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第13話【隠者の灯火】

「“演者”が本当に怖がったとき……“舞台”は動き出すんですよ」


詩音の言葉が空気を切り裂いたように響き、広間の誰もが返す言葉を失った。

外では、風がガラス窓を叩きつけていた。雷鳴はなく、ただ、止みかけては戻ってくる暴風雨の気配だけが、館を包み込んでいた。

やがて、沙耶がそっと立ち上がった。手には、さっきまで抱いていたぬいぐるみ。


「……トイレ、行ってもいい?」


その声は掠れていたが、誰よりも先に湊が頷いた。


「柏原、付き添ってやってくれ」

「わかった」


柏原はすぐに立ち上がり、沙耶と並んで広間を出る。

その背を見送りながら、理沙が不安げに呟く。


「……一人にしないでくださいね。絶対」

「もちろんよ」


そう答えた柏原の声が、廊下の奥に消えていく。

しばしの沈黙の後、赤坂がぽつりと口を開いた。


「……もう十分怖ええよ。あんな痕跡、誰がつけたってんだ。お化けでも出たか?」


理沙が言い返す。


「お化けなんて……。でも、もし“人間じゃないもの”だったら?」


湊はソファに背を預け、目を閉じた。


「可能性は否定しない。だが、そうやって思考を放棄したら、“それ”の狙い通りになる」


詩音は静かに立ち上がり、暖炉の前に歩いていった。火はとっくに消えている。彼女はそこに立ち尽くし、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「……次の“配役”、そろそろ決まる頃ですね」


わずか数分の外出だったが、柏原と沙耶が広間へ戻ってきたとき、場の空気はさらに冷え込んでいた。

柏原は小さく首を振る。


「特に異常はなかった。でも、……念のため、沙耶ちゃんから目は離さないほうがいい」


沙耶は頷くように理沙のそばへ歩み寄り、ぬいぐるみを強く抱きしめながらソファに腰を下ろした。

湊が穏やかな声で問いかける。


「どこか、具合は悪くないか?」


沙耶はかすかに笑って首を振った。


「大丈夫。でも、ちょっと……こわい夢を見た気がして……」

「夢?」

「ううん、なんでもない。忘れちゃった。たぶん……気のせい」


そう言いながら、どこか遠くを見るような目をしていた。

柏原もソファの背に手をかけて立ったまま、湊の方を向く。


「さっき、少しだけ館の構造を見直してみたの。あの二階の廊下──西側だけ、やけに壁が厚いのよ」

「……隠し部屋か?」


赤坂がぼそりと口にする。湊は目を細めて答えた。


「可能性はある。だが、もしそこが“舞台裏”だとしたら……、次の“演目”が、もう準備されてるかもしれない」


理沙が声を潜める。


「もう、“第3の事件”が起きるってこと……?」


広間に重苦しい沈黙が落ちた。

湊はゆっくりと頷く。


「藤堂は“”。森崎は“”。 明らかに“見立て”に基づいた連続性がある。ならば、次も──あるはずだ」





そのとき、照明が一瞬、明滅した。




館のどこかで、風の通り抜けるような音がした。

誰もが天井を見上げた。

照明はすぐに安定を取り戻したが、その一瞬の暗転が、全員の胸に染み込んだ不安を輪郭づける。


「……停電、じゃないよね?」


理沙が低く呟く。赤坂が首を横に振った。


「電源は生きてる。多分、一瞬だけ回線が乱れたか……いや、誰かが──」


その先は口にできなかった。言葉にしてしまえば、何かが本当に現れそうで。

詩音は暖炉の前に静かに立ち尽くしていた。光の揺らぎがその頬に影を落とし、彼女はまるで、これから起こる“何か”を予感しているかのようだった。




そのとき、理沙がふと、ソファの一角を見やる。





「あれ……羽鳥さん?」


その声に、沙耶が目を見開く。


「いない……。さっきまで、そこにいたのに……!」


理沙が慌てて立ち上がり、ソファの周囲を見回す。毛布が乱れている。確かに、誰かがいた痕跡は残っているのに、本人の姿だけがない。


「トイレじゃないよね? 柏原さん、さっき……」

「ええ。付き添ったのは沙耶ちゃんだけよ。羽鳥さんは確かに、この部屋にいたはず」


柏原の声にもわずかに焦りがにじんでいた。

湊は眉をひそめながら、静かに言った。


「足を痛めている彼女が、一人で移動するとは考えにくい。それに……今の一瞬の明滅、あれが“仕掛け”だったのだとすれば──」


赤坂が低く唸るように言った。


「……まさか、このタイミングで……」


湊の視線が広間を巡る。その目は鋭く、深く、暗闇の奥を見通すようだった。


「確かめよう。……“舞台”が動き出したなら、その痕跡が、どこかにあるはずだ」


詩音は、そんな湊たちのやりとりを、目を細めて見ていた。

広間を出る直前、湊は全員の顔を見渡して言った。


「単独行動は避けよう。二人以上で、一階を中心に捜索する。詩音さんはこの広間で待機してくれ」


皆が頷く中、柏原が赤坂と視線を交わす。


「私と赤坂で書斎と応接室、それから玄関側を確認するわ。南側の廊下から回れば効率がいいはずよ」

「了解」と赤坂が頷く。二人はすぐに懐中電灯の動作確認を済ませ、行動を開始した。


湊は理沙と沙耶の方へ目を向ける。


「理沙、沙耶ちゃんと一緒に食堂側を回ってみよう。俺も一緒に行く。三人なら万一のときも対応しやすい」

「分かりました」と理沙が応じ、沙耶に優しく声をかける。

「沙耶ちゃん、大丈夫? 怖かったら、手を握っていて構わないからね」


沙耶はこくりと頷き、理沙の手を握りしめた。

三人は広間を後にし、食堂へと向かう。
 詩音は暖炉の前に佇んだまま、その背中だけが見送っていた。

廊下には嵐の音がかすかに反響しており、不気味な静けさが支配している。
 食堂の扉を開けると、薄明かりの照明が辺りを照らしていた。整然と並んだ椅子とテーブルには、誰かが触れた形跡もない。

