バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

17

公爵家の離れにある食堂は、外の世界と隔絶された静けさがあった。

テーブルには、温かなスープ、焼き立てのパン、果物が並び、紅茶の香りが食堂全体に漂っている。

離れとはいえ、使用人たちが私の世話をしてくれるので快適に過ごせている。
それもすべて公爵家の夫人という立場のおかげだ。

私は昨夜のことを思い出し、夫のレイモンドは何を考えているのだろうかと考えていた。

夕食の席では「夫人としての役目を果たしてほしい」「執務を手伝ってほしい」と彼は言っていた。

まるで、私たちの夫婦関係を再構築しようとしているかのような口ぶりだった。でも、それは私の勘違いだったのかもしれない。

私は、何も分かっていなかったのだ。彼にとって必要だったのは、円滑に執務をこなすための「妻」という存在だった。ただそれだけ。情ではなく、役割として。

しかも、彼はリリア様の件に対してあまりにも無頓着すぎた。自分の身辺を整理しないまま物事を進めようとしてしまった。その結果事態はこじれ、余計に混乱を招くこととなった。

食事を続けながら、ふと私が言葉を切った。

「……忙しいのは分かってる。でも、私が以前のように聖女のままだったら、彼をこんな面倒事に巻き込むこともなかったのかもしれないわね」

ベスは一瞬考え込み、そして優しく言った。

「旦那様は今、奥様の変化にどう向き合えばいいのか、悩んでいらっしゃると思います」

「そう……ね」

「おそらく、すぐにでも何とかしなければと焦って、空回りしてしまっているのではないでしょうか」

彼女はミルクをたっぷり注いだ紅茶を差し出しながらそう続けた。

何年もこの屋敷で仕えてきたベスは、きっと私よりもレイモンドを理解しているのだろう。私は夫のことをまだ何ひとつきちんと知らない。

「私はレイモンドと結婚して、彼に生活を支えてもらっている。ただ何もしないでいるのは良くないと思ったの。だからせめて、公爵家の役に立ちたいと思って執務を手伝うことにしたの」

「何もしなくていいと言われても、自ら考えて行動された奥様はとても立派です」

「でも……何もしなければ、こんな問題は起きなかったのよね」

ベスはゆっくりと首を横に振った。

「執務室の皆も、奥様の手腕には驚いておりますし、奥様がいらっしゃることで、家令の皆さまも私たちも、ずいぶん助けられております。公爵家には、以前よりも活気が戻ってまいりました。私たちも、仕事にやりがいを感じています」

「……そう、ありがとう」

私は静かに礼を言って、ベスに微笑みかけた。

聖女の神殿での過度な奉仕を考えると、聖女としての力を失ったことに未練はない。
けれど、記憶だけは、できれば戻ってほしい。
過去の私が、何を思い、何を選んできたのか。それを知ることで、今の自分の輪郭もはっきりするような気がした。

「そうですね……けれど、こう申し上げるのは失礼かもしれませんが、私は今の奥様のほうが、ずっと好きです。使用人たちも、皆同じ思いだと思います」

そう微笑んだベスの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
努力してよかった。少しはこの屋敷の中で受け入れられているのだと、そう思えた。

「今日からレイモンド様は城勤めが始まるのよね?」

「はい。朝早く出仕されて、帰宅は夜中になるかと。もともと旦那様は働きすぎでした。勤務時間は決まっているはずなのですが、それも守られていないようです」

ベスの言葉に私は小さくため息をついた。旦那様は忙しすぎる。体を壊さなければいいけどと少し心配になった。

けれど、彼が決まった時間に出仕するというなら、私としては予定を立てやすい。執務の合間に顔を合わせずに済むのならそれはむしろ都合がいい。

「決めたわ。午前中は、旦那様が出かけている間に執務室でできる仕事をさせてもらう。午後は……特に問題がなければ、自由に過ごすことにするわ」

「まあ、それは良いお考えですわ! 午後がお休みになれば、社交界のサロンやお茶会にもご参加いただけますし」

社交はまだ私にはハードルが高い。そう心の中で呟いて苦笑いする。

「……できるだけ、レイモンドとは顔を合わせたくないの」

私の言葉に、ベスは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐにうなずいた。

「わかります。今は距離を取る時間が必要ですね。旦那様も、まだご自分の気持ちを整理しきれていないご様子です。いずれきちんと、奥様と向き合う覚悟をお持ちになられてから、お話されるのが良いかと」

「私も、自由にさせてもらえたら、これからどうすべきか考えられるわ。少なくとも、無理に会って話すよりは、その方がいいと思う」

「承知しました。執務室にもそのように伝えておきますし、旦那様の帰宅時間も逐一ご報告いたします。そうすれば、お顔を合わせる必要はありませんから」

「ええ、お願いね。何か問題があったら、直接ではなく家令を通じて伝えてもらえればいいわ」

「かしこまりました。では、そのように屋敷内にも徹底いたしますね」

ベスは迷いのない口調で応えた。

自分の居場所を取り戻すには、まずは冷静に距離を置くところから。
それが、今の私にできる最善の判断なのだ。

外の庭の緑が、静かに揺れるのが見えた。
この穏やかな空気の中で、旦那様と私はそれぞれの役目を果たしながら、互いに別々の朝を過ごしている。


それからは使用人たちの助けもあって、旦那様と顔を合わせない状況を2週間ほど続けることができた。私は公爵家の執務をできる限りこなしていた。

「奥様、奥様宛に手紙が届いています」

ある日、執務室で仕事をしていると、執事のセバスチャンが私に手紙を持ってきた。

上質な紙に見事な字体で書かれたそれは、王室関係の者が私的に出す手紙ではないだろうかと思われた。宛名は私だ。裏の差出人の名を確認すると、第3皇子のフリップ殿下からの手紙だった。

