琉球結界戦線(10)
監視壕の奥に続いていたのは、戦時中の地図にも載っていない通路だった。幅は人がひとりようやく通れる程度で、壁には当時の記録の痕跡すら残っていない。コンクリートの表面には黒い染みが点在し、ところどころ削られた跡のようなものが見てとれた。その空間には、確かに“誰かが何かを記憶させようとした意志”が残されていた。
「空気が変わったな」
直輝がそう言ったとき、風がひとつ、通路を抜けて吹き抜けた。生暖かく、だが霊的な気配はない。ただ、“記憶の呼気”のようなもの。それは、そこにかつて生きていた誰かが、その空間そのものを“物語”として遺そうとした結果なのだと、彼には直感的に理解できた。
帆夏は歩みを止め、シーサーの小型結界符を取り出して通路の壁に貼りつけた。そこから、ごく淡い光が立ち上り、わずかに波打った。
「やっぱりここ、“記録のノード”になってる。誰かがこの場所を“記憶ごと封印”してる。けど、それが“今”、語られようとしてるの」
「呼んでるってことか」
「そう。“聞いてほしい”って」
彼らがその奥に進むと、ぽっかりと開けた部屋のような空間にたどり着いた。古い錆びた机がひとつ、壁にはぼろぼろになった地図の断片。そこに、赤い絵の具のような線がひとつ走っていた。それは、かつて“那覇市内の防衛線”として記録されていた線だ。
「これ……?」
美佳が低くつぶやく。
「“境界線”よ。だけど霊的なものじゃない。戦のとき、人間たちが引いた“住む人と追われる人”の線。“この内側に居ていい”、あるいは“外側にいるべきじゃない”って、勝手に定義された生の線」
まみがその言葉に黙って頷いた。
「だから“獣の足跡”がある。これは、都市から追い出された存在の象徴。“都市の中で名を与えられなかったもの”が、今になって自分の物語を取り戻そうとしてる」
悠平が、ポケットから一枚の古びた新聞の切れ端を出した。
「じいちゃんが最後に遺した記録。“識名の丘に棲んでいた名もなき祈り手の記録を、誰も知らないまま消した”って書いてある。そこには、人間じゃない誰かがいたのかもしれない」
卓が口を開いた。
「なら、今この場所に現れている“器”は、都市がかつて拒んだ“もうひとつの住民”だ。今の私たちに問おうとしている。“名を与えるか?”、“居場所を作るか?”、“物語を紡ぎ直すか?”と」
その言葉の重みに、誰も即答はしなかった。
直輝は、部屋の隅に置かれていた割れた瓦片を拾い上げた。それは、明らかに“何かの顔”の一部だった。牙のような、瞳のような、怒っているのか、笑っているのか分からない。だが、確かに“祈り”を込めて刻まれた面。
「これは……“もうひとつのシーサー”か?」
帆夏が頷いた。
「シーサーは、都市の守り神。でもそれは“王都に仕える形”での姿。“村”や“祠”に置かれていたものは、“もっと自由だった”。力の使い方も、役割も、それぞれだった。でも、都市の発展とともに、“形式”が優先されて、自由な祈りは端に追いやられた」
「じゃあ、この器は“旧い祈り”の化身かもしれないってこと?」
「きっとね。だからこそ、問われてる。“それを拒むか?”、“都市に迎え入れるか?”って」
その時、天井からぽとりと雫が落ちた。瓦片の上に落ちたそれは、血ではなく、水だった。だが、赤く染まっていた。
誰かが泣いていた。
この空間そのものが、語られなかった過去の涙だった。
直輝はゆっくりと立ち上がり、祠の中央にシーサー型の結界符をそっと置いた。
「よう。……あんたのことは知らない。けど、ここで何かを守ろうとしたんだろ。ならさ、もう一度“こっちの街”でやってみないか?」
その言葉に、何の返事もなかった。
けれど、空気がわずかに温んだ。
その温度だけで、十分だった。
霊ではない。神でもない。名前も姿も曖昧な、“でも確かにここにいた誰か”を、都市の記憶として迎え入れること。それが、那覇という都市が結界を越えて向き合う“次の答え”だった。
(次:11へつづく)