16
その瞬間、俺の目の前が真っ暗になる。
いったいどういうことなんだ……。
「何を言っている?ここは妻の部屋だろう!」
「そうよ。でもレイモンドが『好きな部屋を使えばいい』って言ったでしょう?だから私が使っているの。それに、帰れって言われてないし」
「泊っていいと伝えたのは、もう何週間も前のことだ!セバスチャン、これはどういうことだ?リリアはいつからこの部屋を使っているんだ」
「旦那様、リリア様には特にご指示がなかったため、10日ほど前からこちらをお使いです」
まさか改装後すぐから、リリアはこの部屋を使っていたのか。
隣国へ行っていた私のもとに、いつもの報告が届いた。リリアはたまに屋敷に泊まりに来るため、特に気に留めていなかった。だからこそ「好きな部屋を使え」と指示を出したのだ。
しかし、それがこの混乱を招いたのか……。
「いくらなんでも妻の部屋を使わせる奴があるか!少し考えればわかる話だ」
「申し訳ありません」
セバスチャンは額に汗をかきながら頭を下げる。
それを見てリリアが口を開く。
「でも、ステファニー様は何年も屋敷の部屋を使っていなかったじゃない。ずっと無人の部屋なんだからいいじゃない。今だってステファニー様は離れで楽しそうに過ごしているわ、何の問題もないでしょう?」
俺は深く息を吐き出し、拳を握りしめた。頭に血が上るのを何とか抑える。
今、感情に流されるわけにはいかない。
「おい、リリア、いくら親戚とはいえ、常識を考えろ。さすがにもうここにいる理由はないだろう。兄夫婦のタウンハウスに戻れ」
「でも、ここは快適で素敵なのよ。それに、レイモンドが忙しそうで話せてなかった分、これからじっくり話しがしたいわ!」
「いや、いいから出て行ってくれ。ここは元々、妻の部屋なんだ。勘弁してくれ」
「そう言われても、特に不都合ないし……。とても居心地いいし……」
リリアは自分の立場を理解しているのか?
苛立ちを覚えながら、俺はセバスチャンを振り返った。
「リリア様には部屋を移動してもらうように再三申し上げたのですが、聞いてもらえませんでした。毎回このように申されますので」
セバスチャンの報告に、俺は思わず眉をひそめた。
リリアは考えたことをそのまま口にし、周囲の空気や場の状況には頓着せず、彼女なりの理屈で行動する。
他人の言葉など届くはずもなかった。
家令たちの忠告も、きっと聞き流されていたのだろう。
「リリア、君は自分が何を言っているのか分かっていないのか?」
「レイモンド、よく考えてよ。私だって馬鹿じゃないわ。あなたたち夫婦はもう冷え切った関係だったでしょう?」
「それがどうした?お前は部外者だろう」
「部外者?違うわ。私はずっとあなたの傍にいたのよ。夜会のパートナーも私。社交の場ではいつもあなたと一緒。それなのにステファニー様はどこにいたの?ほとんど顔すら見なかったわ」
「それがどうした?パートナーとして横にいたからといって特別な意味はない」
「ええ、レイモンド。あなたは私を信頼しているでしょう?それなら、ステファニー様より私の方が妻の役目を果たせるわ」
「……は?」
俺は一瞬言葉を失った。何をふざけたことを言っているんだ。とんでもない勘違いだ。
セバスチャンが静かに口を開いた。
「「リリア、正式に叔父に抗議する。自分で出て行かないのなら、家令たちに強制的に退去させる。いつまでも人の屋敷で世話になるなど非常識だ」
「レイモンド、自分が許可を出しておいて、お父様に抗議するなんておかしいわ。今初めて出て行けって言われたんだから、私も困っているのよ?」
「それは……俺の責任でもある。だが、もう出て行ってくれ」
「急に言われてもすぐには準備できないわ」
リリアの言葉に、俺は拳を握りしめた。なんだこいつは?新種の生き物なのか……。屋敷の主人が出て行けと言っているんだから、出て行くのが当たり前だろう。
俺はこれまでの自分の行動を振り返った。絶対に参加しなければならない夜会にはリリアを同伴させた。だが、会場に入るとすぐに別行動を取っていた。親族という立場が、他の貴族たちの勘ぐりを防いでくれたのも事実だ。
便利だった。彼女をパートナーにするのは都合が良かった。それが、大きな間違いだったのかもしれない。
彼女の勘違いを引き起こした原因は、俺自身にあるのか?
