第72話 『駄目人間』の勝利宣言
「ここは?」
頭痛とめまいを感じながら、誠は目を覚ました。
彼が最初に見たのは、痩せた眼鏡の医師の、日焼けした顔だった。
彼もまた『釣り部』の一員なのだろう。
誠はぼんやりとした頭でそんなことを考えていた。
その隣では見慣れないこれも『釣り部』に所属しているであろう日焼けした女看護師のたむろする中で、心配そうに誠を見つめているひよこの姿が有った。
「起きましたよ、隊長。神前君、しばらくは安静にしていたほうがよさそうですね」
誠が磯釣りが好きだと確信した軍医が振り返った先には、嵯峨がついたての隙間から入り口の方を見ている姿があった。
『起きたってよ!』
病室を仕切るパーテーションの後ろ側からあわてた調子でかなめがつぶやく声が聞こえる。
『騒ぐな西園寺。一応ここは病室だ』
落ち着いた調子を装うのに必死なカウラの声が聞こえてくる。
『残念ねえ……せっかく私が『
小さい声だが、アメリアは明らかに誠にも話し声が聞こえるように話していた。
『また作ったの?あのプロマイド。ただ単にアメリアが高校の日本史の教科書から『
不服そうな調子でサラが突っ込みを入れる。
『その時の教科書の代金……もらってないわね。いつだって雑用は私達に押し付けてアメリアは遊んでばかりだもの。これ以上損するのはごめんよ』
パーラはすっかり呆れた調子だった。
『へー。今度『ザビエル』でやりません?高校時代授業中昼寝の間によく落書きしたんすけど、中でも最高傑作は『ザビエル』なんで。……『ザビエル』って……縄文時代の人でしたっけ?』
今度はまるで声を小さくするつもりはないというような『馬鹿』な島田の声が響く。
いくら歴史が苦手な誠も『縄文時代』の歴史的人物の絵はさすがに存在しないことは知っていた。
嵯峨はそんな様子を注意するわけでもなく、とりあえず誠に向き直る。
「まあ、初めてってのは何でも大変なものだ。ドクター。なんか問題点とかありました?」
外の騒動に笑顔を浮かべながら、嵯峨は小柄な釣り好き軍医に声をかけた。
「特にないですね。多少の緊張状態から来る神経衰弱が見られる他は健康そのものですな。うちの技術部のだらけた連中よりよっぽど健康的ですよ。まあ乗り物酔いと緊張した時の胃の内容物の逆流する症状は慣れるしかないみたいですけどね」
朗らかに軍医はそう言うと席を立った。
「それと、やはりもう自室に戻るべきかもしれないね。あの連中がなだれ込んでくる前に」
そう軍医が言って出て行ったとたんに病室のドアからなだれ込む人影があった。
「なんだ、元気そうじゃないか」
軍医と誠に駆け寄ろうとするひよこを押しのけてかなめ達が入ってきた。
皆、笑顔で上体を起こした格好の誠を見つめた。
「とりあえず差し入れ」
と言うとかなめが飲みかけのラム酒のビンを突き出してくる。
「間接キッス狙いね!油断も隙も無いんだから」
「馬鹿野郎!んな訳ねえだろ!たまたま他にやるもんがねえからだな!その……なんだ……」
かなめはアメリアに言われて言葉を濁しながらおずおずと下を向く。
「馬鹿は良いとして、本当に大丈夫か?」
カウラがそう言うと誠の背に手を当てて、起き上がろうとする誠を支えた。
バランスが少し崩れて、誠の顔とカウラの顔が数センチの距離で止まる。
カウラのシャワーの後の石鹸の残り香が誠には心地よく感じられた。
しかし、すぐさまアメリアのニヤついた顔を見つけた誠は、それをごまかすようにカウラの手を借りてベッドから降りた。
「大丈夫ですよ……それより目覚めちゃったんですよね……僕……」
そう言って|俯《うつむ》く誠にアメリアは明るい笑顔を向けた。
「そう産まれちゃったんだからしょうがないじゃないの!私も『戦う使い捨ての繁殖人形』に過ぎない『ラスト・バタリオン』として生を受けたけど今ではそれなりに人生楽しんでるわよ!誠ちゃんも『法術師』だからって人生楽しんじゃいけないなんて言う法律は無いんだもの!何事も前向きにとらえなきゃ!」
アメリアはそう言って誠の肩をバンバンと叩いた。
「そうですよね……じゃあ……ってすいません!」
靴を履こうとした誠がよろける。
彼を慌ててカウラが支えた。
二人は思わず見つめあう形になる。
「ごほん」
わざとらしくかなめが咳ばらいをした。
誠はカウラに支えられて、なんとか態勢を立て直すと、握っていたカウラの手を離した。
「それにしても行きは急ぎだっていうのにちんたらパルスエンジンで一週間もかかったのに、帰りは亜空間転移で三日で帰任かよ……まったく同盟法はどうなってるのかねえ……まあ出動時は『ふさ』は軍艦扱いで遼州星系内での亜空間転移が条約で禁止されているわけで、それが帰りは元の警察扱いってことはわかるんけど……まったく融通が利かねえな」
明らかにカウラ達を気にしているかなめがあてこするように嵯峨に言った。
