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27.千年善行・千年悪行

「そして、"千年善行"を始めた──というわけか」

 巌鬼が低い声で言い放ったその言葉を耳にした役小角は深く息を吐くと、細く閉じられていた漆黒の眼を少しだけ開眼してから口を開いた。

「いかにも──"千年善行"──」

 役小角は千年に及ぶ善行の数々の記憶を走馬灯のように脳裏に走らせながら宝物庫の中を歩き始めた。

「……"神"を体内に捕らえて不老不死となったわしは、それから千年間に渡って日ノ本各地を行脚し、善行を行った──とにかく、目に付く片っ端から人助けをした……老若男女、貴賤貧富に関わらず──助けて助けて、縦横無尽に助けまくった──!」

 役小角のその漆黒の眼は、自分に対して跪きながら頼りすがってくる大勢の民衆の姿を回想した。

「──右手で病を治し、左手で怪我を治し、黄金の錫杖を振るっては邪を清めた……一切の見返りも求めずに、千年間、ただひたすらに善行を行った。ただ……ただ一つだけ、求めずとも、わしのもとに止め処なく押し寄せてきたものがある──」

 役小角はそう言うと、目を細めて興味深そうに傾聴する鬼蝶を、そして太い腕を組んで興味なさそうに聞く巌鬼の姿を見やった。

「──"感謝"だ──それはそれは"感謝"されたよ……皆わしの前に跪いて、両手で拝みながら、仏の再来かのように丁重に扱われた……わしは一度たりとて名乗っておらんのに、行く先々で大勢の人々が待ち構えては、平伏しながら道を作った……あの時、わしの耳は確かに……天高く"功徳"が積まれていく音を聞いたのだよ……」
「……ふん、くだらん」

 役小角の言葉を聞いた巌鬼はそう言って鼻で笑うと、役小角も笑みを浮かべながら笑って返した。

「かかかか……そうじゃ、温羅坊。まったくもって、くだらんことだわいの──現にわしは、飽き果てた。人々から"感謝"されるということ……その皆尽くに飽き果てたのじゃ。まあ、何事もそうであろうが……千年もやり続ければ、"完全なる飽き"というものが訪れるものだ……」

 ため息と共にそう告げた役小角の言葉に、鬼蝶と厳鬼はちらりと互いの目を見合わせる。そして鬼蝶が口を開いた。

「──ゆえに次は……"千年悪行"にございますか?」

 鬼蝶が口にすると、役小角は一拍の沈黙の後、口をこれでもかと大きく開いて大笑いをした。

「──くかかかかッッ!! いかにもッッ!! ──千年の善行を執り行い、次の千年には悪行を執り行う──! ──これにて、究極なる"陰陽の理"が完成するのじゃッッ──!!」

 役小角は我が意を得たりという面持ちで漆黒の両眼を完全に開眼すると、黄金の錫杖を天高く掲げた。

「この大宇宙は、"陰"と"陽"の妙絶(みょうぜつ)なる均衡の上に成り立っておる! わしは一人で"陽"を日ノ本に振り撒き過ぎたのだ! これではいかん! これでは"陰陽の均衡"が崩れ落ちる──!」

 大宇宙を映し出した役小角の禍々しい漆黒の両眼を、この瞬間に初めて目撃した巌鬼と鬼蝶は思わず戦慄した。

「──均衡じゃ……! この大宇宙にとって何よりも肝心なのは、"陰陽の均衡"なのじゃよ……!」

 役小角は言い終えて目を閉じると、黄金の錫杖で硬い床をカンッ──と突いてから、巌鬼と鬼蝶に背を向けて、黄金の扉の前に歩いて行く。

「……して、行者様……千年にわたって悪行を行ったあとは……その後は、いったい何をなされるおつもりですか……?」

 宝物庫を去っていこうとする役小角の背中に向けて、鬼蝶は怖ず怖ずと頭に浮かんだ疑問を投げかけた。

「……"千年善行"を行い、天高く功徳を積み上げたわしは、莫大な法力と呪力を同時に得た……更に加えて"千年悪行"を行えばわしの体は……その存在は、いったいどうなってしまうのか……」