「セバスチャン、俺が隣国から帰ってきてからも、妻はずっと離れにいたのか……」
まったく気づかなかった。
「奥様は、リリア様が部屋を出られたら屋敷に移動するとおっしゃいました。私は執事として速やかに奥様の部屋を準備すると申し上げましたが、それが果たせていない現状です。結果として、奥様にご不便をおかけしており、執事としての不甲斐なさを痛感しています」
セバスチャンの言葉に、胸の奥が締め付けられる。執事としての判断ミスかもしれない。しかし本当に責められるべきは俺だ。リリアを放置した俺の責任。
ステファニーは自分の部屋を奪われ、屋敷から追い出されるように離れへ移った。それでも文句ひとつ言わず、ただ受け入れていたのか。
記憶を失った彼女が戻ったとき、当然のように自室へと向かうつもりだったのだろう。だが、そこには彼女の居場所はなく、すでに別の者がいるという現実を突きつけられることになる。
本来なら、夫婦が同じ屋敷で暮らすのは当然のこと。しかし、ステファニーは俺から距離を取った。彼女の心境を思うと、強い罪悪感がこみ上げる。
俺は歯を食いしばり、ゆっくりと息を吐いた。
「リリア、部屋に戻り、荷物を整理しろ。お前がここにいる必要はない」
「でも、まだ話は終わっていないのに」
「いいから」
俺は低く鋭い声で、彼女にそれ以上の反論を許さなかった。リリアは少し不満げな表情を見せながらも、渋々と退いた。
俺はセバスチャンに向き直る。
「もうこの部屋はステファニーには使わせない。新しく、俺の部屋と妻の部屋、それに夫婦の寝室を作り直す。場所は前公爵夫妻の部屋だ」
父と母が住んでいた部屋は、この部屋の真上にある。3階の見晴らしの良い屋敷内で最も優れた場所だった。だが、大規模な改修工事が必要になる。リリアが使ったこの部屋を、ステファニーに使わせるわけにはいかない。
「前公爵様のお部屋でございますね。承知しました、旦那様」
セバスチャンは恭しく頭を下げる。
「ステファニーは、今離れにいるんだな?」
彼は小さく頷いた。
妻が離れにいる。それは、俺の不甲斐なさが招いた結果だ。気づこうと思えば気づけたし、面倒を避けたのがいけなかった。
すべては俺の曖昧な決断から始まった。リリアを放置し、ステファニーの気持ちを考えず、ただ日々をやり過ごしていた。そのツケを、今になって突きつけられている。
俺が改装した新しい部屋は、結局彼女のためにならなかった。
過去の自分の言動を振り返る。「あのとき、こうしていれば」そんな悔しさが胸の奥で疼く。しかし、後悔にすがったところで、もう過去には戻れない。
俺は奥まった場所にある離れへと向かった。
彼女は知らないだろうが、この離れは元は貴族牢だった。
俺の祖父の代、外国の王族や貴族が拘束された際、この場所は彼らの収容施設として機能した。ただの牢獄ではない。外交の駆け引きの場、慎重に扱うべき「預かりもの」だった。
適切に収容者を扱うことで、国際的な摩擦を防ぐ。それがこの屋敷の役割だった。
外国の要人を収容する、あるいは人質として預かるわけで、牢屋とはいっても、ここは別荘のような造りになっている。しかし周りは高い塀で囲まれ、その中に庭園はあるが、出口は一か所。
収容者の逃亡を防ぐ設計になっているが、それは逆に外部からの侵入も防ぐことを意味する。
3年前、彼女が離れに移ると言ったとき、俺が許可したのはここが安全な建物だからだった。
歩を進めるたびに、彼女と交わすべき言葉が、次々と頭の中を駆け巡る。 何を言うべきか、どこから切り出すべきか、答えはまとまらまい。 だが、躊躇している時間はない。
彼女の部屋の扉の前にたどり着く。 拳を握りしめ、ゆっくりとノックをした。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
だが扉の向こうから、何の応答もない。
沈黙。
まるで俺の存在そのものを拒絶するかのような、冷たい静けさが広がっていた。
「ステファニー、話がある。開けてくれ」
重ねて呼びかけたが、厚い扉は閉ざされたままだ。
まるで俺の過ちが、この木の扉を石の壁に変えて俺を彼女から遠ざけているかのように感じた。
俺は深く息を吸い込み、扉越しに語りかけた。
「君を傷つけたことを謝りたい。俺は、あまりにも自分のことばかり考えすぎていた。だからこそ、改めてしっかりと向き合いたいと思っているんだ」
言葉にできる限りの誠意を込めた。果たしてこの声は彼女に届くだろうか。 扉の向こうから微かな物音が聞こえたが、それ以上の反応はなかった。
俺はしばらくその場に立ち尽くし、静かにため息をつく。
「ステファニー……言い訳に聞こえるかもしれないが、俺はリリアのことを何も知らなかった。いや……聞いてはいたが、すっかり忘れていたんだ。彼女が夫人の部屋に居座っていることも、さっき初めて知った」
沈黙。
「頼む……扉を開けてくれ」
それでも、返答はない。
「旦那様、奥様はもうおやすみになられますので、日を改めてまたお話しください。時間が経てば、落ち着いて話もできますでしょう」
中からメイドの静かな声がした。
確かに、今の興奮した状態では話し合っても良い方向へは進まないだろう。
「旦那様、明日は城へ出仕しなければなりません。奥様もお休みのようですので、朝も早いですし……本日はもう」
俺は重く息を吐き、拳を握り締めた。
「……分かった」
何事もうまくいかない。すべてが裏目に出る。
自分の考えなしの言動と行動が、こういう結果に結びついた。リリアのことがどう影響するのかを考えながら、俺は再び冷たい夜の空気の中へと戻っていった。