4.大空華
次の瞬間──九本の太刀によって串刺しにされ、息絶えた悪路王の姿を、放心状態となった小角は目に涙を浮かべながら見上げていた。
"鬼曼荼羅"が描かれた黒い壁面に磔(はりつけ)にされるように、首、左肩、両腕、心臓、右脇腹、胴体、両脚とでたらめに九本の太刀が突き刺されており、悪路王は鍛え抜かれたその美しい身体の節々から赤い血をぼたりぼたりと重く垂れ流していた。
「──ハァ……ハァ……ハァ……ッ──」
白い法衣の至る所を戦場から飛び散って飛来した鮮血で赤く染めた小角は、震える両手で〈黄金の錫杖〉を抱きしめながら荒い呼吸を繰り返した。
磔にされている悪路王の頭部はだらりと伏せられており、長く垂れ下がった白い頭髪によって死に顔はうかがい見えなかった。
「……ハァ……はぁ……はぁ……」
小角の呼吸が落ち着きを取り戻し始めると、悪路王が磔にされている祭壇から視線を下ろし、散乱した血肉によって赤く染まった祭壇前の戦場を見やった。
侍衆と悪路王が死闘を繰り広げた戦場には、ほんの数分前まで生きた侍だった肉塊が、はじけたザクロのように大量に散らばっていた。
「……うう……ああッ……」
「──介錯御免」
顔が潰れた状態の侍がうめき声を上げながら手を伸ばす。しかし、助かる見込みは皆無であり、他の侍の介錯によって手早く絶命させられた。
このような凄惨な"修羅場"でありながら、小角は奇跡的に無傷であった。
しかし、それは果たして本当に奇跡であったのだろうか──小角は自分自身を疑っていた。
「──…………──」
ほんの数分前──後方で侍衆に向けて筋力を増強させ、疲労を軽減させる法術を唱え続けていた小角は、度々悪路王と目が合っていた。
目が合う度に悪路王は美しい笑みを浮かべ、怒声を張り上げながら迫ってくる侍たちを次々と両手の阿吽像で肉塊に変えていった。
後方に陣取って無防備にマントラを唱え続ける小角を始末することなど、悪路王からすれば赤子の手をひねるより容易いこと。
しかし、悪路王はそれをしなかった──。
「──覚悟ォォオオッッ──!!」
侍の雄叫びとともに悪路王の腕に振り下ろされた太刀は一寸潜り込んだだけで強靭な筋肉によって阻まれて止まり、それにギョッとした侍の口めがけて阿行像が猛烈な勢いでぶつけられ、顔面がゴシュン──と異様な音を立てて破砕された。
「……ひ、人にあって、人にあらず……! 此奴(きゃつ)は、正真正銘、鬼の王……!」
悪路王によって肉塊に転じた仲間を見て怯えた侍が太刀を構えながら後ずさり叫ぶと、田村麻呂が一歩前に足を踏み出した。
「──ならば、成敗するまで! ここで我らが怯めば、日ノ本で鬼の世が始まるでおじゃるぞ──!!」
田村麻呂は怖気付いて逃げ出そうとする侍たちを鼓舞するように太刀を振り上げて決起の声を張り上げた。
「──皆の衆……!! 麻呂に続くのでおじゃあッッ──!!」
「殿……!?」
「殿に続けェエエエエッッ──!!」
「──ウォオオオオッッ──!!」
駆け出した田村麻呂の姿を目にした侍たちが雄叫びを上げながら走り出すと、その光景を見て喜んだのは悪路王であった。
鮮血にまみれた赤い唇を裂いてにんまりとした笑みを浮かべると、眼光鋭い坂上田村麻呂、そして決死の形相で向かってくる侍の一群に向けて両手の阿吽像を激しく叩いてカチ鳴らし、嬉しそうに両眼を見開きながら叫んだ。
「──なんと素晴らしいッッ──!! それでこそお侍様の生き様ッッ──!! 共に地獄の底まで落ち切りましょうッッ──!!」
悪路王は称賛するように嬉々とした声を発すると、赤い血肉がこびりついた阿吽像を握った両腕を広げ、突撃してくる侍たちを歓迎するように仁王立ちとなった。
「ここで彼奴を野放しにすれば、日ノ本にどれだけの災禍が降ろうか──!!」
「わしらで喰い止める、ここで鬼の種を完全に摘み取るのだ──!!」
若い息子の侍と濃いヒゲで顔覆った初老の父親の侍が互いに声を発しながら、先陣を切る田村麻呂を追い抜いて悪路王へと接近する。
「──ダァァァアアアッッ──!!」
そして、絶叫しながら太刀を横薙ぎに振るった若い侍。悪路王はかろやかに低く身を伏せてかわすと、両手の阿吽像をドンッ──と侍の胴体に叩き合わせて、肋骨と内蔵を丸ごと粉砕せしめた。
「──デイ、ヤァァァッッ──!!」
すかさず、濃いヒゲで顔を覆った初老の侍が野太い声を発しながら悪路王の頭に向けて太刀を振り下ろすと、悪路王はダンッと力強く跳躍し、頭突きで太刀の刃を押し返しながら侍の頭部を打ち砕いた。
「──怯むなッ! 怯むでないッッ──!!」
