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3.鬼の王、悪路王

 小角が葛城山を立ってから一ヶ月後、17歳の若き法術師が見た極寒の蝦夷地は、まさしく"修羅場"であった。
 悪路王を崇拝する狂信者たちは、自らを"鬼国民"と呼び、皆一様に死にものぐるいとなって、大和朝廷から派遣された田村麻呂率いる討伐隊に迫ってきた。

「──鬼の王をたたえよぉっ──!!」
「──デェェエエイッッ──!!」

 叫びながら突撃した狂信者の男が若い侍の振るった太刀によって斬られると、男は腹から臓物をこぼしながらも侍の体にしがみついて、その動きを封じた。

「──鬼の国! ばんざぁいっ──!!」
「──我らが鬼の王はついに目覚めたのだぁっ──!!」

 動きを封じられた若い侍に対して、満面の笑みを浮かべた男女の狂信者が叫びながら飛びかかり、その体に取り付いた。

「──離れよッ! ──デヤァアアアッ──!!」

 取り付いた男女を中年の侍が太刀で斬り捨てて強引に引き剥がすと、取り付かれていた若い侍の脇腹やふとももには小さな"穴"が穿たれており、血を噴き出しながら雪上に倒れ込んでいた。

「……な、なんなのだこいつら……正気の沙汰ではない……」

 満面の笑みを浮かべたまま息絶えた三人の狂信者の姿を目にした小角は、その口から白い息と共に言葉を漏らした。
 悪路王の狂信者たちは、刀も槍も用いない。彼らは皆一様にして鋭く研がれた錐(きり)を武器として用いる。そしてそれが殊更に"鬼国民"の異様さを際立たせていた。


「──小角殿……! 法術を頼む!」
「は、はい……! ──オン──アミリテイ──ウン──ハッタ──」

 中年の侍が小角に声を掛けると、小角は頷いて返してから〈黄金の錫杖〉を構えて雪上に崩折れる若い侍に向けて軍荼利明王のマントラを詠唱した。

「……ああ、傷が塞がっていくのがわかる……助かった、小角殿……!」

 苦悶の表情を浮かべながら出血に苦しんでいた若い侍の体から出血が止まると、若い侍は笑みをこぼしながら小角に感謝の言葉を述べた。

「これが小角殿の法力……最初こそ疑っていたが、いや、これは本物……! 非常にありがたいものだ!」
「討伐隊のお役に立てているようで、光栄です」

 法術によって怪我が治癒するその様子を見届けた中年の侍が感心したように告げると、小角は〈黄金の錫杖〉を胸に抱きかかえながらほほ笑んで返した。
 白い法衣に身を包んだ小角は、〈黄金の錫杖〉を用いて、"鬼国民"と戦う侍衆に向けて法術で後方から支援した。
 特に多く用いたのが、怪我を治癒する軍荼利明王のマントラと、筋力を増強して疲労を軽減させる大威徳明王のマントラであった。
 一言主から受け取った〈黄金の錫杖〉は、小角の法力を格段に高め、マントラの効果を飛躍的に強めていた。
 一ヶ月前、京で討伐隊に加わった際には、"経験不足の若い法術師"、"無名であり信用ならない"として侍衆からあなどられていた小角であったが、今や討伐隊の中核を担うまでの八面六臂の活躍をしていた。
 小角の法術による支援を受けた侍衆は迫りくる鬼国民を次々と斬り捨てながら止まらずに歩みを進め、白い雪の積もる蝦夷の大地を鮮血の道で赤く染め上げていった。

「……はぁ……はぁ……!」
「──ご苦労でおじゃ、小角殿。皆、小角殿を頼りにしているでおじゃるよ──」

 鬼国民の亡骸を前にして息を切らした小角に対して、徒歩で移動する50人の侍集団の中にあって一人だけ白馬に騎乗した侍が馬上から声を掛けた。

「ッ──! ……田村麻呂様ッ! ははッ……ありがたき、お言葉、恐悦至極に存じます……!」

 小角はその得も言われぬ"やんごとなき雰囲気"を漂わせた顔を見上げるやいなや、頭を下げて感謝の声を発した。
 白馬に騎乗したその人物は、討伐隊を率いる征夷大将軍──坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)その人に他ならなかった。
 小角に対して、高貴なほほ笑みを浮かべた田村麻呂は優雅に頷いて返すと、侍衆を見渡して声を上げた。

