【021:色即是空・空即是色】
「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」
「……?」
「最近図書館で読書をして得た言葉なんだ。是非愛弟子である望愛君に聞いてほしくてこの言葉を持ってきたんだ」
愛弟子。
望愛は思わず顔を綻ばせると、水色のランドセルを開けた。
うむ。と受け取るとプルタブの音で応えた。
「ふふ。貴様にはもう用済みだ――」
「師匠!」
冗談だよ、と宥めながらキリリンビールを口に運ぶ。
「もう一度いいですか?」
「色即是空、空即是色」
望愛はスマホを取り出して検索しようとするのをストップさせる。
「色即是空。しきそく。色に、即……はまだ習ってないかな」
大人になって思うのは、小学生が知っている漢字とそうでない漢字の区別ができない。
「今すぐクリックで報酬即ゲット! 今なら課金で即報酬が! みたいな。すぐに、早くって意味かな」
「速度?」
「ちがうよ。さっそくやってみよう! の、さっそく! の即だね」
「わかる」
「是は是非のぜ。ぜひやらせてください! とか。後は……これをやってみよう! 「これ」、って音にも使う漢字。でも基本は是非、のぜだね」
「わかる」
よしよしと頷く。
地面に漢字を書いてあげる。
色即是空。空即是色。
「色即是空。空即是色」
二人で何度もこれを唱えた。
「色と空の最初と最後が入れ替わってる」
そうそうそう。気づいて欲しいポイントが伝わったようだ。
「仏教っていう宗教があるんだ。インド発祥で中国に渡った後に日本に来たんだよね。これはその教え」
そのインドはほとんどがヒンドゥー教みたいだけど。
「どういう意味ですか?」
「モノには実態はないし、実態はないけどモノはある」
「……」
うーん、と考える。
「スマホ決済」
可愛くないなあ小学生。
「縁起という言葉がある。縁起が良い、とかだね」
「知ってる。運が良い」
「ではないんだ」
「え、そうなんだ」
「望愛君は昨日何を食べた?」
「カレー」
いいなあカレー。ボクも食べたいなあ。
「じゃあお米にしようかな。望愛君がお米を食べられたのはなんでかな?」
地面に『お米』と書いてみる。
「パンだった」
面倒くさいな小学生。仕方ないので米を消して『パン』と書く。
「ママが買ってきた」
「どこから?」
「お店」
『パン』『ママが買う』『お店』と矢印で綴っていく。
「お店の人は、どうやってパンを作ったのかい?」
「……?」
まあそうだろう。
「小麦粉、水、イースト、あとはまあ塩とかバターとか卵とか」
へえー、と頷いた。
「小麦粉はどうやって作られているのかな?」
「農家の人が作ってる」
「その通り。では農家の人はなんで小麦を作るのかな?」
「頭が悪くて畑仕事しかできないから」
「……」
どうやら雫石家では歪んだ教育を施しているようだ。
「補助金に群がる卑しいヤツらだから」
「農家の人は立派であり、畑があるから」
「農家の人は立派です。畑があるからです」
極端から極端に思想が飛ぶなあ。危ない二元論を持つ小学生はこの子だけだと信じたい。
「畑があるから。では畑はどうやってできたのだろうか? 水があるから。水はどこからできたのだろうか? 地球があるから。 地球はどうやってできたのだろうか? それはわからないので推測をする」
別の選択肢ではお店に戻ろう、と今度は地面に別の矢印を描く。
「パンを作る会社があって、パンの材料を運ぶ業者も居る。トラックで運ぶならそのトラックを作る会社もあるし、道を走るならコンクリートもあって信号機もある」
「電気を使う。それは電気という科学を発明した人もいる。電気を繋ぐためのケーブルを活用した人もいる。電気を生み出す方法も様々ある」
「……?」
「色んな縁がある。数え切れないほどの人の知恵と労力と大地が交わり、望愛君は昨日パンを食べたんだ」
「へえ……」
「それを縁起。あはは、興味なさそうだね」
「す、すみません! 師匠、興味あります!」
「ウソはつかないでね」
「興味ないです!」
素直でいい子だ。
「ボク個人としては仏教を初め他の宗教もとても良い事を説うている。だけどまあ、個人的には仏教には縁がなかった」
戒律が禁酒なんでキリリンビール飲めなくなるし。
「では絵の話しに戻ろう」
「はい!」
「楽しそうに歌っている女性の絵であれば誰でも描ける。もちろん望愛君にも描けるだろう」
「でもボクの絵には望愛君では決して届かない」
「はい! 望愛は技術不足の下手くそです!」
「技術の差だけじゃないんだ」
「はい! 望愛は感性もゴミの人間のクズです!」
疲れるなあこの子。
ふーむ、と考える。たまには師匠らしい事でもしてやろうか、しかし面倒だなと。
「今日はブルーチーズはあるかな?」
「……」
「では今日はこれにて――」
「明日持ってきます!!!」
ふむ。では、まあ……いっかな。
未熟な色助が人に指導を行う師匠なんて、立場が人を作るじゃないが、あまりにも不相応に感じた。
だが、この子には"お捻り"をあげなければいけない。
「今、ギターを弾いている女性の絵を描いているんだ」
そう言って、キャンバスを立てる色助に望愛は興奮した。
(燦歌彩月が絵を描く――!)
