8
ベスはお茶と甘い菓子を用意し、メイド長とともにやってきた。
彼女の名はダリアで、公爵家に仕えて20年近くになるという。控えめに一礼した後、ダリアは「何かご質問があればお聞きください」と静かに言葉を添えた。
「ダリア、今日、旦那様は何時頃お戻りになるのかしら?」
「旦那様は本日はまだ屋敷には戻られません」
「……まだ?」
ダリアによると、夫のレイモンドは国王陛下に同行して隣国へ行っているという。重要な任務のため、途中で抜けることはできないらしい。仕事だったら仕方がないけど、帰りが2週間後と聞いて思わず驚いてしまった。
私が戻ってきたことを夫が知らないとはいえ、2週間も会えないのは困ったものだ。簡単に連絡も取れない状況では、私は動きが取れない。
現在、この屋敷で指示を出す立場にいるのは執事のセバスチャンだと思われる。少ししか話をしていないが、彼にはどこか心もとない印象がある。優柔不断なところが見られ、頼れる存在としては少し物足りない気がした。
「ダリア、私は住んでいたという離れに行ってみようと思います」
「離れにですか?」
「ええ。そこに行けば何か思い出すかもしれないわ」
「承知しました。今からでしょうか?」
「ええ。すぐに参ります」
ダリアはベスに私を離れに案内するように言った。
要点だけを的確に伝え、無駄を省くダリアの受け答えは完璧だ。効率的で抜け目なく仕事をこなしているのが分かる。
正直、記憶が戻る可能性は少ないだろうけど、住んでいたという場所は見ておきたい。
私はベスに案内されて、屋敷を出て離れへ向かった。
屋敷から続く石畳の道があり、管理された庭には木々と花が整えられていた。少し歩くと、離れの屋敷が見えてきた。不思議な建物で、ぐるりと高い塀に囲まれているが、それが分からないように庭木が植えられていた。防犯対策は万全なようで、頑丈な門が入り口に設置されていた。
公爵邸の離れだけあって、きちんとした建物ではある。控えめで美しく、確かに静かに過ごせそうな外観だった。
内部は必要な設備は揃えられ、生活するのに不自由はなさそうだ。
けれど、装飾銀や贅沢な家具はなく。色も地味で、とにかく物が少ない印象を受けた。
***
黒、グレー、グレー、濃いグレー、緑っぽいグレー、黒、グレー……
私のクローゼットにかかっている服はどれも暗い修道服と地味なドレスばかりだ。
あまりに整然とした室内に少し驚いている私を見て、ベスが申し訳なさそうな視線を向けてきた。
(神殿の私の部屋と大差ないわね……)
「あの……華やかなものは必要ないからと」
「大丈夫よベス。私がそれを望まなかったのよね、分かっているわ」
私は安心させるようにベスに微笑んだ。
先ほど案内された客室に置いてある家具や装飾品は公爵家で用意された物。だけどここにある物はすべて私の私物だし好きにしていいはずだと考えた。
私は客室を使うのではなく、この離れの部屋で過ごすことに決めた。生活用品は必要最低限そろっているし、ちゃんと厨房や浴室もあるので問題はないだろう。
屋敷内を見回っていると、離れに移ったことを聞きつけたセバスチャンが、使用人たちを連れてやってきた。
「失礼いたします。奥様、なぜ離れに……」
走ってきたのか、セバスチャンは少し息を切らしている。
「私はずっと離れにいたそうだから、こちらで休もうと思いまして」
セバスチャンは気まずそうに眉を寄せた。
「奥様は事故の影響で記憶が曖昧な状態にいらっしゃいます。人の少ない離れでは、もし何かあれば大変困ります。旦那様から奥様のことをお任せいただいておりますので、離れで生活されているとは報告できません」
旦那様から託された使命感があるのは理解できる。それでも、2週間も帰らないで執事に全て丸投げするなんて、それはどうなのだろう。
「旦那様には私がそうしたいと言ったと報告してくださって構いません。それに、あなたは王子殿下から私が落ち着ける場所を探すようにと言われているはずです。気持ちはありがたいけれど、どうか私のわがままを聞いていただけませんか?」
(フィリップ様からのご指示を受けている以上、これに従うのは当然のことでしょう?)