「蝦夷の民草の情報によれば、彼奴(きゃつ)の根城はこの寒村の洞窟内にあるそうな! 皆の衆! ──心して取り掛かろうぞ!!」
「──オオオオオッッ──!!」

 田村麻呂の呼びかけに呼応した侍衆は、太刀を高く掲げて野太い鬨の声を張り上げた。
 そして、狂信者を葬りながら寂れた村を進むと、左右の岩の間に注連縄が垂れ下がり、真っ赤な鳥居が置かれた異様な洞窟の入り口に侍衆は集まった。

「……まるで、神社のようだな」
「……鬼を名乗る分際で……」

 侍衆がその光景を見て口々に言うと、赤い絹製の面頬をつけた白馬から降りた田村麻呂が侍衆の先頭に立って口を開いた。

「──では、皆の衆……"鬼退治"と参ろうぞ」

 そう告げた田村麻呂が先陣を切って真っ赤な鳥居をくぐり洞窟の中に足を踏み入れると、駆け出した侍衆は田村麻呂を中央に配置して護るような陣形に展開しながら洞窟内に歩を進めた。

「……悪路王……会いに来たぞ……いったい私に何を見せてくれる……」

 小角は〈黄金の錫杖〉を両手で固く握りしめながら小声で呟くと、討伐隊の最後尾となって洞窟の中に足を踏み入れた。

「──小角殿、このロウソクを見よ」
「……え」

 小角の前を行く中年の侍が不意に立ち止まって声を掛けてきた。薄暗い洞窟の道には甘い香りを漂わせる無数のロウソクが至るところに置かれており、大小の妖しい灯し火をゆらゆらと揺らしていた。

「──人の指だ」
「……ッ!?」

 小角は中年の侍に指摘されて初めて気づいた。凍えるような寒さの洞窟内を照らし出すそれら無数のロウソクは、すべて人間の人差し指の先端に蝋を付けて火を灯している物体であった。

「──そういや、あの狂信者ども……皆揃って人差し指がなかったな……ふざけおって……」

 中年の侍が強い嫌悪感を込めながら言った言葉を耳にした小角は確かに、これまで遭遇した鬼国民には全員人差し指がなかったことを思い出した。

「……自らの指を捧げることで、"鬼の国の民"として認められるのでしょうか?」
「……知ったことかよ」

 小角が頭に浮かんだ考えを告げると、中年の侍は考えたくもないというように首を横に振りながら吐き捨てるようにそう言うと、再び歩き出した。
 洞窟ゆえの酸素の薄さ、足を止めれば体の芯から凍りついてしまうような寒さ、それにロウソクの煙から漂う妙に甘い匂いとによって小角の思考はぐらぐらと揺れていた。
 そんな朦朧とした意識状態で前方の侍集団の背中を見ながら歩を進めていた小角は、突如として明るく照らし出された大きく開けた広間に出たことに驚いた。

「……ッ!?」

 その瞬間、小角の前方にいた侍衆が一斉に素早く動き出し、田村麻呂を後方に回すように陣形を変えながらそれぞれ太刀を構えた。
 そしてその先には──煌々と光る無数の"指ロウソク"を灯した漆黒の祭壇を玉座のようにして、あぐらをかいて座る上半裸の美しい男が一人いた。
 初雪のような白い肌に彫刻のように鍛え抜かれた肉体、目鼻立ちが整った顔は性別不詳の麗人のようであり、肌より白く長い髪が肩の下まで伸びていた。

「──お侍様がた、よくぞ参られました──遠路はるばる、このような極寒の僻地まで──さぞや大変だったでしょうに、ご足労おかけして恐縮です──」

 両眼を閉じた男は優女(やさおんな)のような声音でそう言うと、にんまりとした不敵な笑みを浮かべた。
 男が座している漆黒の祭壇からは"背もたれ"のようにして岩壁が天井に向かって伸びており、その黒い壁面には"仏曼荼羅"ならぬ"鬼曼荼羅"が赤い血で大きく描かれていた。

「──麻呂は征夷大将軍、坂上田村麻呂でおじゃる。大和朝廷より蝦夷地に巣食う悪逆非道の鬼の王──悪路王の討伐を命じられて馳せ参じ申した──して、そちが悪名高き鬼の王──悪路王に相違ないな──?」

