納豆タイムリーパー(00)
水戸駅の東口から歩いて十五分。赤レンガ調の商店街の一角にある古びた木造アパートの二階で、少年は毎朝、同じルーティンを繰り返していた。
「いち、に、さん……三十七、三十八、三十九……」
納豆のパックを右手に持ち、箸でかき混ぜながら数を数える。白く糸を引いた納豆の塊が、小さな容器の中で円を描いて回っていく。窓の外から差し込む朝日が、その糸に反射してきらりと光る。
四十――数えた瞬間、浩平の意識が、ふっと遠のいた。
目の前の景色が波紋のように揺れる。部屋が溶けるように崩れ、風景が切り替わる。気づけば彼は、いつもと同じアパートの部屋にいる。だが、部屋の隅のカレンダーが、昨日の日付に戻っていた。
「……またかよ」
ため息を吐きながら、浩平はゆっくりと目を閉じた。何度目かも分からない“時間逆行”の朝が、また訪れた。
最初に気づいたのは一か月前だった。冷蔵庫に残った最後の納豆を混ぜながら朝食を済ませたその日、ふと見たスマホの通知が昨日のものになっていた。テレビも同じニュースを繰り返していた。カレンダーも、メールも、昨日のままだった。
「時間が……戻ってる?」
その違和感を何度も検証し、確信した。納豆をかき混ぜるたび、ある確率で前日に戻るのだ。いや、“戻される”というべきかもしれない。感覚はあるが、意志がない。強制的に引き戻される。
ただ、誰に聞いてもそんな現象は起きていない。だから浩平は黙っていた。黙って、毎朝の納豆をかき混ぜ続けた。そして今日もまた、過去に戻った。
「いい加減、面倒くさいんだけど……どうせ今日も、何か起きるんだろ?」
彼はスマホを手に取り、時刻と日付を確認した。やはり昨日だった。すでに経験した一日。だがこの“繰り返し”の中に、彼はひとつの“異物”を見つけていた。
あの少女――優花。
彼女だけが、この時間のループの中で“違和感”を持っていた。他の人間がすべて前日と同じ言動を繰り返すなかで、彼女だけが、微妙に違う反応をしていたのだ。
前日はすれ違うだけだったのに、今日は会釈してきた。さらに別の日には、向こうから話しかけてきた。
「君、変な感じしない? なんか昨日と似てない?」
その一言を聞いた瞬間、浩平は彼女も“知っている”のだと確信した。
そしてその日の放課後、校舎裏の自販機前で、彼女からこう告げられた。
「私、黄門さまの子孫なんだ。水戸黄門の」
目を見開く浩平に、優花は真面目な顔で言った。
「信じなくていいよ。でも、時間が戻ってること、あんたも感じてるでしょ?」
「……お前も?」
「うん。ていうか……私が“戻してる”のかもしれない」
浩平は意味が分からず、眉をしかめた。
「意味わかんねえ。お前が戻してるって、どういうことだよ」
優花は少しだけ笑って、それでも真剣な瞳で続けた。
「納豆、毎日混ぜてるでしょ?」
「……なんで知ってる」
「だって、私も同じだから。私が納豆を混ぜた朝、必ず世界が“昨日”になるの」
その瞬間、背筋が凍った。
まったく同じ現象。まったく同じ行動。だが、二人同時にそれをしていたとしたら?
「……じゃあ、今までずっと、二人とも世界を巻き戻してたってことかよ」
「たぶんね。でも、問題はここから」
彼女は、制服のポケットから折りたたまれた紙切れを取り出した。それは古びた文献の一部のようで、端には“水戸藩主・光圀”の文字が見えた。
「江戸時代の資料に、こう書いてあった。“納豆は時を留める力を持つ。朝にかき混ぜれば、昨日が再び訪れる”って」
「マジかよ……水戸黄門、タイムリーパーだったのかよ……」
浩平は頭を抱えた。
「それだけじゃないよ。もしこれが本当なら、混ぜる者が二人いたとき、“時間の歪み”が発生する。どちらかの記憶が、“上書き”されるって」
「……それ、今まさに起きてんじゃねーか」
優花が真剣に頷いた。「でも、怖いのはそこじゃない。ある日記にこうも書かれてた。“歪みが限界に達したとき、時の番人が目を覚ます”って」
「……は? なにそれ、敵キャラかよ」
「いや、マジで」
優花の声は震えていた。
「浩平……最近、夢見なかった? 江戸時代の夢とか。火事とか、刀とか、金色の瞳とか」
浩平は黙った。言葉にならなかった。なぜなら、彼もまた――見ていたのだ。何度も、何度も。
火に包まれる城下町。逃げる人々。手に刀を持った、まるで自分のような誰か。そして、優花によく似た少女が血まみれで倒れる夢。
それが、“ただの夢”ではないとしたら――
そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。
街中に響く、どこか異様な重さを持った音。
「……始まったかも」
優花が、小さく言った。
そして世界は、またゆっくりと“戻り始めた”。
(01へつづく)