そんな光景に立ち会えるのがどれほど稀有な事か、芸術の知識に長ける望愛は十分にその意味を理解していた。
「この女性はなんで楽しそうなんだ? どんな想いで歌っているんだ? どういう背景で生まれてきたんだ? なんでこんなところで歌っているんだ?」
「……縁起の話し?」
「そう。これらを全て絵に乗せるんだ」
「……ッ」
鉛筆を走らせる。
まず、望愛が一番驚いたのはその速さ。
中央のバランスを取ったりパースを丸で囲ったりとバランスの調整が一切ない。
すぐに全体像が出来上がると背景もそのまま出来上がっていく。
「……ッ」
何もかもが違う。
絵を描く。「かく」とも読むし「えがく」とも読む。しかし色助の描く工程はまるで本人にだけ見えない線が見えており、それを上からなぞるような、そうとしか言えないほどのスピード感だった。
『歌を聞いた人はどう感じているだろうか』『女性はどういう経緯でマイクを握ったのだろうか』『それはどういう音楽だったのだろうか』『なんでこの形のギターを買ったんだろうか』『お金持ってないのかな』『インディーズなんだろうか』『歌っている最中は色々なポーズや動作があるのに何故をこれを選んだのか』『この時の気温と湿度はどれぐらいか』
ただの女性がギターを弾く絵。それなのに伝わってくるのは情報ではなく『何故』の答え。
時間にして10分程度だろうか。
下書きの段階で完成と言えるレベル。もはやショート動画でバズ狙いと言わしめるほどの早い速度でそれは完成した。
「全て頭に入れないと、作品を創る事ができない」
世界最上位の称号プライムアーティストを保持するのはたったの12人。
雅号・燦歌彩月。
雫石望愛は世界を知った。
「ボクの絵にはそれらの背景は一々描かれていない。だけど全てが描かれている」
「色即是空。空即是色」
「おお……ッ!」
竹製の巻物を取り出すと、紐を引いて封印を解く。
何が出るのか望愛は期待すると、期待以上にきめ細やかな六本の筆が出てきた。
そして一番太い筆を取った。
絵の具とパレットの準備ができるとそこからも早い。
大胆に塗る。まるでフェンスにペンキを塗りたくるように、大雑把に縫って行くがこれが見事に適切。
どの色をどう使えば美しく見えるか。過去に色助が口にした『一流までの知識』が全て凝縮されている。
望愛はショックでもなく、憧れでもなく、ただ魅入られた。
まるでお菓子工場を見学するような、全く別のジャンルの製品工程を見せられているような、そんな流れ作業だった。
一時間も経たず、色助は手を止めるとそれは完成した。
「ふむ」
「……すごい」
燦歌彩月の作品がここにあった。
ギターを弾いている女性は、心から音楽が好きなんだ。
このギターは安物だ。貧乏なんだろう。それでも楽しそうに弾いていて、音楽が大好きで、温かくて、この女性のハイカラな様子も、きっと憧ればっかりで多分下手くそで、
でも、それでも音楽が大好きで――。
望愛の頭の中に世界が入ってくる。
不意に、溢れた涙。
(――そうか)
これが、作品なんだ。
『恥ずかしい私』を描いた望愛なら今は少しわかる。
本気で、全力で向き合った作品が初めて本物へと昇華するもので、世にある、もっと言えば燦歌彩月以外の作品全てと言っていいそれらは偽物の――、
――と、
そんな小学生の感動をよそに色助は画用紙の端をひょいと掴んだ。
「――あ」
望愛は知っていた。
初めて魚の絵を描いて力差を見せつけられたあの時と同じ様に、
これほどまでの作品をそれなのに――
「待っ――」
ビリリ。
音を立ててそれを破いた。二つ。四つ。八つ。
「望愛君。水を汲んできてくれるかな」
そう言って色助はライターを取り出した。
「え、え……」
「……ふむ」
色助は立ち上がると、ペットボトルを河で汲んだ。そこで絵を燃やすと、惨事にならぬよう鎮火させる。
「え、あ………え?」
何が起こっているのか。理解が及ばない望愛だが、色助は渋い顔で考え込んでいた。
「色を付けたのは今日が初めてだったんだ。しかし、まあコレだ」
溜息をついてから、
「これは手厳しい」
その言葉で全てを理解した。
"本気で向き合う"
簡単に使われるその言葉を、どこまで重く受け止めるのか。
(師匠の作品が極端に少ないのは……)
だから、それが足りない絵は破るのか。
だから、一つの絵に向き合うから画用紙を見つめるのか。
「……!」
色助は座り直すと、次の絵を描いていた。
次の絵と言っても先程と同じギターを弾く女性。
曲芸の様な早さで描いたのは才能ではなく手法ではない。色助が単純にこの絵を何十枚、何百枚、何千枚と描いているんだと望愛は理解した。
(私は――今まで何をしていた?)