 田村麻呂の雅(みやび)な言葉が洞窟の奥の広間に木霊すると、悪路王と呼ばれた美しい男は静かに口を開いた。

「──如何にも──私の名は悪路王、蝦夷の大地に鬼の国を建国せし鬼の王──朝廷に対して不遜な行いであることは、重々承知──とはいえ、悪逆非道は鬼の性分ゆえ──なにとぞ、ご容赦願いたい──」

 悪路王は悪びれることなく不気味な笑みを浮かべると、赤い唇を引き裂きながらそう告げた。

「──ふむ……麻呂がそなたの顔を見受けたところ──額に鬼の角が生えていなければ、口から牙も生えていないようでおじゃるな──?」

 田村麻呂は祭壇に座る悪路王の顔を見ながら告げる。京で出回っていた"悪路王の人相書き"には鬼の角と牙が生えていたが、実際の悪路王には生えていなかった。

「──ふっ。鬼とは人、人とは鬼……両者にいったい何の違いがありましょうか? ──人は鬼にも仏にもなれる……私は人の身でありながら、鬼の王となる道を選んだ──ただ、それだけのこと──」

 悪路王は祭壇の左右に置いてある阿吽像を白い指で撫で回しながら、目を閉じたまま妖しい声音で話した。

「──ところでお侍様がた、どうぞ教えてくださいませ──私を慕い、愛し、敬ってくださった"民衆"の血は……美味でありましたでしょうか──?」
「……何が"民衆"だッッ──!! これ以上、ふざけたことを抜かすでないぞッッ──!!」
「……無垢な人心をかどわかし、狂気の中に捕らえおってッッ──!!」
「……こんの鬼畜生めがッッ──!! 今すぐに成敗してくれるッッ──!!」

 悪路王の問いかけにしびれを切らした侍衆が、太刀を構えながら吼えるように罵声の声を浴びせ掛けた。

「──皆の衆、彼奴(きゃつ)の話をまともに聞くでないぞよ──"悪路"に引きずり込まれるでおじゃるよ」

 田村麻呂は穏やかな顔つきながら、鋭い眼光で祭壇に座する悪路王の姿を見据えながら告げた。
 それに対して、悪路王はふっと軽く笑ってから祭壇の左右の"腕置き"に置かれていた黒く歪んだ阿吽像を両手で持ち上げて、愛でるように眺め始めた。

「──私が生まれ落ちたその夜、この村に"隕石"が落ちました……私が呼び寄せたのだと、母はしきりに言っておりました……そして、お前は"羅刹"の生まれ変わりだと……生むべきではなかったとも、言っておられました──」
「……ッ」

 悪路王は母との会話を懐かしむように言いながら薄っすらとその両眼を開いた。初雪のように白い肌と絹糸のように白く長いまつ毛が伸びるその目元に、突如として血の色をした赤い切れ込みがスッ──と顕れたのを見て小角は思わず息を呑んだ。

「──こちらの阿吽像は、私が生まれた日に落ちた"隕石"から取り出した"隕鉄"を──私自らが鍛えて造り上げた、至極の一品にございます──」

 侍衆が一斉に太刀を構えて緊張する中、悪路王は楽しげに告げると、阿形と吽形の隕鉄製の仁王像を左右の手に握りしめたままあぐらを解いた。

「──困ったものでしてね……この阿吽像が毎夜、私に告げるのです──吸わせろと……たらふく人の血を吸わせろと──」

 悪路王の優しい声音で告げられるおぞましい言葉を耳にした小角は背筋が凍るような悪寒を感じ、震える両手で〈黄金の錫杖〉を胸元に抱き寄せて握りしめた。

「──お母様、大勢のかたが来てくれましたよ──今、たらふく、吸わせて差し上げますからね──」

 笑みを浮かべた悪路王は両手に握りしめた阿吽像の歪んだ顔を見ながら話しかけるようにそう告げると、腰掛けていた祭壇からスッ──と飛び降り、壇上を一歩二歩と降り始めた。

「──お侍様がた──さぁ、世にも愉快な"鬼の宴"を開催いたしましょう──」

 阿吽像を握りしめた両腕を広げながら、まるで侍衆を"歓迎"するかのように穏やかな声音で告げた悪路王。
 次の瞬間、悪路王の両眼が大きく見開かれ、眼球まるごと血の色をした赤い"魔眼"がぎょろりと討伐隊に向けられた。

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