納豆タイムリーパー(01)
午後の教室は、どこか現実味がなかった。窓の外で微かに風が揺らす桜の葉音さえ、耳の奥でくぐもって聞こえてくる。黒板に書かれた数式も、教師の声も、浩平にはまるで上滑りしていくノイズのようだった。世界はいつからこんなに“反復”を始めたのか。今日という一日が“昨日と同じ”であることを確信するたび、心が少しずつ摩耗していく感覚に襲われる。
優花が教室の隅でノートを広げていた。髪を後ろでひとつに束ね、丸めた背中からは集中しているように見えたが、彼女はときおり、わざとらしく浩平の方をちらりと見た。
浩平も、それを察していたが、あえて目を合わせようとはしなかった。ただし心の中では、どう接するべきかを測っていた。
彼女は自分と同じく“巻き戻された日々”を記憶している。自分とは違い、行動力があって、突拍子もないことをすぐに口にするが、その瞳の奥に時折浮かぶ“迷い”に浩平は気づいていた。
昼休みになると、優花は教室の端からすっと立ち上がり、特に何も言わずに浩平の机に座ってきた。
「ご飯、ちゃんと食べた?」
「いや、まだ。てか、いつから“それ”聞くの三回目だよ」
「三回目かぁ……じゃあ、記憶ズレてる。私、四回目。あんた、ひとつ飛ばしてる」
浩平は手を止めた。「……また、か」
「うん。昨日の“昨日”と、あんたが覚えてる昨日がズレてる。つまりね……これ、もう一回ループしたら、完全に“記憶が同期しなくなる”」
「マジでヤバいじゃん。じゃあもう、俺が“戻る”意味ないのか?」
「わかんない。でも、私たちがそれぞれ“一人ずつ”しかループしてないなら、まだどっちかに起点があるってこと」
「でもさ、起点って何だよ? どっちかが“最初に戻った”そのとき、何か起きてたってことか?」
「うん。でね、ここからが本題」
優花が鞄の中から取り出したのは、古い新聞の切り抜きだった。日付は昭和五十年。記事には「水戸藩屋敷跡地下から封印式納豆壺が発見される」とあった。
「この“壺”、知ってる?」
「知らねーよ……ていうか“封印式”って何だよ、意味がホラーすぎるだろ」
「これが多分、すべての始まり。水戸黄門――徳川光圀が作らせた“霊納豆”の容器。中に“時の霊”が封じられてる。私の家系で、それを代々守ってる……らしい。曽祖母が言ってた」
「それって、さすがに作り話じゃない?」
「うん。私もずっとそう思ってた。でも……あんたと私、同時に戻ってるってことは、そこに“触れた者”が、何かの条件を満たすと“時間”に干渉できる。そうじゃない?」
浩平は鼻を鳴らした。「オカルトじゃん。そんな理屈、信じられるわけない」
「でも、あんた、納豆混ぜた数で戻るの、信じてるでしょ?」
その一言に、浩平は反論できなかった。
「ねえ、あの夢の話……ちゃんと覚えてる?」
「江戸の火事のやつか?」
「そう。あの夢、毎晩繰り返されてる。でも私、今朝、火の中で倒れてた場所の“座標”を思い出したの」
「座標って……」
「現在の水戸東照宮の境内、裏手にある池。たぶん、あそこが“時の霊”の眠ってる場所」
浩平は沈黙した。風が教室のカーテンを揺らす。陽の光が淡く差し込み、ふたりの間に淡い緊張が漂う。
「行こうと思ってるの。放課後、あんたも来る?」
「いや、俺は……」
言いかけた言葉が喉に詰まった。そのとき、なぜか彼の脳裏に、今朝の納豆をかき混ぜたときの“感触”がよみがえった。いつもと違う、まるで水の中に手を突っ込んだような、得体の知れないぬるさ。
「……わかった。行くよ。俺も、確かめたい」
優花はうれしそうには笑わなかった。ただ、頷いた。
それが、この“日常”の終わりの始まりになることを、ふたりともまだ知らなかった。
(次:02へつづく)