「俺に言っても無駄だよ。同盟法は同盟機構が立案して同盟議会が可決した法案だ。そんな一司法執行関の部隊長がおいそれといじれるもんか」
「同盟機構を提唱して各法案をねじ込んだ人がそれを言います?」
「同機構を提唱?各法案をねじ込んだ?」
誠はアメリアの『特殊』な言葉の意味を理解できずに反芻するばかりだった。
「いいの!病人は気にしなくても!それより祝勝会をするから!誠ちゃんの『偉大なパワー』で全宇宙を平和にする可能性が生まれた!そのお祝いよ!」
糸目でそう言い切るアメリアを見上げて、誠はただ苦笑いを浮かべて自分の運命がこの『特殊な部隊』で決定的に変わってしまったことを悟った。
苦笑いを浮かべる誠をひよこは心配そうな目で見つめていた。
「人を殺しておいてお祝いか……僕にはそんな気には……」
誠の脳裏には自分が消し飛ばした『那珂』のブリッジが焼き付いていた。
「それが軍人と言うものよ!楽しむ時には楽しむ!さあ!楽しみましょう!」
まだ無理は禁物だと叫ぶひよこを無視してアメリア達は誠を拉致していった。
騒々しい誠達が去った病室で一人静かに嵯峨はベッドに座り込んでいた。
胸のポケットからタバコを取り出すが、さすがに『駄目人間』な嵯峨も医務室でそれを口にすることは無かった。
唯一の病人であった誠が去ると『釣り部』に所属する医療スタッフも恐らく宴会に使うであろう魚の調理の為に医務室を後にして嵯峨は一人この奇妙なほど清潔な部屋に取り残された。
「カーンの爺さん、俺の負けだよ。俺は『非情』になり切れなかった。近藤さん達を『犯罪者』にはできたが、『社会的に消す』ことはできなかった。近藤さんもその意味では勝利者なのかもしれないな」
嵯峨はそう言って力なく笑った。
「今回の事件は記録として残る。それだけは止められなかった。そしてその記録を見た同じような思想の『貴族主義者』は俺達の前にもっと強くなって立ちはだかるのももう確定事項だ。負けたよ……俺の負けだよ。近藤のおっさんはもっとあんた好みの『非道』な殺し方もできたんだ……近藤の旦那には記録にさえ残らないような無様な最期を用意してやることもできたはずだ……どうにもまだ俺は不十分な『駄目人間』みてえだわ」
嵯峨はそう言うと立ち上がり、医務室を眺める。
嵯峨のほかには誰もいない。
医務室勤務の『釣りマニア』達は祝勝会の『魚料理』による歓迎に命を懸けているので、ここはもぬけの殻だった。
「俺は隊長失格だな。今回、何人死んだ?近藤さんの部下。近藤さんとその家族につまらない情けをかけたばっかりに、近藤さんの自殺の道連れ百人越えか。一人を殺して二人を生かすのが正しい……そう思ってきてこのざまか。近藤さんの『妻子』をどうにかすれば……俺にはできねえな。俺の手は汚れてるが、『鬼』になりきることができてねえんだな。そんな『甘ちゃん』の俺をカーンの爺さんは笑ってんだろうな。爺さんはまだ『|第二次遼州大戦《まえのせんそう》』は決着がついていないと信念の白人至上主義を貫いてそれが正しいと思って戦ってる……俺は爺さんの真似は出来ねえ……俺にはそこまでの覚悟はねえんだ」
そう言って嵯峨は医務室の薬品の入った扉をポケットからカギを取り出して慣れた手つきで開ける。
そこには劇薬の類が並んでいた。
嵯峨のぼんやりとした視線は変わることが無かった。
「気高い死を望む奴ほど心が脆いもんだ。肉親や仲間にちょっとひどい目を見せてやれば簡単に壊れる。『
嵯峨の顔に落胆の表情が浮かぶ。
致死量数グラム以下の劇薬の小瓶を1つ1つ手にとっては棚に戻す嵯峨。
そこにはまるで感情の色が見えなかった。
「なんだか俺の人生『負け』ばっかりだな。生まれるともうその国『遼帝国』は負けが決まった国だった。育った『甲武国』は『
嵯峨は薬品の並んだ棚を見ながら自嘲気味の笑みを浮かべてそう言った。
「ただ、究極の『剣士』が見つかった。神前は『法術師』として『覚醒』したんだ。爺さんとの勝負には負けたが、これから俺は『廃帝』や『ビッグブラザー』と戦争をする予定だ。そっちの勝利は譲れねえよ。今回は哀れな近藤の旦那のおかげで俺にも勝ち運が向いてきたのが分かった。だから最終的に俺は勝ってるんだ。悪かったな、じ・い・さ・ん」
薬品庫に目をやる嵯峨の口元に自嘲気味の笑みが浮かんだ。
「ただ、今回の神前の『法術師としての覚醒』で、俺やランの見た目が年齢と合わない理由が『全宇宙』にばれちまった。俺達、遼州人『リャオ』が文明を必要としない超能力者集団だってことがばれちゃったんだよ。『地球圏』で知ってるのは進駐している軍隊だけだからいいけど、遼州同盟の偉いさんは大変だな……とんでもない『パンドラの
嵯峨は静かにだらしなく着こんだ司法局実働部隊の制服のネクタイを締めなおして医務室の入り口に足を向ける。
「とりあえず『勝った』らしいから……盗聴中の『ビッグブラザー』関係者のみなさん……俺、とりあえず勝ったんで」

そう言って嵯峨は悠然と医務室を立ち去った。