早く帰って一枚でも描けという師匠の言葉。
全ての縁起を絵に落とし込む師匠の絵。
小学生の部で全国一位。大人混じっての美術コンテストも入選を果たしたとその程度で満足していた。
(――全て師匠の言う通りだ)
才能がないから辞めた方がいい。
そうだ、そうなのだ。
こうやってショックを受けている最中でさえ、どんどん師匠の絵は出来上がって行く。
「……ッ」
もう絶望は超えた。
あの時の雫石望愛はもういない。
『恥ずかしい私』はもういない。
この日、最後まで色助の表情が綻ぶ事はなかった。
描いた。描いた描いた描いた描いた描いた。
描いた――
「ふむ」
今日で初めて色を入れた。
彩り。
光こそが印象派の真髄なり――。
燦歌彩月。彩りを名乗る程度には自信があったその塗りも、想定した通りの絵が出来上がった。
「……はあ」
頭の中にあった100点とあった絵。
昔々はそれを吐き出すのに40点、50点、55点と徐々に思考と現物の乖離が無くなり正解に近づいて行った。
いつしか100点満点とあった思考はそのまま100で吐き出せるまでに昇華した。
所詮、100点。
120点。150点。200点? それ以上には決して到達しない。
そうなるとこれは絵を描くという行為ではなく、まるで永い永い詰め将棋。
決まった正着を指し続け、それでも決して最後の最後で至らない。
「……ん?」
気付いたら明かりがある。
太陽はいつの間にか消滅し、なのに暗闇に染まるはずの河原はいくつもの照明が……
「うわっ!?」
そこに、黒いナニカが立っていた。
ビックリして椅子から転げ落ちると、
「師匠」
「ああ……望愛君か」
そういえばそうだったと記憶が蘇ってきた。
となれば、このランプも彼女のものだろう。
「寒くないかい? あと今は何時かな?」
「大丈夫です。ジャケット着てます。カイロがあります。今は23時です」
「ふむ」
子どもが出歩いていい時間ではない。黒いのは温かそうなダウンジャケット。一度家に帰ったのかもしれない。
「後ろにパパがいます」
そう言って指をさす先に、エンジンのかかった車が止まっていた。
なるほど。そういう事か。
「すまないね。気付かなかった」
「大丈夫です。とても勉強になりました」
なんでも望愛の父親は芸術に精通しており、燦歌彩月を認知していたのでこんな要求がまかり通ったらしい。
「師匠」
そう言って渡したのは今日描いた絵の束だ。望愛も色助の事がわかってきたらしい。
「助かるよ」
ビリリ。ビリリ。
暗い中、最高級の作品達が悲鳴を挙げてこの世界から去っていく。
それをもったいないと思うのは望愛を未熟と呼ぶのはあまりにも酷な話だろう。
「一枚だけもらってもいいでしょうか?」
「ごめんね」
「ではせめて、破る前に一目だけでもパパに見せてもいいでしょうか?」
「ごめん」
「……すみません」
うん、と頷くとまた破いていく。
「親御さんに迷惑なら、もう来ない方がいいかもしれないね」
「それは問題ないです! パパも師匠の大ファンです!」
あはは、と笑う。
「ん……お腹空いたね」
「何か食べに行きますか? パパがいるんでご馳走できます」
ありがとうと言って断る。
「まだちょっと足りなくてね。適当に夜食を食べたら続けるとするよ」
「……ッ」
望愛はポケットの中の小さい拳を握った。
「じゃあ望愛もここにいる」
「構わないよ」
多分、大人が子どもに対しては安全を考えて帰宅を促すべきなのだろう。そういう意味では構わないと投げやりに返すのは不正解だ。後ろで待っている保護者にも多大な迷惑をかける。
だけどこの子はクリエイターだ。
無限に我儘を言ってそれを通す人間になるんだ。
「――なんて、柄にもない師匠キャラみたいな事言ったけど、てんでダメだね」
おどけて笑って見せる。
「燦歌、聞こえず」
現状、まさに思考を吐き出すプロンプト。
どんなに精度が高くても、そのまま。
届かない。あと一手が。