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第56話

「あれは誰だ~い?」
 それは、呼びかけというよりも──明らかに『歌』だった。
「あそこにいる~、あの大きな動物は~」
 高らかに朗らかに、歌声が響く。
「熊かな? それともゴリラ?」
 少なくともゴリラではなかろう。モサヒーはそう思った。棲息地域がまったく違う。
「ノーノーノー!」歌声の方もそれを否定する歌詞が続いた。
 じゃあこの、今歌っているご機嫌な動物は一体?
「それはクズリー!」音量が最大となる。「クズリ、イエス、クズリさー!」
 クズリか。
 モサヒーは浮揚推進しながら納得した。クズリ。確かに熊でも、絶対にゴリラでもないが、結構な大柄の動物だ。そしてよく走る。
「またうるさいのがいたな」横でボブキャットが呟く。
「よーう、ばっさりしっぽ~」クズリの方もすぐにボブキャットに気づき声をかけてきたが、それも歌の一部分なのかと思うような、ご機嫌な発声だ。
「その呼び方やめろよ」ボブキャットが体を沈めて怒る。「お前のしっぽだってそんなに変わらないだろ」
「ふふ~ん」クズリはせせら笑ったが、これも歌の一部といわれればそう聞こえた。「この俺のシマに潜り込んで来るとは~、いい覚悟だぁな~」
「ふん」ボブキャットは進みながらそっぽを向いた。「べつに、ただの通りすがりだ。お前に用はない」
「うん、どうも、こんにちは」モサヒーはそんな険悪でご機嫌な雰囲気の中挨拶をした。
 クズリはきょとんとした顔になり、歌声もぴたりと止まった。小さな目が小さく動く。
「うん、ぼくはモサヒーです」モサヒーは自己紹介をし「ここにいます」と自分の位置を知らせた──信号レベルを大きくした。
「お~う」クズリは元のご機嫌な様子を取り戻した。「あんたは~、あれか双葉なのか~」体を左右に揺らして歌のように訊ねてくる。
「うん、いえ、双葉ではありません」モサヒーは否定した。「双葉を見ましたか?」
「ふたっば──!」クズリが突然音量を極大に挙げたので、モサヒーとボブキャットは同時にびくりと身をすくめた。「わーお、ふたっば──ああ~」空を見上げ大きく息を吸う。
 また大声で何か叫ぶ──よくいえば歌う──のか。モサヒーとボブキャットはなかば戦々恐々として待った。
 だがクズリは空を見上げたまま、しばらく何も言わず身動きもしなかった。
「さっきのことここに来て~」やがてクズリは歌を再開したが、それはまたびっくりするほどの小声で、モサヒーとボブキャットは今度は思わず体を前にのめり込ませるようにかがめた。
 その後クズリは顔を正面、モサヒーとボブキャットの方に向け戻したが、また少し黙り込んだ。
 双葉がここに来たのか、と確認するべきだろうかとモサヒーが考えていると、
「この~俺のこと~うぉ~」だし抜けにクズリは、やはり小声で続けた。
 そしてまた黙り込む。
 今度の『間』はそれまでのどれよりも長かった。
 モサヒーの中枢帯に、危機予測シグナルが発火した。
 ──逃げた方が──
「て、ん、さ、い、だああああ!」間に合わなかった。「と──うぉ──うぁ──うぉ──!」かつてないほどの大音量が場を席捲した。「ほぉめぇたぁたぁえぇたあああ──!」
「うるせえ!」ボブキャットが、やっとその言葉を叫んだ。もっと早くにそうすべきだったのだろうが、彼も何か得体の知れない圧力に呑み込まれていたのだろう。「黙れ!」
「センキュー」クズリは何故かお礼を言った。「ところでお前、ばっさりしっぽ、シカを喰ったことはあるのか?」突如そんな問いかけをしてくる。
「え」ボブキャットは半歩退いた。「……俺は……ないけど、なんで」
「ハッハッハッハッ!」クズリは突然大笑いした。「なんだ大したことねえな! オーケー、じゃあ次、聴いてくれ」
「うん、あの、双葉はそれだけ」モサヒーが大至急で質問を挟もうとしたが、
「俺はクズリ、シカをも食らう最大のイタチ科~」間に合わなかった。「追うぜ~、追うぜ~、やつがどれだけ速かろうと~、どれだけ遠くに逃げようとも~」
 モサヒーは浮揚推進をそっと再開した。
 ボブキャットも、姿勢をやや低くして──まるでクズリにばれないようにしているかのように──そっとモサヒーに続きその場を離れた。
 双葉、ギルドがここからどちら方面へ行ったのかを聞きだすまで、あと何曲聴かなければならないのか予測不可能なため、ここは退散が妥当だと判断されたのだ。
「しつこいって~? そうさだって俺はクズリ~」
 歌声は、なかなかすぐに小さくならなかったが、それでも涙ぐましいほどほんの僅かずつには、遠ざかっていった。

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