理沙が周囲を見回しながら呟く。


「……異常はなさそうですね」


湊は壁のスイッチに手をかけて照明を確認する。明滅はしておらず、安定している。
 つまり、あの異常はここではなかったということだ。

裏口の施錠も正常。窓に外気の侵入もない。


「ここに羽鳥さんが来た痕跡はないな。やはり、どこかに誘導されたか──あるいは、連れ去られた可能性も考えたほうがいい」





そのとき、背後から冷たい風がひやりと通り抜けた。




ピシャリ──どこかの扉が微かに軋む音。
 沙耶が小さく身をすくめ、理沙の腕にしがみつく。

湊は即座に身を翻し、暗がりに視線を向ける。


「……誰かが“風の音”を利用して、俺たちの注意を逸らそうとしている」


その声音は、静かに、しかし確かな警戒を帯びていた。

三人は確認を終えると、広間へと戻ってきた。

柏原と赤坂も既に戻っており、詩音は変わらず暖炉の前に立っていた。
 ゆらめく炎が、その表情の奥を仄かに照らしている。

沙耶は理沙の隣にぴたりと寄り添い、不安そうに湊たちのやり取りを見守っている。

柏原が、状況報告を始めた。


「私たちが確認した範囲では、異常はなかったわ。玄関も施錠されていたし、書斎や応接室にも人の気配は感じられなかった」


赤坂も頷きながら言う。


「部屋の窓もしっかり閉まってた。風が入り込む隙間なんてなかったな。……あれは、やっぱり誰かが意図的に何かやったんだろう」


湊はしばし沈黙し、それから静かに言葉を継いだ。


「……藤堂隼人、森崎悠斗、そして──今、羽鳥綾子の姿が見えない。
偶然とは考えにくい。明らかに、意図をもって“誰か”が動いている」


理沙が続ける。


「羽鳥さんは足を痛めていたはずです。ご自身で歩き回るのは難しかったのではないかと……」


沙耶が小さな声で呟いた。


「じゃあ……誰かが、どこかに連れていったの?」


理沙は彼女の肩にそっと手を置き、微笑んでみせた。




そのとき、赤坂が腕を組み、難しい顔で口を開いた。





「だったらよ、羽鳥がターゲットになるってのは何かおかしくねぇか?
あいつは、どちらかというとあまり目立たないタイプだろ?」


湊はしばらく思考を巡らせたのち、短く答えた。


「……“目立つ”かどうかは関係ないのかもしれない。
誰かが、別の基準で“役割”を割り振っているとしたら……その方が厄介だ」


広間の空気が、また一段と重くなる。

そんな中、詩音がぽつりと呟いた。


「……“光”を掲げて歩む者は、やがてその灯火に焼かれてしまうのかもしれません。
──でも、光を捨てて一人、闇の中に降りていく者もいる。
自らを消すことで、舞台の全体像を照らそうとする“隠者”のように」


誰もその言葉にすぐ返すことはできなかった。

ただ、暖炉の灯りだけが、静かに揺れていた。




広間には、再び静寂が訪れていた。
 嵐の轟音だけが、遠く天井の上から低く唸っている。




沙耶は理沙のそばに身を寄せたまま、うつむいていた。
 誰かが、自分たちを選び、順に“消している”。その可能性が現実味を帯びるほど、少女の瞳には怯えが宿っていく。

湊は、腕を組んでじっと考えていた。
 藤堂、森崎、羽鳥──そして、詩音。
 現時点で唯一、最後まで“動いていない”のは彼女だけだった。

だが、視線を向けた詩音は、ただ静かに佇んでいるだけだった。
 余計な口も出さず、問いかけにも応じず。
 その沈黙は、言葉以上に何かを物語っているようにも思えた。




そのとき、柏原が壁際から一歩前に出る。





「……ここまで来ると、もはや“順番”じゃないかもしれないわ。
残っている私たち全員が、いつ“次”になるか分からない──そう思って動くしかない」


湊は頷いた。だが、すぐには動こうとしなかった。


「それもそうだが……まずは“安全を確保する”ことが先決だ。
このまま無闇に分散すれば、相手の思う壺になる」


視線を廊下へと向ける。
 その先には、さきほど通ったばかりの暗い通路が伸びていた。


「この館は、何かがおかしい。俺たちが動くたび、“それ”が一歩ずつ近づいてくる──そんな気がするんだ」


赤坂が舌打ち混じりに言った。


「つってもよ、こうしてじっとしてても埒があかねぇだろ。
羽鳥がどこかで倒れてるかもしれねぇのに、黙って見てるってのか?」


柏原が赤坂を一瞥し、落ち着いた声で返す。


「焦って動く方が、よほど危険よ。今の私たちには、“全体を見渡せる場所”が必要なの。
広間がそうである以上、ここを拠点に判断していくしかないわ」


湊は静かに立ち上がり、懐中電灯を手に取った。




そのとき──




カタン。




小さな、しかし明瞭な物音が、広間の外から響いた。

まるで、何かが床に落ちたかのような。

理沙がピクリと眉を寄せ、沙耶がぴたと息を止める。

柏原が即座に動きかけたが、湊が手で制した。


「待て。……行くなら、全員で行く」


それは、これまでと違う“覚悟”の響きを伴っていた。

外はなおも荒れ、風が窓を叩いていた。
 この夜が、何を告げようとしているのか──誰も、まだ知らなかった。

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