに近づいた。
「無事でよかった……。こんなところにいたなんて」
「ご、ごめんなさい……。でも、私、どうしても気になって……」
沙耶がうつむくのを、理沙は優しく抱き寄せた。
その背後で、赤坂が懐中電灯をかざしながら部屋の中を覗き込んだ。
「……なんだ、こりゃ……」
その声に理沙もふと振り返る。
そして、視界に入った“それ”を見た瞬間、息を呑んだ。
机に突っ伏すように崩れ落ちた、白骨化した遺体。
理沙は口元を押さえ、一歩後ずさった。赤坂も無言のまま、遺体に視線を注ぐ。
「……人間か。相当、時間が経ってるな」
「状況的には二〜三年。日記のようなノートと鍵、それに──これ」
柏原が卓上カレンダーを差し出す。2023年のページに、赤い丸で印がつけられていた。
理沙はそれを見て、小さく眉をひそめた。
「この部屋、元々の図面にはなかったんですよね?」
「ええ。図面上は、隣の物置と壁を隔てて終了している。でも実際は、その壁の奥にもう一部屋あった」
湊が机の上の埃を指でなぞる。
「家具の配置や生活用品の痕跡を見る限り、“ただの隠し部屋”じゃない。誰かが、ここで過ごしていた」
「まさか……誰かの“個室”だったってことですか?」
理沙の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
「ここに誰かを閉じ込めていたのか、それとも自ら籠もったのか……」
柏原がぽつりと呟き、視線を落とす。
沈黙の中、沙耶が懐から何かを取り出す。
──それは、小さく折られた紙の鶴。
「この部屋で見つけたんです。遺体のすぐそばに、これが落ちてて……」
湊がそれを受け取り、手のひらで眺める。
裏面には、かすれたインクで──“S.S.”と読める文字。
「“S.S.”……このイニシャル、やっぱり……涼夏さん、なのかな……」
沙耶の呟きに、場の空気が凍ったように静まり返った。
理沙は、小さく首を横に振る。
「涼夏? 指宿涼夏か?」
湊が問い返すと、柏原がすかさず言葉を継ぐ。
「彼女の苗字は、指宿よね。何で涼夏さんだと思ったの?」
沙耶は、戸惑いながらも答えた。
「……なんとなく。でも、ここまで来て、隠されてた部屋に白骨死体、折り鶴に“S.S.”って……偶然とは思えなくて」
柏原はふっと視線を落とし、壁に貼られたままの色褪せた紙を見つめる。
「でも、この部屋の空気、どう考えてもただの“隠し部屋”とは思えない。誰かがここを、“住まい”として使っていた痕跡がある」
「それも──“長期間にわたって”だな」
湊が頷く。
「食器、生活用品、本、卓上カレンダー、そして──日記のようなノート。全部に共通しているのは、“ここで時間を過ごしていた誰か”の存在」
赤坂が、ふっと小さく息を吐く。
「つまり、こいつはここで死んだ。誰にも見つからず、何年もここで、こうして……」
言葉の先は、誰も引き取らなかった。
沙耶は、おそるおそる尋ねた。
「……涼夏さんが、昔ここにいた可能性って……あるんですか?」
湊が小さく息をついて答える。
「それはどうだろうな。確証はないが、それは誰にだって言えることだ」
「でも……そもそも、この館って、十数年前に“一家心中”と“火事”が起きてるんですよね?」
「ええ、そうよ」
柏原が静かに頷いた。
小さな囁きが、ふたたび部屋の空気を重く沈ませる。
そして、“指宿涼夏”という名前が、胸の中で少しずつ意味を変えはじめていた。
「一家心中と火事……。それが本当だとしたら、妙だな」
湊がぽつりと呟いた。
「どうしたんですか? 湊さん」
沙耶の問いに、湊は立ち上がり、小さなパッケージを手に見せた。
「これを見ろ。机の下に落ちてた」
「これは……お菓子のパッケージですか?」
「そうだ。裏の表示をよく見てみろ」
全員が覗き込む。そこには古びたブランドロゴと、すでに存在しない製造元の住所。
「こりゃあ……」
赤坂が眉をしかめる。
「この菓子、十八年前に販売終了してるぞ。間違いねぇ。俺が若い頃、こればっか食っててよ。うまかったんだがなぁ」
「十八年前……ですか」
理沙が目を丸くする。
「でも……十八年前のパッケージが、そのまま残ってるなんて、おかしくないですか?」
「いや、それ自体は不自然じゃない」
柏原が静かに答える。
「そうね。それ自体はおかしいことじゃないわ。パッケージはポリプロピレン製。環境にもよるけど、完全に分解されるには数百年かかるって言われてるわ。仮に、本当に十八年前だったとしても、風化しないのは普通」
湊が続ける。
「問題は、これが“この部屋の誰か”によって食べられていたという事実だ」
彼は、袋の口元を指さした。そこはハサミで丁寧に切られたように開いていた。
「これを食べた人物が、十八年前の存在だとしたら──一家心中と火事の際も、こいつはここにいたことになる」
「じゃあ、もしかして……この人って、火事の被害者……?」
沙耶の声が震える。
だが湊は、かぶりを振った。
「一つだけ確実に言えることがある」
「この死体は、火事で焼死したものじゃない──ってことよね?」
柏原が湊の意図を引き取る。
「なんで分かるんだ?」
赤坂が問うと、湊が静かに答えた。
「まずは服装だ。火事で焼死してたなら、衣服はもっと焼け焦げてるはずだ。だが実際は──形が残ってる」
「そして第2に、遺体の状態よ」
柏原が続けた。
「火災で焼かれた遺体なら、もっと焼損が激しいはず。でも、これは“白骨化”はしているものの、焼けた痕跡がほとんどない。それに……」
彼女は室内を見回した。
「この部屋自体、火災の痕跡がない。埃まみれではあるけれど、煤もなければ焦げ跡もない。つまり──」
「この部屋は、あの火事とは“無関係”の場所、或いは“そもそも火事なんて無かった”ってところか」
理沙の言葉に、全員が静かに頷いた。
そして、もう一つの疑問が、誰の口からも出ないままに残されていた。
──この死体はいったい誰なのか。
──そして、なぜ“こんな場所”に隠されていたのか。