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第2話【招かれた者たち】



──沈黙は、恐怖の幕開けだった。



広間の扉を開けた瞬間、そこには信じられない光景が広がっていた。

埃にまみれた天井、朽ちたシャンデリア、壁紙は剥がれ落ち、床には染みついたような黒い斑点。

だが──それ以上に、そこに「人」がいたことが、三人を驚かせた。



「……あんたたちも、招待された口か?」


腕を組み、胡散臭そうに睨んできたのは無精髭の中年男だった。


その隣にいたスーツ姿の女が、呆れたように付け加える。


「こんな場所、好きで来る人間なんているはずないでしょう」


一条湊は、ひとまず視線だけで彼らを観察した。

粗野な印象を与える男は、赤坂典孝。

職業は工務店の親方だったと名乗ったが、その風体に似合わず視線は鋭く、周囲の構造にも敏感に注意を払っている。


一方の女性、羽鳥綾子は冷徹さすら感じさせる瞳の奥に、何か測っているような光を宿していた。

都内の高校教師──だが、現在は休職中とのこと。




壁際には、やけに投げやりな姿勢で寄りかかっている若者の姿もあった。

茶髪のパーカー姿。視線は定まらず、口元には常に薄ら笑いが浮かんでいる。


「マジで……悪趣味すぎるって、これ……」


森崎悠斗。

軽薄な言動の裏に、無関心を装った警戒心が透けて見える。


理沙が顔をこわばらせて立ち尽くしていると──




階段の上から、ぽつりと白いワンピース姿の少女が現れた。


「……ここ、怖いね……」


その声は細く震えていた。

三ツ葉沙耶──儚げな風貌とは裏腹に、怯えているというより、様子を伺っているような気配がある。




理沙が駆け寄ろうと一歩を踏み出したとき、湊がそっと手を伸ばし、肩を押さえた。

目配せひとつ。油断するな、と。


沙耶の背後から現れたのは、ショートカットの落ち着いた雰囲気の女性だった。


神村詩音と名乗るその女性は、柔らかい笑みを浮かべていたが──その視線だけは異様に静かで、底が読めなかった。




「神村詩音と申します。看護師をしています」


柏原が彼女を睨むように一瞥したが、特に反応を示さなかった。


(違和感がある……あまりにも、落ち着きすぎている)


紹介を促すように、羽鳥が一歩前へ出る。


「……せっかく集められたのだから、お互いに名前くらいは知っておいた方がいいでしょう」


湊は短く頷き、それに続くように他の面々も口を開いていった。

赤坂はぶっきらぼうに、森崎は渋々ながら、沙耶はか細く、神村は礼儀正しく。

──だが、その誰もが、どこかで「隠して」いた。




自分を曝け出すことを恐れている。あるいは、観察し合っている。


どこかよそよそしく、警戒の視線が交錯するなかで、ふと湊の中に芽生えた感覚があった。


(この場には、“演じている者”がいる)


