第18話【歪んだ静寂】
微かな風の音が、軋む窓枠を揺らしている。
広間の灯りは最低限に絞られ、暖炉の火も小さくなっていた。大半の者が眠りにつき、あの異様な空気も一時だけ沈静化したかのように思えた。
だが──湊の目は冴えていた。
彼は立ち上がり、読書スペースの棚に手を伸ばす。指先が触れたのは、古びた地図帳だった。ページをめくりながら、館内の動線を反芻する。
「やっぱり、おかしい……」
ぽつりと呟いたその声に、背後から静かな足音が重なる。
「寝るんじゃなかったのか?」
柏原だった。足元の音を殺して近づく気配は、まるでこの館の一部のように溶け込んでいた。
「眠れるわけがないでしょ。この空気じゃ」
「同感だ」
湊は本を閉じ、テーブルに置くと、地図代わりに手帳を開いた。
「歩いた距離と、部屋数と、扉の位置。全部を線で結んでも──帳尻が合わない」
「私も感じてた。特に、東棟と西棟の接続部。壁が無駄に分厚い場所がいくつかある」
「見せかけの廊下ってことか?」
「あるいは、何かを“隠すため”に構造ごと捻じ曲げたとか。舞台装置的な意味でね」
柏原は意味ありげに目を細めた。ここまでの違和感が、偶然の産物とは思えない。むしろ、誰かの意図を感じるとすれば──それは計画的な仕掛けなのだ。
「みんなはどうしてる?」
「一応、順番に仮眠中。交代制で赤坂さんと小田切が見張りを続けてる。理沙と沙耶は私の隣で、今は静かに眠ってるわ」
「……なら、少しだけ抜けても問題なさそうだな」
湊が手帳をポケットに滑り込ませた瞬間、ふたりの間に言葉のない了解が交わされた。
「行こう。最初に調べるのは……西棟廊下だ」
「ええ。暗くても足音は殺して」
湊と柏原は、小さく息を整えると、灯りの届かぬ廊下の奥へと静かに歩を進めた。
廊下は冷えていた。
壁を這うように伸びる影が、ところどころで歪んで揺れている。懐中電灯の明かりは、灯しているはずなのにどこか頼りなく、奥行きの感覚が狂っていくような錯覚を与える。
湊は先頭に立ち、足元と壁際を意識しながら進んでいた。柏原はそのすぐ後ろ。片手にライト、もう一方には丁寧に折り畳まれた館の簡易地図。
「ここね、図面だと直線ね」
「ああ。確かに直線だ。だが、なんだ? この違和感は」
湊は、地図と廊下を交互に見ながら、考え込むように歩を緩めた。
「少し折れ曲がってる、とか?」
「いや……違う……」
彼の視線がふと、廊下の片隅に置かれた小さな飾り机と、その上のランプに止まった。装飾の施された真鍮の脚、その下にわずかに浮いた絨毯の端。
湊は、しゃがみ込んで机の脚をじっと見つめた。
「これは……おかしいな」
「何が?」
「この机……水平じゃない。傾いてる。しかも、傾きの方向が床の“傾斜”とは逆なんだ。つまり──床そのものが、“歪んでいる”」
柏原が驚いたように眉を上げる。
「地図じゃ分からない微細な変化……?」
「そう。けれど、実際に歩いた感覚と、視界の微妙なブレ。意識していないと気づかない。でも、配置された家具がその“ずれ”をはっきり示してくれる」
湊は机の上のランプにも手を伸ばした。触れると、軽くガタリと揺れる。台座がわずかに不安定なのだ。
「造りが雑なのかしら」
「それなら、全部が傾く。でも、隣の額縁や照明スタンドは真っ直ぐに立ってる。……つまり、部分的に“空間”がねじれている」
柏原が口を噤み、地図と照らし合わせるように廊下を振り返った。
「誰かが、この館そのものを“演出している”のかもね。私たちに、どこを見せて、どこを見せないか……決めているみたいに」
湊は立ち上がり、暗がりの奥へと目を凝らす。
その先には、黒い壁に紛れるように、閉ざされた扉がひとつ──わずかに、開いていた。
廊下の奥、壁と同じ色に塗られた扉が、わずかに開いていた。
普段なら見落としそうなほど地味な存在。けれど今は、そこだけが不自然に浮かび上がって見える。
「……扉が開いてるな」
湊の声は低く、警戒に満ちていた。
「不気味ね。まるで、私たちを飲み込むために、口を大きく開けているみたい」
柏原の例えに、湊はふと目を細める。
「言い得て妙だな。扉の先は暗闇。この先には何が待ち受けているかわからない。もしかしたら、罠の可能性もあるからな」
ふたりは声をひそめ、互いの呼吸の音すら邪魔にならないように歩を進める。懐中電灯の明かりが、扉の隙間からこぼれる床の影を照らした。
ギィ──。
まるで、こちらの気配を感じ取ったかのように、扉が音を立ててほんのわずかに揺れた。
「……風?」
柏原が小さく呟いた。
だが、扉の周囲に窓はない。密閉された館の廊下で、自然の風が流れるはずもない。
ふたりは視線を交わすと、湊がそっと扉の端に手をかけた。軽く押すと、ゆっくりと開いていく。軋んだ蝶番が乾いた悲鳴をあげた。
中は──真っ暗だった。
けれど、その暗闇の中に、確かに「空間」があるとわかる気配があった。
懐中電灯を向けると、埃の舞う空気の中に古びた収納棚や、壁に立てかけられた木箱のようなものが浮かび上がる。
「物置か?」
「……」
柏原は、地図を見ながら、辺りを見回した。図面上だと、この部屋はおよそ三十三平米の広さがあるはず。だが──どう見積もっても、目の前の空間はその半分、十七平米にも満たない。