 武者震いに体を震わせながら呟いた役小角は、唐突にグルン──と顔だけを回して背後を見た。
 その異様に唖然とした鬼蝶と巌鬼に向けて、不気味な笑顔を見せた役小角はにんまりと口を開いた。

「──その時わしは、大宇宙を支配する"万物神"にでも、なるのじゃろうな──」

 満面の笑みを浮かべながらそう言った役小角は、再びグルン──と首を回して顔の位置を元に戻すと"かかかか"と高笑いしながら宝物庫を去っていった。
 役小角の背中を呆然と見送った巌鬼と鬼蝶。巌鬼は役小角に対して少なからず畏怖の念を抱いてしまった自分に気づくと苛立たしげに歯噛みしてから口を開いた。

「……なにが大宇宙の"万物神"だ、笑わせるな……! それに"陰陽の均衡"だのと、偉そうなことを抜かしやがって──」

 巌鬼が憎々しげに言うと、鬼蝶が巌鬼の前にしなやかに移動して、巌鬼の顔を見ながら口を開いた。

「ですけど、巌鬼。行者様の持つその圧倒的な力に鬼ヶ島の軍勢が助けられているのは事実。気の済むまで泳がせておけばよいではありませんか」

 鬼蝶が諌めるようにいうと、巌鬼は熱くなった息を大きく吐いてから床に破れ落ちた掛け軸に目線をやった。

「……それは、わかっている。"一言主"とかいう"癇癪持ちの女神"が体内にいるのも恐らく、事実だろう。ヤツの力を利用しなければ、日ノ本に地獄を作り出すことは叶わぬ──忌々しいクソジジイだ」

 吐き捨てるようにそう言った巌鬼が、黒爪が伸びる鬼の足を一歩前に踏み出すと、眼前に立つ鬼蝶が両腕をアゲハ蝶のようにパッ──と大きく広げた。

「──どうせこの世は無意味。ならば、せめて楽しみましょうよ。ねェ、巌鬼──?」
「…………」

 そう言ってほほ笑みを浮かべた鬼蝶の顔を巌鬼は無言で睨みつけると、太い腕で鬼蝶の体を押しのけてドシ、ドシ──と歩き出した。

「……あら……本当に"思春鬼"なのかしら──」

 よろけた鬼蝶は、肩を怒らせながら宝物庫から去っていく巌鬼の大きな背中に向けて呟いた。そして、扉の前に立った巌鬼が宝物庫の中にひとり残った鬼蝶に向けて口を開く。

「──この扉は俺しか動かせない。閉じ込められたくなければ、今すぐに出たほうがいいぞ」
「……あ……! ──待って」

 巌鬼の警告を聞いた鬼蝶は慌てたように駆け出して宝物庫の扉から廊下に躍り出ると、巌鬼は宝物庫の分厚い両扉をドオン──という重い音と共に閉めた。

「──それで、鬼蝶……なぜキサマは、そのザクロ石を盗み取った──」
「……え」

 廊下に仁王立ちした巌鬼が鬼蝶を見下ろしながら告げると、鬼蝶はぎくりとした顔で声を漏らした。

「──出てくる時、左の袖に入れただろう……まさか、俺に気づかれないとでも思ったのか?」
「……う……」

 巌鬼の詰問に対して、思わず顔を伏せた鬼蝶は左の袖に右手を差し入れると、手のひらの上に収まる血ような赤い色をしたザクロ石を取り出した。

「……欲し……かったから……」
「──鬼ノ城の宝物庫から"盗み"をするのがどういう意味を持つか……わかっているよな──?」

 巌鬼の言葉を受けて、鬼蝶の白い顔が瞬く間に青ざめていく。鬼ノ城は城主である巌鬼の城──その宝物庫から"盗み"を働いたとなれば、この場で巌鬼に首を握り潰されたとしても、なんら文句は言えない。