皆から親しまれた親子の侍が瞬く間に駆逐された光景を目の当たりにして絶句し、再び足を止めた侍たちに向けて田村麻呂は声を発すると、着地した悪路王の背中目掛けて太刀で斬り掛かった。
「──ヤリェェエエエッッ──!!」
「──愉快──愉快──」
裂帛の声を張り上げながら斬り掛かる田村麻呂に向けて、悪路王は笑みを浮かべて振り返りながら言葉を繰り返すと、田村麻呂の分厚い鎧を着込んだ胴体目掛けて素早く左足で蹴りを繰り出した。
「──ぐッほ……!!」
重厚な造りの鎧が一瞬でへしゃげるほどの威力を腹に受けた田村麻呂は顔を歪めると、蹴られた勢いで洞窟の冷たい地面を転がっていった。
「──殿ォッ──!!」
「──よくも、我らが殿をォオオオオッッ──!!」
田村麻呂が蹴られたことを引き金に侍衆は"恐れ"というタガを失って悪路王目掛けて捨て身の突撃を開始した。
そして洞窟内に響くのは、侍たちの怒号と雄叫びと肉が潰れる音──その中にあって、悪路王は終始笑みを浮かべたまま心の底から殺戮を楽しんでいた。
小角に対して殺しがいかに楽しいかを伝えるかのように、悪路王は踊るようにして、向かってくる侍たちを次々と真っ赤な肉塊の花へと変貌させていった。
「──ぬおおおッッ──!! ッグゴ……!!」
咆哮を発した侍がまた一人、肉塊へと転じた。悪路王の濁っていた赤黒い眼球は、舞えば舞うほどに輝きを増していき、いまや美しい真紅の色に染まっていた。
小角はマントラを唱え、侍たちを法術で支援しながらも、しかし、その視線は悪路王ただ一人に注がれており、悪路王もまた時折、小角を見ては魅力的にほほ笑んだ。
──悪路王よ、おぬしは美しい……恐ろしいまでに美しい。
指ロウソクの甘い香りと新鮮な血肉の入り混じった混沌とした匂いを鼻に嗅ぎながら、小角はどうしようもなく、そう思ってしまった。
──"純然たる悪"……"超然たる美"……これほどまでに鬼の道を極めんとした人間がいまだかつて、この世に居たであろうか。
赤い血肉をこびりつかせた隕鉄の阿吽像を振り回し、白く長い髪をなびかせながら華麗に舞い踊る悪路王と視線を交差させた小角。
──ああ……悪路王よ……私は──私は、おぬしになりたい……否ッッ──!! おぬしを超えたい──。
小角の夢うつつとした時間──しかし、不意の一突きがその夢幻にも想える時間に終止符を打った。
地面から立ち上がった田村麻呂が撃ち放った渾身の太刀の一突きが悪路王の右脇腹に突き刺さったのである。
次いで、決死の侍が突き伸ばした太刀の一突きが悪路王の左肩に突き刺さった。
そこからは、侍たちの怒涛の勢いである──次々と太刀の切先が汗を輝かせた悪路王の白い身体に向けて突き放たれていった。
「──今ぞッ! 貫けェェッッ──!!」
「──殺れぇぇぇッッ──!!」
怒号を発しながら突撃する侍たちによって祭壇の壁面へと押し付けられた悪路王は、両手に肉片のこびりついた阿吽像を固く握りしめたまま、串刺しの芸術作品と成り変わっていった。
悪路王は幾度も身体を刺されてもなお静かな笑みをたたえており、断末魔の悲鳴を上げたり、苦痛に顔を歪ませることはついぞなかった。
戦いに必死だった侍たちは誰もそのことに気づかなかったかもしれないが、戦場の後方に陣取っていた小角は悪路王のその様子をしかと見ていた。
彼は最後の最後まで、鬼の宴を味わい、楽しんでいたのであった。
「……小角殿、無事でおじゃるか……」
祭壇の壁面に磔にされた悪路王を呆然と見ていた小角に声を掛けたのは、討伐隊を率いる征夷大将軍、坂上田村麻呂その人であった。
「……は……はい」
「──あまり、見るでないぞよ。"持っていかれる"でおじゃるからな──」
「……"持って、いかれる"……」
田村麻呂の意味深な言葉を呟くように繰り返した小角。
「さぁ、皆の衆! 彼奴を祭壇より引きずり降ろすでおじゃるよ! ──早急に恐山の山頂に運び、その存在まるごと歴史から焼却するのでおじゃ!」
田村麻呂の声を合図にして、生き残った10人の侍たちによって悪路王の全身から九本の太刀が引き抜かれていく。
壁面から降ろされた悪路王の亡骸が満身創痍となった侍たちの手によって担がれると、洞窟の外に向けて運ばれようとしていた。
「──……ッ──」
そして、小角の横を悪路王を担いだ侍たちが通り過ぎる瞬間、垂れ下がった白い髪の隙間から覗く悪路王の満面の笑みを小角は見た。
死してなお妖しく光り輝く悪路王の真紅の"魔眼"が、小角の黒い瞳の内側へと入り込み、心の奥底に深く、深く染み込んで行く。
「──……見つけたぞ……私の"大空華"……──」
その瞬間、小角は"持っていかれて"いた。そして"見出して"いた──自身の人生を捧げてこの世に咲かすべき、"大空華"の花の異形を──。