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第14話【隠者の終焉】

 広間の空気が、音を立てて凍りつくようだった。


 聞こえたのは、確かに──何かが床に落ちたような音。
 けれど、その“何か”が人為的なものか、偶然の産物か、それは誰にも断定できない。


 湊が懐中電灯のスイッチを押し、廊下の奥を照らす。
 柏原と赤坂が左右を固め、理沙と沙耶はやや後方に控えた。

「灯りは確保。……行くぞ」

 声を潜めながらも、湊の声音には決意がにじむ。
 一行は静かに広間を出て、音のした方角──東廊下の突き当たりへと向かう。


 廊下の絨毯が、足音を吸い込んでいく。
 けれど、それでも誰もが自分の呼吸音の大きさに戸惑っていた。
 先ほどの“明滅”の記憶が、まるで後を引く幻のように、脳裏にまとわりついてくる。


 突き当たりには、古びた物置部屋がある。
 使われなくなって久しいらしく、ドアの取っ手にはうっすらと埃が積もっていた。

 柏原が確認するように呟く。

「この部屋……前に確認したとき、鍵が掛かってたわよね」

「ああ、そのはずだ。誰も開けられなかったから、調査対象から外していた」

 湊が取っ手を握る。鍵は掛かっていない。
 代わりに、取っ手の下に、落ちた何かが転がっていた。

 それは、古びた南京錠だった。開錠されたまま、床に転がっている。


「……誰かが、開けたのか……?」

 そのとき、沙耶が小さく湊の袖を引いた。

「湊さん、このお部屋……少し、変なにおいがするような気がして……」

 嗅覚に鋭い少女の一言に、皆が息を呑む。
 湊は、手にした懐中電灯をもう一度確かめると──ゆっくりと扉に手をかけた。







 扉を開けた途端、むわりと鼻を突くような匂いが立ち込めた。

「……変な匂いですね……」

 理沙が顔をしかめ、口元を押さえる。

「うっ、くせぇな……」

 赤坂が眉をひそめた。

「く、臭いです……っ」

 沙耶も、目に涙を浮かべながら袖で鼻を覆う。三者三様の反応が、その異様な臭気の強さを物語っていた。
 濡れた鉄のような血の匂いに、かすかに混じる腐臭──それは誰の鼻にも、“死”をはっきりと伝えていた。

 柏原は無言のまま、警戒を滲ませた視線で懐中電灯を掲げる。
 その光が、部屋の奥……棚と古びた家具の隙間に沈む“何か”を照らし出した。

「…………っ」

 誰かの小さな息が漏れた。


 そこにいたのは──黒衣をまとったような女の亡骸。
 全身が血に濡れ、肩から胸にかけての衣服は真紅に染まり、かろうじて人型を留めていた。

 羽鳥綾子だった。

 その端正な顔立ちは血に濡れ、白目を剥いた表情が“最期の苦悶”を生々しく物語っていた。
 身体は壁際に固定されており、まるで誰かに磔にされたかのように──両肩を何か鋭利なもので打ち抜かれている。

「赤坂!」
 湊の叫びに、赤坂がすぐに動いた。

「あ、ああっ!」

 彼は沙耶と理沙の肩を抱えるようにして、その場を離れる。

「二人とも、こっちだ。外で待ってろ」

 赤坂は足早に戻ってきた。

「……とりあえず、二人は神村と一緒に部屋の外で待たせてる。あいつが何を考えていようと、ここよりは安全だろ」


 湊は無言で頷いた。今は疑いよりも、目の前の現実を見据えるべきだった。

「にしても、ひでぇな、こりゃ……」
 赤坂が目を細めて、壁に張り付けられた遺体を見つめる。
 肩口から打ち込まれた金属のような棒が、羽鳥の体を壁に縫い止めていた。まるで見世物のように。
「本でしか見たことねぇけどよ……こういうのって、なんて言うんだったか……確か……」
「磔刑、ね」
 柏原が、低く答える。
 光の輪の中、羽鳥綾子はまるで“十字架の影”のように、沈黙の中に固定されていた。
 誰もが息を呑んだまま、遺体の前に立ち尽くしていた。
 羽鳥の亡骸は、明らかに“意図的”に飾られている。
 磔にされた体勢──両肩を貫かれた傷口から、今もじわりと血が滴っていた。
「……ここまで手の込んだことをするなんて、まるで……」