久しぶりに見たその名前に、懐かしさを感じて胸が躍った。
数カ月しかない記憶の中、他に思い出のない私にとって、彼の存在はとても大きかったのだろう。

────────────────────────
親愛なるステファニーへ

突然の手紙で驚かせてしまったかもしれないけれど、どうか許してほしい。

まず初めに、君が日々健やかに過ごされていることを心から願っています。
私自身も、君の健康と幸せを常に思い、祈っていることを忘れないでくれ。

さて、早速だが、少し頼みたいことがある。
現在、私が取り組んでいる薬学の研究において、君の知識と経験が非常に役立つのではないかと考え、助けを求めたい。君がこの分野に詳しいことはよく知っているし、その実力を信頼している。

具体的には、現在進めている新薬の処方について、君の意見やアドバイスをもらえればと思っている。私一人では解決できない課題がいくつかあり、聖女であった君の視点や知恵を借りることで、研究がさらに進展すると確信している。

もちろん、無理に頼むつもりはないし、多忙であれば他の方法でも構わない。君の助けがあれば、私の研究はもっと有意義なものになるだろう。

忙しい中、恐縮だけど、ぜひご検討してほしいと思っている。

返事を楽しみにしています。

心からの感謝を込めて



フィリップ・ヴァン・カスタール

────────────────────────

手紙の中に記された信頼と期待に、私は思わず微笑んでいた。自分が必要とされていることが嬉しかった。

まるで長い間閉ざしていた窓を開け放ったような、清々しい風が心に吹き込んでくるようだった。


***


私たちは殿下の研究施設の一角で、静かな午後のひとときを過ごしていた。陽光が柔らかく差し込み、温かな空気が部屋の中を漂っている。

私が神殿で記憶した膨大な治療記録は、今後の薬剤の研究にとても役立つようだ。
少しの時間では足りなかったので、定期的に研究所に通うことになった。

テーブルには王家御用達であろうか、香り高い紅茶と共に、高級な菓子が用意されている。
殿下と向かい合わせに座って、思い出に花を咲かせながら午後のひと時を楽しんでいた。

お茶のカップを手に取り、私は意を決して口を開いた。

「実は私も、フィリップ様に相談したいことがありました」

私の言葉に、殿下は興味深そうに私を見つめた。
彼はカップを置き、少し身を乗り出してきた。

「君が困っていることがあれば、僕に出来ることなら何でも協力させてもらうよ」

私が少し言いよどんでいると殿下が続けた。

「何より君は神殿の悪事を暴き、薬学に莫大な予算を捻出した功労者だ。それだけでも僕にとっては感謝しかない」

彼の真摯な言葉に勇気づけられ、軽く微笑んだ。
褒め言葉が嬉しかったけれど、心の中には別の思いがあった。
私が求めているのはただ一つ、独立した生き方への手助けだった。殿下にそれをどう伝えるべきか、少し迷ったが、決心がついた。

「ありがとうございます」

私はカップをそっとテーブルに戻し、殿下をまっすぐ見つめた。

「実は…もし私が殿下のお役に立てるのでしたら、仕事として私を雇っていただけないでしょうか」

「雇う?」

殿下は驚いた様子で問い返すが、すぐにその目が柔らかくなった。
私の予想外の頼みごとに少し戸惑いながらも、何かを感じ取ったようだった。

「はい」

私はきっぱりと言った。自分の気持ちに迷いはなかった。これ以上、夫に頼る生活を続けるわけにはいかない。自分の力で生きるために、私は一歩踏み出さなければならない。

「私は、公爵家の資産を使って生計を立てるのではなく、自分で暮らせるだけのお金が欲しいのです」

私にとってそれは、自分のために未来を切り開く決断だった。
胸の中で何かが弾けたような感覚があり、その瞬間、自分が本当に進むべき道を見つけたような気がした。

殿下はしばらく黙って考え込み、そしてゆっくりと頷いた。

「公爵は君が資産をいくら使おうが、文句は言わないだろう。しかし、ステファニーがそれを嫌だと感じているのはわかる。君がそれだけの覚悟を持っているのなら、僕にできることがあれば、喜んで協力しよう」

「できれば、夫には知られたくないのですが……」

私は声を潜めるように言った。

「秘密を持つことは時に悪事に思えるかもしれない。でも、それがあるからこそ、ちょっとしたスリルと楽しさを味わえる」

彼はそう言うと、いたずらっ子のようにニヤリと笑った。


「……秘密の関係は、ときとして親密さを生むものだ」

殿下が口にした言葉が、誰に向けたものでもなく、ただ午後の風に流れていく。

しおり