琉球結界戦線(09)
再起動から十日。那覇の空は、以前よりも少し澄んでいた。朝焼けが眩しく、鳥の声が響き、石畳の水たまりがどこか清められたような色に見える。だが、誰もが気づいているわけではなかった。都市の“変化”は常に静かだ。霊的な波動が整い、結界が呼吸し始めた今、人々の日常はむしろ以前より穏やかに流れていた。だが、守るべきものがある者たちにとって、その静けさこそが最も張り詰めた“臨戦状態”だった。
帆夏は朝から波上宮の拝殿にいた。あれから、シーサーの瞳は何度か微かに点滅を繰り返していた。再起動の安定化には時間がかかると分かっていたが、それでも“何かが近づいている”予感を彼女の感覚が告げていた。結界というシステムは、完成すれば終わりではない。“調律”を続けなければすぐに乱れる。そして、それに必要なのは人の意志だった。
「直輝、来た?」
帆夏が振り返ると、境内の石段を上ってくる彼の姿が見えた。どこか疲れが残る表情のまま、だが足取りに迷いはない。以前の直輝なら、こうした“意味の見えない作業”には関わろうとしなかった。だが今の彼は、自分の行動に“理由”を求めることをやめた。ただ、“そこに必要だからいる”。それだけの覚悟を纏っていた。
「ちょっと変化あった。見て」
帆夏が差し出した結界符には、新しい模様が浮かび上がっていた。これまで見たことのない“円と波”の紋様。それは、まるで海の底に広がる“別の都市”の地図のようだった。
「これ……結界の“裏面”じゃないか?」
「そう。これまで私たちは“防御”と“意思の選択”で結界を使ってきたけど、どうもその先があるらしい。“交流”って意味での霊的使用。つまり、霊と人が“対話”するための通路」
「……あの祠の奥に消えた霊か」
直輝はかすかに記憶を辿った。確かにあの霊は怒っていなかった。憎しみもなかった。ただ、“見ていた”。その視線がいまも街に残っているのだとしたら——
「“守る”だけじゃ足りない。“伝える”ってことも必要なんだな」
「うん。結界って、単に閉じるだけのものじゃない。“繋ぐために編む”ものでもある」
その時、まみからメッセージが入った。
《空港側の海岸。旧軍の監視壕跡で“音”が聞こえるって。しかも、複数人から》
「来たか……“次の波”」
直輝と帆夏はすぐに動いた。
那覇空港から海岸沿いに少し進んだ場所。岩場の隙間に小さな人工壕が口を開けていた。戦時中の監視施設跡。今では地元の者でも立ち入ることの少ないその場所に、確かに“気配”があった。
「聞こえる?」
美佳が岩の向こうから顔を出した。遠くからでも彼女の耳は“音の違い”を捉えていた。
「低い男の声。祈りのような、あるいは……呼びかけのような。“マブイヨセ”とは違う。“誰かを招いてる”声」
「それって、“結界の向こう”から誰かが来ようとしてるってことか?」
「ううん。“向こうの記憶”を、こっちに呼んでる」
帆夏が指を立てた。
「侵食じゃない。“招喚”」
「じゃあ、“向こう”の意思?」
「そう。これが、たぶん“交流結界”の本質。向こう側の記憶が、私たちを試してる。“語り直せるか?”って」
壕の中に、六人で入る。湿った空気、苔の匂い、古びたコンクリートの冷たさ。その中で、直輝はふと、ある違和感に気づく。
「空気が揺れてる」
「霊圧じゃない、“記憶圧”。過去が圧縮されて“場”に染み込んでる。ここに立った誰かの思いが、まだ離れられずに残ってる」
そして、壕の奥で、彼らはそれを見た。
真新しい足跡。だが、人間のものではない。ぬかるんだ地面に残されたのは、四肢ではなく、三本の指で歩く“獣の印”だった。
「霊じゃない。これ、“器”が来てる」
「なに?」
「“誰かの意思”が形を取って、この場に来ようとしてる。“語られなかった過去”が、“語りたがってる”」
全員が息を呑んだ。
静かな侵食。だがそれは敵意ではなく、“問い”だった。
結界が繋がった今、都市そのものが“記憶を問う”存在になった。
那覇の空の下、“誰を受け入れ、誰に名を与えるのか”。
それを決めるのは、今を生きる“人間”自身だった。
(次:10へつづく)