「図面と照らし合わせてみても、明らかに狭いな。まるで、部屋を二分割しているみたいだ」
湊が言うと、柏原も無言でうなずいた。
壁の一部に、わずかに色の異なる板張りがある。装飾か、補修の跡か。あるいは、それが“偽装”なのか。
「この壁の向こうに、何かがある……?」
「可能性はあるわ。ただ、問題は──“誰が”、そんなことをしたのか」
ふたりの視線が、その壁に吸い寄せられる。無言のまま、空気だけが冷たく、じわじわと肌に染み込んでくる。
湊は壁際に近づき、色の違う板張り部分に手をあてた。指先に伝わるのは、冷たく乾いた感触。そして、確かな“硬さ”。
「しかしこれは……板張り、にしては頑丈だな」
軽く叩いてみても、音は鈍く詰まっている。空洞を隠すためのものにしては、やけにしっかりと作られていた。
「こういうのは赤坂が詳しいんじゃないかしら。材質とか、加工跡とか」
「ああ。後で、赤坂に確認してもらおう。だがその前に──」
湊が声の調子を変え、壁の影へ懐中電灯の光を向けた。
「──誰だ。そこに隠れているのは」
光の筋が届いたその先、物陰がわずかに動いた。
そして。
おずおずと、古びた棚の影から姿を現したのは──三ツ葉沙耶だった。
「……沙耶?」
柏原が驚いたように息を呑む。湊はすぐに歩み寄り、彼女の様子を確かめた。怯えた目、緊張に引きつった肩、そして何より──真夜中のこの時間に、ひとりでここまで来たという事実。
「なぜ、ここに?」
「目を覚ましたら……ふたりがいなかったから……」
沙耶の声はかすかに震えていた。それでも、しっかりと湊を見つめていた。
「探していたら、この部屋に入っていくのが見えて……それで……」
唇を噛み、俯く。
「ご、ごめんなさい! 勝手についてきて……!」
言葉の最後は、ほとんど泣き出しそうな声になった。
柏原が静かに近づいて、そっと肩に手を添える。
「怖かったでしょう」
沙耶は、わずかにうなずいた。
沙耶を室外へ戻すか──それとも同行させるか。
湊は一瞬だけ逡巡したが、ここでひとりにして何かあれば後悔するだけだと判断し、小さく頷いた。
「分かった。沙耶、離れるなよ」
「……うん」
沙耶は少し緊張した面持ちのまま、湊の隣に立った。柏原は周囲を再確認しながら、静かに話を戻す。
「この部屋の構造、やっぱりおかしい。もし壁の奥に空間があるなら、出入り口がどこかに隠されてるはず」
「目立たない形で設置されていれば、外からは扉として認識できない構造かもしれないな。視覚的な錯覚や、建具に紛れさせた隠し扉の類か」
湊は板張りの表面を指でなぞる。装飾の浮き彫りの中に、ごくわずかな“継ぎ目”のような感触を覚えた。
「……ここ、線があるな」
「隙間?」
「ああ。指先で追ってみると、ほら──枠のようになっている」
柏原がライトを当て、沙耶がそっと身を寄せて覗き込む。
「押してみるわよ」
柏原が慎重に力を加える。だが動かない。今度は逆に、引いてみる。すると──カチ、と小さな音がした。
次の瞬間、壁の一部がわずかに手前へ傾くように動いた。
沙耶が小さく息を呑む。
「開いた……!」
「これは、隠し戸……。なぜこんなところに……」
扉は、外から見ればまったく分からない位置に巧妙に仕掛けられていた。回転式の隠し戸。まるで洋館ミステリーの“お約束”のようだが、現実に動くと、そこには緊張しか残らない。
「慎重に行こう。誰が、何のためにこれを作ったのかが分からない以上、警戒するにこしたことはない」
湊の声に、ふたりもうなずいた。
暗いその奥から、ひんやりとした空気が流れ出してくる。人の気配はない。だが──明らかに“何か”があると、三人とも無意識に感じ取っていた。
扉の先には、もう一つの部屋があった。
家具の配置や壁紙の模様──どれも既視感のあるもので、まるで今まで通ってきた客室の一つをそのまま写したような空間だった。ただし──その構造は明らかに“切り取られて”いた。
「これは……部屋?」
「ただ、区切っただけの部屋、だと?」
湊と柏原は、懐中電灯の光を左右に振りながら、部屋の内部を観察した。
ベッドはない。窓もない。棚と机と、椅子がひとつ。それ以外には何もない。壁も床も、汚れてはいるが特に血痕や破損があるわけではない。
「ここまで引っ張っておいて、何もない、だと?」
湊が呆れ混じりにぽつりと呟くと、柏原が半眼でツッコミを返す。
「……何をメタいことを言ってるのよ」
その瞬間、柏原がふと光の向きを変えた。
そして──動きを止める。
「…………。いいえ、そうでもないみたいよ」
柏原のライトが照らした先。
そこには、壁際の机──その上に、突っ伏すように横たわった“何か”があった。
光がその形を浮かび上がらせた瞬間、空気が凍りついた。
それは、人間だった。
……いや、正確には“人間だったもの”──。
肌は乾き、髪は抜け落ち、衣服はすでにボロ切れとなっている。白骨化した腕が机に垂れ下がり、骨と皮だけになった指先が、何かを掴もうとしていたように硬直していた。
「──っ!」
沙耶が短く息を呑み、小さな悲鳴をあげると、柏原の背後にぴたりと身を寄せた。
室内の空気が、さらに冷え込んだ気がした。