影武者高校生(00)
甲府の朝は澄んだ空気と、山々に囲まれた静謐な青が混ざり合う。盆地特有の空の高さが、目の奥までじわりと染み込んでくるようで、匡は深く息を吸い込んだ。眼下に広がるのは、駅前から延びる城下町風の通りと、それを囲むように立つビル群。現代と歴史が、強引に肩を寄せ合って生きているような街だった。
彼はその日も、甲府城跡の石垣に座っていた。観光客の視線を避けるようにして、足元の古地図に目を落とす。和紙に墨で記されたその地図は、父親の遺品だ。武田信玄の直系を自称していた父が、病に倒れる直前まで握りしめていたものだった。
「何度見ても、わかるようでわかんねぇ……」
匡が吐き出すようにつぶやいたとき、背後からくぐもった足音が近づいてきた。彼は振り向かずに言った。
「来るのが五分遅れたな、咲花」
「……正義感より礼儀で叱られたい気分?」
キツめの声とともに、咲花が横に立った。短く切りそろえた髪と鋭い目。制服の襟元はきちんと整えられており、左手には学校指定のタブレットが握られている。彼女は一度深く息を吐き、匡の隣に座った。
「今日も地下行くんでしょ。市立図書館の奥、もう警備厳しくなってるよ。生徒が入り込んだのがバレたから」
「……そりゃ、昨日お前がセキュリティ蹴ったからな」
「蹴ったんじゃなくて、倒れそうだったから支えただけ」
「それを“蹴った”って言うんだ」
二人の間にしばし沈黙が流れた。その空気は冷たくもあたたかく、まるで昔からの腐れ縁のようだった。だが、匡の視線が再び地図へ戻ると、空気が少しだけ張りつめた。
「……この印、昨日より色が濃くなってる」
「は? 紙の地図が変わるわけないでしょ」
「だが、変わってる」
匡は指で印をなぞる。すると、墨の下からほんのりと赤い輝きが滲み出した。咲花が息を飲む。
「……発光してる。これ、霊印?」
「そうかもしれん。父さんが言ってた、“目覚める日”ってのが、今日なのかもな」
匡の手が、そっと胸元のペンダントへと触れる。家紋が刻まれたそれは、信玄が使っていたとされる“風林火山の指輪”の模造品だと、誰もが言っていた。
「行こう。今日が最後になるかもしれない」
「勝手なこと言わないで。私、役割あるから」
咲花は言いながら立ち上がる。だがその足は、匡の半歩後ろについていた。
その日の昼過ぎ、二人は甲府市立図書館の地下書庫にいた。図書館は旧城下の外堀跡に建てられており、その地下には封鎖された“旧武田資料館跡”があった。戦後の再整備で忘れられたその区域には、立入禁止の札が並んでいるが、匡たちは鍵のかかった鉄扉を前に立っていた。
「昨日、ここで響いたんだ。“音”が。地面の奥から、低い金属音が」
匡が言った。咲花はタブレットを取り出し、内蔵された地中センサーを起動する。
「……確かに反応ある。空洞。しかも、機械的な熱源」
「やっぱり……“それ”はあるんだよ。父さんの言ってた、“最古のロボット”。日本の地下に埋められた、武田の遺産」
その言葉に、咲花は思わず目を細めた。
「匡。あなたはそれを本気で信じてるの?」
「信じてる。でなきゃ俺、こんなことに人生費やさない」
静かに言う匡の表情は、冷静だった。信念は言葉よりも行動に宿る。彼は手を伸ばし、地図の印を鉄扉に押し当てた。
刹那、扉が震え、軋みを上げながらゆっくりと開いていく。
その奥に広がっていたのは、暗闇ではなかった。
まるで機械が呼吸するように、淡い蒼光が洞窟状の空間全体を照らしていた。
「これが……武田の地下遺構……?」
咲花の声が震えた。匡は無言で先を行く。足元の床は鉄板のように冷たく、奥へ奥へと導く線路のような溝が刻まれている。壁には複雑な機構と文字――それは確かに、現代日本語ではなかった。
「文字が……信玄暗号。いや、これは……“甲斐文式機械語”? 記録すら残ってない言語じゃ……」
咲花が困惑する中、奥で何かが反応した。
――ゴウン……
低い振動。機械が目覚める音。
「咲花、来るぞ。俺たちの時間が」
匡の目に、確かな光が宿っていた。