「…………」

 今、巌鬼がどのような表情を浮かべているのか、恐ろしくて鬼蝶は顔を上げることが出来なかった。

「──持っていけ──二度目はないぞ──」

 小さく震える鬼蝶の肩を見下ろした巌鬼はぶっきらぼうにそう言い放つと、ドシ、ドシ──と鬼の足を踏み締めながら廊下を歩き去っていく。

「……え」

 まさかの返答に驚いた鬼蝶は手に持ったザクロ石を思わず落としそうになるが、胸にギュッ──と抱き入れて両手で大切に握り締めた。

「──愛してるわ……! ──巌ちゃん──!!」

 巌鬼の筋肉の張った背中に向けて満面の笑顔で叫んだ鬼蝶。その声を耳にした巌鬼は立ち止まると、おもむろに左の拳を持ち上げて廊下の壁を裏拳で力強く殴った。

「──もう一度その呼び方をしてみろ──本当に殺すからな」

 巌鬼は横顔で鬼蝶の顔を睨みつけながら言うと、鬼の拳を壁から抜き取った。拳の形にへこんだ黒岩造りの壁からボロボロと破片が廊下に落ちると、巌鬼は玉座の間に向かって歩いていった。

「……わかったわよ」

 小さく声に出した鬼蝶は遠ざかる巌鬼の背中を引きつった笑顔で見送った。しかしそれでも、美しいザクロ石を手に出来たことに気分を良くした鬼蝶は、城内を軽やかに歩き出すと、おつるが居る部屋の前に辿り着いた。

「……ふふふ♪ さすがのおつるちゃんでも、これを自慢したら羨ましがるでしょうねェ──」

 鬼蝶はいたずらっぽい笑みを浮かべながらそう言うと、黒い引き戸に左手をかけた。

「──ねえ、おつるちゃん? ちょっと、話があるのだけれど──」

 そう言って、鬼蝶はザクロ石を握った右手を背中の後ろに回しながら引き戸を開けた。

「……あら」

 そして鬼蝶は、視界に飛び込んできた部屋の中の惨状を目にして声を漏らした。

「……ふうん」

 寝台から降りて、硬く冷たい石畳の上に血溜まりを作って倒れ伏したおつる──小さな両手で小刀の柄を握り締め、その切っ先を喉に突き刺していた。
 両目は固く閉じられ、最後の瞬間まで鬼ヶ島を拒絶していたのだと言外に伝えた──丸められた体は硬直しており、赤い血は冷えて固まり始めていて、だいぶ前に命を断ったのだと一目見てわかった。

「……それがあなたの選択なら、私はその選択を尊重するわ……だって──」

 鬼蝶は机の上に置かれた手付かずのザクロの果実を左手に取ると、そのままかじりついてボタボタと赤い果肉と果汁を床に落とした。

「──世界って……残酷だものね──」

 歯形がついたザクロの果肉を見ながらそう告げた鬼蝶は、右手に握っていたザクロ石をザクロの代わりにコトン──と机の上に置いた。

「……でも、私から一言言わせてもらえば──"もったいない"と思うわ……おつるちゃん」

 鬼蝶は話しかけるように言いながら、おつるの前に片膝をついてしゃがみ込むと、おつるの左耳の上に挿された誕生日祝いとして桃姫から贈られた赤いかんざしをスッ──と右手で引き抜いた。
 そして、目を閉じたおつるの前に広がった血溜まりの上に歯形のついたザクロの果実を置きながら口を開く。

「……私のように、自らが鬼となって──この残酷な世界を楽しめばいいだけなのにねェ──」

 陰惨な笑みを浮かべて立ち上がった鬼蝶は、おつるの赤いかんざしを自身の左耳の上にスッ──と挿し入れると、黄色い眼球を開眼して、真っ赤に輝く"鬼"の文字を見せつけた。

「──さようなら、可哀相なおつるちゃん」

 鬼蝶は冷めた口調でそう告げると、燭台に灯るロウソクの火をフッ──と吹き消した。そして、暗闇に包まれた冷たい部屋に倒れ伏したおつるの亡骸と赤いザクロの果実を見ながら、黒い戸をゆっくりと閉めるのであった。

しおり