琉球結界戦線(11)
空気が変わった。壕の奥で直輝が結界符を置いた瞬間、そこに沈殿していた過去の気配が、まるで潮が引くように緩やかに動いた。濃密だった記憶の湿り気が、ふわりと風に乗って空へ抜けていく。その変化は音もなく、けれど確かに場の性質を変えていた。
「……いまの、感じた?」
帆夏が口を開いた。声は低く、けれどはっきりとした驚きを含んでいた。
「圧が抜けた。強制的に霊を排除したんじゃない、“都市が受け入れた”って感じ」
「それって……」
直輝は振り返り、まみを見た。彼女はすでにノートを開き、震える指で記録をとっていた。記録魔とも言える彼女が、そのページに書き記していた言葉は短かった。
《記憶の受容。それが都市の進化。》
「私たち、ここで“名を与えた”んだと思う」
「誰に?」
「かつて都市に居場所を持てなかった誰かに」
その言葉を聞いて、美佳が静かに呟いた。
「……それって、私たち自身にも言えるんじゃない?」
全員が美佳を見た。彼女は特段視線を集めるような口調ではなかったが、その言葉には妙な説得力があった。
「ここにいる全員が、“本当の意味で自分の居場所”を探してた。直輝は過去に興味がなかった。帆夏は共感を求めてばかりで、孤立してた。悠平は常識に縛られすぎて、人とずれてた。まみは記録の中にしか自分を置けなかった。卓は誇りがあるぶん、誰にも嘘がつけなくて窮屈だった。……私だって、迷信深いって言われて、周りから浮いてた。でもさ、こうして選び続けてきて、今ようやく“ここにいていい”って思えてる」
誰も言葉を返さなかった。返す必要がないほど、その一言が深く、確かに皆の中に染み入っていたからだ。
その時、祠の奥で小さな音がした。乾いた木片がひとつ転がる音。その音に誰もが振り向く。奥の壁際、朽ちた台座の上に、白く磨かれた小さなシーサーが乗っていた。まるで、誰かがそこに“置いたばかり”のように。
「さっきまで、なかったよな……」
悠平が言った。帆夏が近づき、シーサーに触れる。
「これは……“生まれた”んだ。“この場所の記憶”が、形を取ったんだ」
「つまり、“もうひとつの那覇の守り神”か」
直輝がその言葉を呟いたとき、小さなシーサーの瞳がきらりと光った。その光は赤でも青でもなく、陽が昇る直前の薄い金。まだ名を持たない新しい都市の眼差し。それは、都市が“記憶を取り戻した証”でもあった。
「じゃあ、この子の名前……」
美佳が言いかけた時、帆夏が静かに言った。
「名前は、都市が決めるよ。わたしたちが言葉で決めるんじゃなくて、都市が必要としたときに、人が自然と口にする。そうして、存在は“言霊”になる」
「……かっこいいな」
直輝が笑う。
「けどさ、そいつが生きてるうちは、“俺たちが責任持つ”。それが“見つけたやつ”の役目だろ?」
誰も反論しなかった。
那覇の結界は、いまや霊的防衛線ではない。それは“語る街”としての構造だった。過去の記憶を秘め、語られなかった祈りを包み込み、見捨てられた存在に再び居場所を与える“編み直された都市の網”。
外では朝の蝉が鳴き始めていた。
祠の外に出た瞬間、全員が思わず空を見上げた。
雲が切れ、朝日が顔を出していた。
湿った空気を押しのけるように光が伸びる。
「……なんか、久しぶりに“守れた”気がするな」
「ううん、違う。“受け入れた”んだよ、私たちが」
帆夏のその言葉に、直輝は静かに目を閉じた。
「受け入れた街か。……それなら、悪くない」
那覇の空の下、新たな一日が静かに始まった。
この都市は、もう“守られるだけの街”じゃない。
ここに生きる者たちが、祈り、選び、紡ぎ続けることで、“語り返す都市”へと生まれ変わった。
小さな白いシーサーは、その朝、ほんのわずかに尻尾を振った。
(那覇市編・完)