「王子殿下……確かにそう伺っております。しかしながら、奥様はまだ療養が必要な状態でございます。何もせず、屋敷でゆっくりとお過ごしいただければと思います」
「身体はもう十分健康体ですし、療養するなら離れの方が向いている気がします」
「屋敷であれば私どもが奥様の身の回りのお世話を万全にいたします。離れでは行き届かないことも多いかと思いますので、どうぞご安心して屋敷でお過ごしくださいませ」
「何も分かっていない私が偉そうに意見して申し訳ありません。先に謝っておきますわ」
そう前置きした後、私は改めてセバスチャンに話を切り出した。
「リリア様に私の部屋を空けてもらうまで、どれくらい時間がかかりますか?」
「そ、それは……奥様がお戻りになられたので、すぐに部屋の移動をお願いするつもりでおりますが……」
(ああ……無理でしょうね)と、私は思った。リリア様を夫人の部屋に『気に入った』からと言って住まわせた時点で、彼らはリリア様の命令に逆らえないってことよ。
「私の部屋はリリア様が現在使っていると聞きました。屋敷に戻る私を迎える準備のために改装や家具の用意をしていると聞いていますが、セバスチャン、先ほどは『まだ準備ができていない』と言っていましたよね?」
「……はい」
「ですので、リリア様がお使いになられた家具を新しく整えて、新たに私を迎えるための自室を準備するまでにあとどれくらい時間がかかりますか?」
「具体的には、正確に……いつとは申し上げることはできません」
「その間、屋敷の客室で私が過ごすのは療養には適さないと思います。この離れには私が以前使っていたものが揃っていますから、記憶を取り戻すためにもここで過ごすのが一番よいのではないでしょうか?」
「……」
執事を言い負かしてしまうと後々やりづらくなるだろう。少なくとも敵になってはいけないから、柔らかい口調で付け足す。
「セバスチャンが言うように、屋敷の自室の準備が整ったら、すぐにそちらに移動しますので、今はこの離れにいることを許してもらいたいの」
「許すなど……奥様の過ごしやすいように整えるのが私の役目です」
「セバスチャン、あなたが私を心から案じてくれていることは分かっています。本当に感謝しています。ですが、どうか私にも少しだけ考える時間と、自分にとって最善と思う選択をさせてくださいね。もちろん、あなたの助言や経験を頼りにしていきたいと思っていますので、これからも力を貸していただけると嬉しいです」
「それは、もちろん奥様のためにお仕えするのが私たちの仕事です。問題はありません」
なんとか執事の機嫌を損ねずに、離れの生活を手に入れることができたかしら?
「私は公爵夫人として、ちゃんと家政を学ぶべきだと思っているわ。これまで執事のあなたや家令が家政を担当していたのよね、教えていただくことはたくさんありそう」
「家令が執務を行っておりましたが、最終的な判断はすべて旦那様がされていました。奥様はご自由にお過ごしいただければよろしいかと」
「役に立てるかは分かりませんが、旦那様のお手伝いができればと思っているの」
私は旦那様のためということを強調して話をした。
「承知いたしました。手紙の返事や挨拶文など簡単なものから始めていただけますので、よろしくお願いいたします」
「ええ、ぜひご指導をお願いしますね」
私はにっこり微笑んで、セバスチャンに頼りがいを期待している様子をさりげなく見せた。
「それでは離れでも不便がないように、メイドと護衛をよこします。お食事は屋敷内でご用意させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。夕食の席でリリア様とお話しできればいいと思っているわ」
「かしこまりました。そのように手配させていただきます」
その後、離れでの生活がしやすいようにメイドたちが準備を整えてくれた。