 柏原が呟く。

「見せつけている、ってことか」

 湊が後を引き取るように言った。

 犯人の“演出”は、明らかに観客の存在を意識している。
 誰かに“見られる”ことを前提に、丁寧に、残酷に、美術品のように死を飾っている。

 そして湊は、ふと足元に何かを見つけた。
 落ち葉のようにひらりと舞い落ちていた、一枚の紙片。

 小さく折れ曲がったそれを拾い上げ、広げてみる。

「……またか」

 手のひらにあったのは、小ぶりなタロットカード──
 描かれていたのは、一人の老人が、灯火を掲げて闇を照らす姿だった。

「“The Hermit”。隠者のカード……」

 湊が低く呟くと、柏原が即座に反応する。

「タロットの……? けど、“隠者”って……これとどう関係あるの?」

「孤独の象徴。そして、真実を求める者。自らの灯で闇を照らし、道を見つけようとする者だ。……それが“隠者”の本来の意味だよ」

 湊は羽鳥の顔を見やる。

 彼女は、この中では数少ない、論理的な思考と落ち着きを備えた人物だった。
 だが、それゆえに──真相に近づきすぎてしまったのかもしれない。

「“一人で進もうとした者”が、“罰”を受けた。そういう風に、意味づけている可能性もある」


 柏原が、苦い顔で呟く。

「……つまり、“真実に近づいた代償”ってこと?」

「ああ。しかも、それを見立てで強調している。つまりこれは、“隠者殺し”なんだ」

 湊の手の中、カードはしんと沈黙していた。
 灯火を掲げた隠者が、まるで“未来の道を選べ”と、こちらを見つめているようだった。

「でもよ、真実に近づいたって、どういうことだ? あいつ、何か真実っぽいこと言ってたか?」


 赤坂が腕を組み、壁際の遺体に目をやりながら問う。


「何が真実なのかは、私たちには分からないわ」

 柏原が静かに返す。

「けど、もしかしたら……彼女が発した言葉のどこかに、真実に迫るものがあったのかもしれない」

「ああ。ただ一つ言えるのは……」

 湊が低く呟く。
 その目には、遺体を超えた“何か”を見ているような色が宿っていた。

「羽鳥さんは、何かを感じ取っていた。……もしかしたら、言葉にする前に、気づいてしまったのかもしれない」

 誰もが思い返すように、わずかに目を伏せた。

 広間での出来事、些細な言葉のやりとり──
 たとえば詩音への問いかけ。
 たとえば彼女の態度ににじんでいた、わずかな不信。
 それらすべてが、ひとつの“直感”に収束していた可能性はある。


「確証がなくても、感じてしまうことはある。教師ってのは、そういう空気の変化に敏感な職業だからな」


 赤坂がぼそりと呟いた。


「……だとしたら、犯人にとっては、それだけで十分だったのかもな。勘づかれた、ってだけで、始末する理由になる」

「そしてそれが、“隠者”という見立ての意味に通じる」

 湊はそう言って、ポケットにしまったタロットカードに指を添えた。

「ひとりで闇を照らそうとした者。その灯火が、消された。そういう演出だ」

 沈黙が訪れる。

 そのとき、扉の外から声がした。

「湊さん、いいですか? 少し気になることがあって……」


 理沙の声だ。


「ああ……部屋から出る。少し、待ってくれ」

「はい」
 
簡潔なやりとりに、扉の向こうの三人が静かに頷く気配がした。
湊は再び羽鳥の遺体に目をやり、深く息をついた。

「……ここまでにしておこう。次は、理沙の話を聞こう」
 
全員が無言で頷いた。

 部屋の外に出ると、理沙、沙耶、詩音が並んでいた。
 三人とも表情に緊張を宿したまま、湊たちの顔色をうかがっている。

「理沙。何かあったのか?」

 湊が訊ねると、理沙は頷いた。

「さっき、わたしたちが待機していたとき……ほんの一瞬、廊下の明かりが揺れたんです。風が吹いたような気配も、でも窓は閉まっていて……おかしいなと思って」

「それは、どのあたりで?」

「ちょうど、私たちが並んで立っていた扉の横の廊下。奥に通用口があるって、湊さん、言ってましたよね?」

「ああ、キッチンの奥だ。……なるほど。外と繋がる可能性がある場所だ」

 湊は唸るように頷き、柏原と視線を交わす。

「通用口ってことは……外部の出入り口。そりゃ確かに怪しいわね」

「風のような気配……おそらく誰かが移動した痕跡だ。だとすれば、まだ館内に潜んでいる可能性もある」


 赤坂が口を挟む。


「じゃあ、そっちを調べに行くのか?」


「そうだ。その前に……赤坂、すまないが、理沙と沙耶、神村の三人を広間に戻して、警護にあたってくれ」

「了解。まあ、こいつらだけにするわけにはいかねぇしな」


 赤坂が軽く頷き、理沙たちを先導して歩き出す。

 その背中に湊が短く声をかけた。


「くれぐれも、扉の施錠と灯りの確認は怠るなよ」

「分かってる。何が起きても、三人は守ってみせる」

 赤坂の背が曲がり角の先へ消えると、湊は懐中電灯の光を灯し直した。


「優先するのは、キッチンの奥、そして風呂場の二カ所だ」


「両方とも、いかにも『人が隠れていそうな場所』ってわけね」

「だからこそ、最初から誰かが入っていたとしても不思議じゃない。……羽鳥さんが何かに気づいたとしたら、それはこの二つの空間にあるかもしれない」

 柏原が小さく肩を鳴らし、警戒を込めて頷いた。

「じゃあ、行きましょう。今度は、こちらが灯火を掲げる番よ」


 湊も口元を引き締め、静かにうなずいた。

「──“隠者”の次に、闇に踏み込むのは、俺たちだ」

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