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第12話【兆し】

「あ、あのっ!」


沙耶が、いまの空気がいたたまれなくなったのか、話しかけてきた。


「どうした?」

「い、いえ。皆さん、気を張り詰めすぎているようなので、少し休憩したらどうかな、と思いまして」


沙耶にそう言われて、皆がハッとしたように空気が柔らんだ。



確かに、気を張り詰めすぎていたようだ。



地下からの帰還、他の探索箇所の確認。緊張する場面が続いていたことは確かだった。


「そうだな。少し休憩するか」

「あ、それなら、私お湯を沸かしてきます。さっき赤坂さんとキッチンに行ったとき、まだ火が点くことがわかったので」


湊が言うと、理沙がそれに呼応するように言った。


「ああ、頼む」


湊が言うが早いか、理沙は赤坂と一緒に再びキッチンへと向かっていった。

それからしばらく経ち、広間は沈黙に包まれていた。あれからどれほどの時間が過ぎただろうか。
 誰もが考え込むように言葉を飲み込み、外の嵐の音だけが場を満たしていた。



やがて、それぞれがゆっくりと動き出す。



羽鳥はケガをした方の足をソファで投げ出し、程度を確認していた。柏原はノートPCの画面に何かを打ち込み始める。

理沙と赤坂は、台所の方から湯を沸かしたポットを手に、並んで戻ってきた。

沙耶だけが、背筋を伸ばしたまま、ぬいぐるみを抱いて壁際に座っている。

その傍ら──まるで誰にも気づかれていないかのように、神村詩音は静かに椅子に腰掛けていた。

両手を膝に揃え、背筋をまっすぐに伸ばした姿は、端正そのものだった。

湊は広間の入り口で立ち止まり、しばし彼女を見つめる。

神村の目線はどこか遠く、窓の向こうの闇を見つめているようだった。

完璧な姿勢。整った呼吸。過不足のない視線。



すべてが“整いすぎている”。



その佇まいは、自然体ではなかった。



むしろ台本に従って動く“舞台女優”のようで、息遣いすら演出の一部に思えた。



風の音が、壁を叩くように響いた。



その一拍ごとに、詩音のシルエットが揺れる。

だが彼女は、まるで“照明に照らされている側”の存在のように、どこまでも静かだった。

湊は音を立てずに歩み寄り、そっと声をかける。


「一条さん。どうかされましたか?」

「様子を見ているだけだ」


神村は穏やかな表情を崩さぬまま、小さく頷いた。



湊は隣に腰を下ろす。


「この状況に、君はどう感じている?」

「……そうですね」


神村は少しだけ間を置いてから答える。


「まるで──舞台のようです」


湊は眉を動かさず、視線だけをわずかに細めた。



舞台──。



その言葉の重みが、湊の中で反響する。


「舞台、か。君にとって、俺たちは“演者”だというわけか?」

「ええ。……きっと皆さんは、与えられた役割の中で精一杯に生きていらっしゃるのでしょうね」


微笑を浮かべたまま、神村詩音は言葉を続ける。


「“演者”は舞台の上に存在し、“観客”はその外側にいる……その違いです」


それは、自分自身は演じていない──という意味にも受け取れる言い方だった。

だが、湊の目には、彼女自身こそが“最も精密に演じている存在”に映っていた。


「それなら君はなんだ? 君は観客を気取っているが……その振る舞い自体、すでに“舞台の一部”だよ」


詩音は目を細めて笑った。


「……そうかもしれませんね」


外の風が一際大きく吹き荒れ、窓ガラスがびしりと鳴った。

一瞬、詩音がその音に反応してわずかに肩を揺らしたのを、湊は見逃さなかった。


「怖くはないのか?」


問いに対し、彼女はふっと目を伏せた。


「怖い、というより……不思議と、胸騒ぎがするんです」

「胸騒ぎ?」


詩音はわずかに首を傾ける。


「何かが……舞台の“演出”を越えようとしている。そんな気がしてならないんです」


その目には、どこか本気の色が混じっていた。

その言葉は、単なる比喩にとどまらず、湊の中に奇妙なざわめきを残した。



そのとき、不意に。


「……“越えようとしている”って、どういうことですか?」


澄んだ声が、背後から投げかけられた。



湊と詩音が顔を上げる。



振り返ると、沙耶が、ぬいぐるみを抱いたまま二人のすぐそばに立っていた。

いつの間に近づいてきたのか、その足音に誰も気づいていなかった。

詩音は驚いたように目を瞬き、それから柔らかく微笑んだ。


「ごめんなさい、沙耶ちゃん。ちょっと難しい話をしていただけなの」


沙耶はうつむいたまま、詩音の顔をじっと見つめている。


「さっきから……何をお話ししているんですか?」


その声音には、いつもの無垢な響きではなく、わずかな緊張が混ざっていた。


「大丈夫よ」


詩音は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「“舞台”の話をしていただけ。これは物語──みんなで力を合わせて、最後までやり遂げる演目のようなもの」