誰かが、台本を読みながらここに立っているかのような──そんな不自然な緊張。




紹介が一巡したそのとき。



廊下の奥から、「コツ、コツ……」と、誰かの歩く音が響いた。


湊が反射的に懐中電灯を向ける。だが、そこには誰もいなかった。


「……今の、聞こえましたか?」

理沙が恐る恐る尋ねる。


柏原はゆっくりと立ち上がり、懐から小型の拳銃を取り出した。

「気のせいじゃないわね……誰かが、いる」




その言葉が場に緊張を走らせた。

誰もが息を呑み、広間は再び静寂に支配される。


湊は、懐から白い封筒を取り出した。

角が朱に染まった、例の“招待状”。


《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》


それを見た羽鳥が目を細める。

「私たちも、それと同じものを……。差出人は不明のまま」


「警察のネットワークにも引っかからない差出人って……相当だわ」

柏原が唸るように言いながら、視線を床へ落とす。


そこには、先ほどの血文字に似た幾何学模様の一部がまだ残っていた。


「……この空間全体が、“舞台”みたいですね」



神村がぽつりと呟いた。


その言葉に、誰もが微かに反応する。


「舞台?」



理沙が思わず聞き返す。


「ええ。ほら──それぞれの“役者”が、決められた配置に従って立たされているような。そんな気がしませんか?」




不気味な静けさが、広間を満たしていく。


──この館に集められた者たち。



それぞれが“招待された”という共通点を持ち、しかし、それ以外のすべてが謎に包まれている。


信用できる者など、一人もいない。

その不信が、すでに“犯人の意図”の一部なのかもしれない。


湊は目を閉じ、深く息を吐いた。


(誰かが、動き出している。なら、こちらも──備えるしかない)




そのとき、階段の奥から、くすくす……と笑うような音が響いた。



男か女かすら判然としないその声に、広間全体が再び凍りついた。


──幕は、すでに上がっている。



誰が演じ、誰が観るのか。

その境界すら曖昧なまま、彼らの“初夜”が、静かに幕を開けたのだった。



その沈黙を破ったのは、森崎だった。



「これ、マジで脱出ゲームか何か? ……って感じだよな」


誰も応えない。

だが彼の口調の裏にある不安は、誰よりも真っ当なものだったのかもしれない。


湊は、森崎の言葉に返答せず、その目の奥を観察していた。


(笑っているようで、怯えている。軽薄な言葉で、自分を守っている)


理沙は沙耶の手をそっと握りしめた。

その小さな手が、氷のように冷たかった。


沙耶の視線は、広間の奥に立つ神村詩音を見つめていた。

その横顔は微笑を浮かべているが、どこか無機質で、まるで仮面のように整いすぎていた。


神村は沙耶の視線に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。


……ふ、と笑った。


(……この人は、感情を測っている。空気を読み、最も無難な顔を選んでいる)


湊は、背筋の奥で薄い戦慄を覚えた。


まるで、“役を与えられた演者”が、その台詞を忠実にこなしているかのような存在感。


その直後だった。



羽鳥が、封筒を手にそっとつぶやいた。


「……この招待状、本当に“選ばれた”ものなのかしら」


柏原が答える。


「選ばれたというより、“仕組まれた”のよ」


理沙が声を潜めるように問い返す。


「じゃあ、誰が? 誰がこんなことを……」


湊は封筒を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。

その紙には、筆跡も差出人も書かれていない。


だが──確かに“意味”がある。



それをここにいる全員が、無意識のうちに理解していた。


「これは、舞台装置だ」



湊が、ぽつりと口にした。


その瞬間、再び──広間が静寂に包まれる。




埃に沈む空間。割れた窓。沈黙の家具たち。

そして、何よりも不気味なのは、


──誰も、その“主催者”を名乗っていないという事実だった。




(まるで、舞台袖に潜む“演出家”が、その存在をあえて消しているようだ)




その時、階段の奥から──またしても、くすくす……という笑い声が聞こえた。




それは、誰かがこの場を“観ている”ことを告げていた。




……その視線が、ただの狂気か、あるいは理性の産物か──今はまだわからない。




だが湊は、確信していた。


この白鷺館には、すでに“幕”が下りているのではない。


──幕が、上がっている。




そして彼らはすでに、その舞台の“上”に立たされているのだった。




神村は、静かに沙耶に歩み寄る。

その動きはあまりに自然で、だが湊の目には“計られた距離感”に見えた。


「……怖いですよね。こんな場所に、いきなり連れてこられて」


沙耶はこくりと小さく頷く。

しかしその瞳は、ただ怯えるだけでなく、相手の“奥”を覗こうとする光を帯びていた。


(この少女は……ただの被害者じゃない。まだ、何も知らないだけだ)


湊は、わずかに息を吸い込んだ。


(だが彼女は、この物語の中で“鍵”になる存在だ)


その確信は、まだ輪郭を持たぬ直感に過ぎなかった。


だが、“演出された館”という舞台の上で、偶然は存在しない。



そう──誰もが、ここに立たされた理由を持っている。




その意味を解き明かすこと。


それこそが、探偵・一条湊に与えられた“役割”なのだ。

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