琉球結界戦線(08)
波上宮の空は、夜が明ける寸前の群青色に染まっていた。結界の起動を終えた拝殿には、静けさが戻っていた。けれどそれは、あくまで“表面上”の静寂だった。直輝は、街の空気に確かな変化を感じ取っていた。湿度の質が変わった。風の流れがなめらかになった。何より、自分たちが今まで感じていた“外からの圧”が、内側に変わっている。
「今度は、俺たちが“問われる”番なんだろうな」
つぶやくような直輝の声に、帆夏が頷いた。
「審判は終わった。けれどそれは、“選ばれた”という意味じゃない。“ここに生きる資格がある”ということでもない。“生きる理由を、自分で持ち続けろ”という命令よ」
拝殿の石段に並ぶ六人の顔には、皆一様に疲労の色があった。霊的戦闘というものは、肉体よりも精神を削る。それでも誰ひとり言い訳はしなかった。美佳は草履を脱いで足の裏を冷たい石に押し当てていたし、まみは手帳を広げて何かを小さくメモしていた。悠平は片膝をついて小石を並べ、結界構造の簡易図を即興で作っていた。卓は背筋を伸ばしながらも目を閉じて黙想していた。
「これで、本当に……街は守れたのか?」
直輝が誰ともなく口にすると、帆夏はしばらく考えてからこう答えた。
「“今”はね。でも、これは“終わり”じゃない。“開かれた”だけ。この街はこれから、“共に住む”という段階に入る。霊と、記憶と、人と。全部が、繋がって、時にぶつかって、それでも重ねていくしかない」
「そう簡単にいくか?」
「簡単じゃない。でも、簡単なことなんてひとつもない。けど、選び直せる。いつだって。“今日”の続きとして、明日を積み上げることができる。昨日に戻らずにね」
その言葉に、直輝はゆっくりと目を閉じた。かつての自分なら、きっとその言葉の意味を深く考えようともしなかった。“学ぶことに関心がない”という自嘲は、ただ面倒ごとから目を背けるための盾だった。けれど今は違う。彼の中には“感じ取った記憶”がある。誰かの意思に触れたことで、自分自身の輪郭が確かになったのだ。
朝の光が差し込み始める。
波上宮の社の上空に、一羽の鳥が舞った。
それを見上げた卓が、小さく呟いた。
「見届け人は去ったな。これで、我々だけの都市になった」
まみが立ち上がる。
「街は動いてる。結界も動いてる。なら、私たちも歩き続けるだけ」
誰に言うでもないその言葉に、誰もが無言で頷いた。
その日から、那覇の空は少しずつ変わっていった。
最初に気づいたのは、美佳だった。
「ねえ、直輝。市役所の屋上のシーサーさ、口開けてたよね?」
「うん。普通は“アウン”で片方開いて片方閉じてるけどな」
「それがね、今朝見たら両方とも口を“半開き”にしてたの。しかも、瞳が濡れてるみたいに光ってた」
直輝は軽く笑った。
「泣いてんのか?都市の守り神が?」
「違うよ、笑ってんの。たぶん」
それは冗談に聞こえたけれど、美佳の表情はどこか真剣だった。
彼女はかつて“迷信深い”とからかわれることも多かった。だが、今この街で最も正確に霊の気配を感じ取っているのは、間違いなく彼女だった。知識ではなく、感覚で。その感性が、いまや都市の“リアルな羅針盤”になりつつあった。
悠平は新たな結界管理アプリを構築し始めていた。
スマホで各地のノード状態を簡易チェックできる簡素な仕組み。目に見えない“気配”をデジタルに変換し、図として把握できるように。結界と人との距離を縮めるために、彼は“自分の常識”を拡張していた。
卓は地域の自治会に顔を出し始めた。もともと高貴な家柄の出で、昔から儀式の場には招かれていたらしい。今はその立場を活かして、“結界の説明”を霊的ではなく文化的に翻訳する役割を果たしていた。彼の“嘘をつけない”性格は、そうした地道な対話で本物の信頼を生んでいた。
まみは地元の高校新聞部に“都市伝説調査枠”を作った。あくまで表向きは“部活動”だが、実際には那覇市内の霊的異変を記録する“証人ネットワーク”として機能し始めている。彼女が記録し続ける全てが、やがて“次の意思決定者”の支えになるはずだった。
帆夏は、新しい地図を描いていた。結界網を線で繋いだだけの地図ではない。“気配”を記録する地図。霊が感じた場所、人の記憶が染み込んでいる場所、空気が反応を起こした場所。そうした“見えない都市の輪郭”を線ではなく“呼吸”で描くように、彼女は今日も歩き続けていた。
直輝も、もう空撮ドローンで廃墟ばかり撮ることはしなくなった。
代わりに、結界の起動点やノードのまわりで、“動いている那覇”を撮り始めた。子どもが笑ってる場所、老人がシーサーに手を合わせている場所、観光客が無意識に結界の上に立っている風景。
それらを“都市の証明”として記録していく。
この街は、守られたのではなく“選ばれた”のだと。
そして、それを“選び返す”のは、自分たちの役目だと。
街は静かに、確かに息を吹き返していた。
(次:09へつづく)