「では……悪い役の方もいるんですか?」


沙耶の問いに、広間の空気がわずかに凍りついた。

誰もがその言葉の裏に、直感的な不安を感じ取ったのだ。



詩音はふっと瞼を閉じた。


「……そうね。でも、“悪役”にも役割があるわ。それが舞台というものだから」

「では……“悪役”は、どんな人なんですか?」


沙耶の目が、湊と詩音を交互に見つめる。



その眼差しは澄んでいて、しかしどこか、何かを見抜こうとするような力があった。



湊は息を飲み、言葉を飲み込んだ。



それきり、誰も言葉を継がなかった。



まるで、沙耶の問いかけが“何か”を呼び寄せてしまうことを、誰もが本能で恐れているかのようだった。

広間には再び静寂が戻り、雨音と風の唸りだけが外から届いてくる。

その音が、さっきよりもずっと強く、そして……不自然に聞こえた。



湊は耳を澄ませた。



風の音に混じって──何かが、どこかで、軋んでいる。



梁か、柱か。それとも扉の金具か。



だが、さっきまではこんな音はしていなかったはずだ。


「……この音、さっきまでしてたか?」


湊の呟きに、理沙が眉をひそめて答える。


「してなかったと思う。少なくとも私は、気づかなかった」


羽鳥が警戒するようにあたりを見回す。


「二階の廊下か? それとも、……外か?」


皆の視線が、広間の扉と、階段の方へと注がれる。

風の音とは明らかに異なる、“建物の中”から響く不快な軋み──。

それが、誰かの足音のようにも、あるいは呻き声のようにも聞こえた。



そのとき、不意に。



照明が一瞬、ふっと揺れた。



誰かが息を呑む音が聞こえ、沙耶がぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。



嵐は、さらに激しさを増していく。



だが、この館の中で起きている“何か”は、それとは別の、確かな意志を持って迫っていた。

湊が立ち上がり、柏原と赤坂に目配せをする。


「二階だ。様子を見に行くぞ」


二人が頷き、それぞれ懐中電灯と簡易ナイフを手に取る。

理沙が心配そうに湊を見るが、彼は小さく微笑んで言った。


「広間は頼む。羽鳥さんと沙耶ちゃんをお願い」

「わ、分かりました。気をつけてください」


理沙が答える。



羽鳥はソファに身を預けたまま、黙って頷いた。

湊たちは静かに広間を後にし、階段を上がっていく。

踏みしめるたびに、古びた木の軋む音が響く。

二階の廊下は、わずかに湿気を含んだ空気が漂っていた。

足元の板が鳴るたびに、背後に何かの気配を感じるような、妙な圧迫感がある。

柏原が先頭で廊下を進み、赤坂が背後を警戒しながらついてくる。



と、その時。



柏原が突然立ち止まった。


「……これ、見て」


壁の一部に、濡れたような痕跡が点々と続いている。

赤坂が懐中電灯を向けた先には、暗褐色に変色したような染みが不規則に付着していた。

湊が近づいてしゃがみ込み、指先でそっと触れる。


「……血じゃないな。ぬめりがある。油? いや、何かの……体液か?」


柏原が周囲を警戒するように目を細めた。


「こんなもの、誰が……」


三人は無言のまま、廊下の奥に視線を向ける。

その先には、いくつかの扉と、薄暗い突き当たりが待っていた。



静寂が、逆に耳を打つ。



──何者かが、そこに“いた”のかもしれない。

しかし、今はただ、異様な痕跡だけが残されていた。

広間に戻った湊たちを、理沙が無言で迎えた。

沙耶は変わらずぬいぐるみを抱いたまま座っており、羽鳥は足を投げ出してソファにもたれていた。

神村詩音は、相変わらず沈黙の中で微笑みを浮かべている。



湊は一つ息を吐いて、言う。


「異常はなかった。だが……おかしな痕跡が残っていた」


柏原も頷きながら補足する。


「血ではなかったけど、粘り気のある液体が壁に付着していたわ。あれは自然にできるものじゃない」


赤坂は言葉少なに、「気味が悪かった」とだけ口にした。



理沙が眉をひそめる。


「誰かの“演出”だとしたら……何のために?」

「恐怖を煽るためだろう」


湊は即答したが、その声には明らかな疲労が滲んでいた。


「俺たちが怯えれば怯えるほど、“それ”の思う壺なんだろう」


広間の空気が、じわじわと重くなる。



灯りの下にいながらも、誰もがまるで暗がりにいるような錯覚を覚えた。



詩音がぽつりと呟く。


「“演者”が本当に怖がったとき……“舞台”は動き出すんですよ」


誰も、その言葉に返すことができなかった。



外の嵐は、なおも収まる気配を見せない。



──まるで、この館が、“次の幕”の準備をしているかのように。

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