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第1話【白鷺館、到着】

 
挿絵



──夜の帳が、山を静かに包み込んでいた。


車を降りた三人は、舗装の剥がれた旧道を踏みしめながら、言葉少なに山道を進んでいく。

湊、理沙、柏原

──それぞれの足取りは重く、それでいて迷いはなかった。


冷たい空気が肌を刺す。

風はなく、ただ濃霧が音を吸い込み、あたりを不気味な静寂で包んでいた。



「……ここ、本当に館があるんですよね?」


理沙の声が、霧の中で震える。

湊は無言のまま、前方を見据えて歩を止めない。


柏原が背後から短く答えた。



「あるわ。十数年前まで、確かに“そこ”に存在していた。白鷺家の館

──白鷺館」


やがて、霧の向こうに崩れかけた巨影が現れた。


白鷺館。


屋根は崩れ、窓は砕け、外壁は苔と泥に覆われている。

かつて“白き迎賓館”と称されたというその姿は、今や見る影もない。



「ようこそ

──って感じじゃないわね」


柏原がぼそりと呟き、門柱の文字に目をやる。

そこには、錆びたプレートにかろうじて読める文字。


《白鷺館 私有地 無断立入禁止》

湊が無言で門に手をかけると、軋んだ音を立てながら金属製の扉が開いた。

その向こうからは、まるで生き物のように濃密な闇が滲み出していた。


三人は黙って門をくぐる。

足元の石畳はひび割れ、雑草が好き放題に伸びている。

それでも、館は確かにそこに在った。



「……何年も放置されてるのに、崩れずに残ってるなんて」


理沙が息を呑むように呟いた。



「“残されていた”のか、“残していた”のか……」


湊の声は低かったが、その意味は重い。


やがて、玄関前に到着する。

ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。

まるで、あらかじめ訪問者を受け入れる準備がされていたかのように。


ギ……と音を立てて開いた扉の奥からは、腐敗した空気と湿気、そして何か焦げたような臭いが漏れてきた。



「……人の気配はない、けど」


柏原が周囲を見回しながら言う。


懐中電灯で照らされた館内。

埃に覆われた家具、破れたカーテン、壁にはびこる黒カビ。

だが

──その光景の中でもっとも異様だったのは、床一面に描かれた“何か”だった。



「……これ、血……ですか……?」


理沙が目を見開いて立ち尽くす。

床には、赤黒く乾いた液体で幾何学的な紋様が描かれていた。

その中心には、奇妙な文が刻まれていた。


《血を流せ。そうすれば、扉は開かれる。》


「……ただの悪趣味ならいいんだけど」


柏原が低く呟き、床に片膝をついて文様を指先でなぞった。



「まだ完全には乾いてない……せいぜい数日ってところね。誰かが、最近ここに来た」


湊が、床の文様を見下ろしたまま、小さく息を吐く。



「“舞台”はすでに整っている、ってことか」


三人の視線が自然と奥へと向かう。


そのとき

──くすくす、と笑うような音がした。



「……今の、聞こえましたか?」


理沙が恐る恐る声を出す。

湊は懐中電灯を構え、音の方へ向けて照らす。

だが、そこには誰もいなかった。

ただ、朽ちた壁と闇があるだけ。



「笑い声だった……確かに。誰かが、いる」


柏原が懐から小型の拳銃を取り出す。慎重な動作だったが、その瞳には明確な警戒心が宿っていた。


湊は懐から封筒を取り出した。

白く、角に朱が滲んだその紙には


──


《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》


「“選ばれた”……ってことは、誰かが私たちを“知っている”ってことだよね」


理沙が不安げに言葉を継ぐ。



「理沙の言う通りだ。これは偶然じゃない。意図的な招待だ」


湊の声に、柏原も頷いた。



「警察にさえ“届かないように”仕掛けられた手紙。それ自体が、異常よ」


三人は室内を慎重に進んだ。

破れたソファ、倒れたランプ、壁際に散らばる書類の断片。

中には、かつての住人の生活の痕跡を感じさせるものもある。



「……誰かの、日記……?」


理沙が拾い上げた紙切れには、かろうじて“しらさぎ”の文字が残っていた。



「後でまとめて確認しましょう。今は奥を見ておきたい」


湊が前に出る。

埃を踏むたび、床板が軋む音が静寂に響いた。


闇の中、誰かの気配が確かにあった。

まるで、舞台袖から俯瞰してこちらを見ている“演出家”のように。



「……ここは、事件の中心になる」


湊がそう呟いたとき、玄関の扉がひとりでに軋み始めた。


その音に、三人の背筋がぴんと張る。



「今夜は、長くなりそうね」


柏原が静かに呟いた。


館の天井から、わずかに埃が舞った。

見えない誰かが、幕を握る手を少しだけ動かしたような錯覚。


三人の影が、廊下の奥へと伸びていく。

その先に待つのが罠か、謎か、あるいは演出された死か


──


まだ、誰にもわからなかった。


だが、確かなことがひとつだけあった。




──ここは、舞台だ。

そしてその幕は、もう

──上がってしまったのだ。




──そして、物語は静かに、その胎動を始めていた。



──そして、物語は静かに、その胎動を始めていた。



湊は、ゆっくりと懐中電灯の先を床に向けた。

埃の層に、複数の靴跡が刻まれているのが見えた。



「これ……俺たちのものじゃない」



「じゃあ……他に誰か、いるってことですか?」


理沙が怯えた声で問う。

柏原がしゃがみ込み、足跡の向きを確かめる。



「この大きさ……男性のものね。複数人。おそらくは

──」


柏原が言い終えるより早く、どこか遠くの部屋で
「コン」
と乾いた物音がした。

三人が同時に顔を上げる。緊張が一気に張り詰めた。



「行きましょう。静かに。声は出さないで」


湊が先頭に立ち、ゆっくりと音のした方向

──西棟の通路へと歩を進めた。

壁にはかつて高級感があっただろう装飾が施されているが、今はひび割れ、黴に蝕まれ、ただの朽ち果てた箱にすぎなかった。


(誰が、何のためにここへ導いたのか)

湊の思考は、冷静にその可能性を探る。

あの“招待状”が一人に向けられたものでないならば

──同じように導かれた“他者”がいるということだ。


そして、それは単なる偶然の集まりではない。




──計画だ。舞台装置としての、この館。

それは誰かが描いた筋書きのもとに、私たちを並ばせようとしている。


その筋書きを読み解くこと。それが探偵の役割。


湊は灯りの先にある扉の取手へと手を伸ばした。



「いいですか?」


柏原が頷き、理沙が緊張で息を呑んだ。




──カチリ。


扉は、鍵がかかっていなかった。


ゆっくりと開いたその奥には、暗がりの中に形だけが残されたベッドと、粉々に砕けたガラスの破片が散らばっていた。


そして、その床にもまた

──赤黒い染み。



「ここでも、何かが……?」


理沙が声を出す直前、湊が右手を挙げて制した。



「理沙、足元

──血痕を踏むな」



「っ……ご、ごめんなさい……」


柏原が懐から小さな袋を取り出し、そこから使い捨ての手袋を三人に配った。



「素手で触るのは厳禁。……これはもう、“事件”と見て間違いないわ」



「つまり、犯人は

──もうこの館の中にいるということですね」


湊の声は、すでにその結論に至っていた。


そして、その“誰か”は、おそらくすでに

──三人をどこかから“見ている”。


それは、確信だった。

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