灰色の悪夢
六歳を迎えたばかりの夜、戸棚の扉の隙間から見えるリビングは、真っ赤に染まっていた。
家族で映画を楽しんだソファーは引き裂かれ、中のクッションは無残にも飛び出している。
前方のローテーブルの上には、喉を引き裂かれた父親が横たわっていた。
皆で楽しく食事を囲んだ食卓は、原型も無いほど壊れ、テーブルの上に叩きつけられた母親は、身体が異様にねじ曲がっている。
その向こうに、何かが佇んでいた。
ハッキリとは見えない。
灰色がかった大きな体と燃えるような赤い目。
手から伸びる鋭い爪は血で濡れていた。
低く、くぐもった唸り声を上げながら、周囲を見回している。
死の予感に慌てて視線を外すと、母親の濁った目が、こちらを見つめていた。
「――ッ!」
バネ仕掛けの人形のように身を起こす。身体は汗でビッショリと濡れ、目の奥がズクズクと痛んだ。
「また、あの夢か……」
荒い息を吐きながら、目覚まし時計を手に取った。
時計の針は、午前三時を少し過ぎたあたりを指している。起床時間までは、まだたっぷりと余裕があった。
しかし、また悪夢を見てしまう気がして、もう一度眠る気にはなれなかった。
ベッドを抜け出して机に向かい、置いてある写真立てを手に取った。写真には、和やかに笑う家族がいた。
子供を肩車する父親と、それを見て微笑む母親。子供は、幼い頃の自分だった。
さっき見た夢を思い出す。
写真の中の、幸せな時間が壊れた日。
十年前、両親が何者かに殺された。
警察は強盗殺人として片付けたが、そんなはずはない。あの日見た犯人は、どう見ても人じゃ無かった。
当時、幼いなりに、必死に警察に訴えたが、取り合ってもらえなかった。その時の悔しさが、今も忘れられない。
ぎゅっと唇を噛む。
あの日を思い出す度に、抑えようのない憎しみが噴き出す。それはまるで溶岩のように、ジリジリと全身を焦がしてくる。
「見つけたら、殺してやる」
固く握った拳を、机にたたきつけた。
いつの間にか、机に突っ伏して眠っていたらしい。
枕元で騒いでる目覚まし時計を黙らせる。
時刻は午前六時半。階下から味噌汁の匂いが、ふわりとのぼってきていた。
「おはよう、ばあちゃん」
居間へと降りると、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐってきた。かっぽう着姿の祖母が、朝食を用意してくれている。
「あら、克己。おはよう」
微笑みながら、味噌汁をよそってくれる。
あくびを噛み殺しながら食卓に座り、目の前に広がる新聞紙にも、声を掛けた。
「じいちゃん、おはよう」
「おう」
向こうから、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
ご飯に味噌汁、玉子焼きの、シンプルな朝食を取り、学校へ行く準備を始める。
部屋で制服に着替え、階段を下りたところで声をかけられた。
「克己」
「どうしたの? じいちゃん」
「最近、この辺りで野犬に襲われる事件が起きとるらしい」
さっきの新聞に載っていたんだろうか。こんな町中で人を襲うような野犬なんて聞いたこともない。
「あいつらに襲われん内に帰ってこい」
「今日はバイトの日だけど、なるべく早く帰ってくるよ」
そう返すと、祖父は頷き、そのまま居間へと戻っていった。
「それじゃあ、行ってきます」
居間へ呼びかけると、祖母が応えた。
「いってらっしゃい」
繰り返される朝の風景。
玄関を出て、止めてある自転車にまたがる。
ぐっとペダルを踏み込み、学校へ向けて走り出した。
朝の澄んだ空気を吸い込みながら、町を走り抜ける。シャラシャラと軽やかに鳴る、車輪の音が心地よかった。
住宅街を抜け、幹線道路に出る。
交通量の多いこの道路には、横断歩道はほとんど無く、歩道橋が架けられている。
その歩道橋の下で、一人の女性がじっと階段を見上げていた。
切れ長の目は、強い意志を宿しているように見える。
白い長袖シャツに、ピンクの桜があしらわれた、濃紫色の着物風ロングカーディガンを羽織っている。下は黒のワイドパンツで、ショートブーツを履いている。アッシュブラウンの髪が、うしろでお団子状にまとめられている。
そして傍らに、女性よりも背の高い、何かのケースが置かれていた。それは、しゃもじをひっくり返したような形をしている。
女性はケースの持ち手に手をかけ、階段に運び上げようとしているようだ。
しかし、動かない。
階段に足をかけ、持ち手を必死に引っ張っているようだが、びくともしない。
見かねて声をかけた。
「あの……、すみません。お手伝いしましょうか?」
少し驚いたような顔で、女性が振り向いた。
「あ、いや。もしかしたら、困ってるんじゃないかなぁ……って思って」
勢いで声をかけてしまったが、見知らぬ人間に声をかけられて、戸惑ってるのかもしれない。
そんなふうに後悔し始めた頃、目の前の女性はニッコリと笑って答えた。
「ありがたい。是非お願いしよう」
快活な中にも、落ち着いた雰囲気のある声だった。
「こいつが、物凄く重くてな。向こうに渡りたいんだが、持ち上がらなくて。正直、どうしようかと思っていたところだ」
女性はケースをさすりながら、照れくさそうに笑った。
自転車を歩道橋の脇に止めてきて、早速ケースの持ち手に手を掛ける。
両腕にズシリとした重みを感じる。
「これは……、重いですね……」
「そうだろう? まったく持ち上がらなかったよ」
全身の力を総動員して、背中に担ぐ形で、なんとか持ち上げる。
「おお、凄いな!」
幼い頃に図鑑で見た、ピラミッドの労働者を思い出しながら、一歩、また一歩と階段を登っていく。
時間をかけて歩道橋を渡り、そして一段ずつ、ゆっくりと階段を降りる。
降りた先で慎重にケースを降ろし、持ち手を女性に返す。
「ありがとう、助かったよ。大変だっただろう? 何かお礼をさせて貰いたいんだが」
女性は申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「いえ、そんな。気にしないで下さい」
「それでは私の気がすまないよ。是非」
同じようなやり取りを、何度か繰り返したが、さすがに彼女が折れた。
「ならせめて、名前だけでも教えてもらえないか?」
「帚木……、
「いい名前だね。私は
篝さんが差し出した手を、少し戸惑いながら握り返す。
「その時は、よろしくお願いします」
二人で笑い合ってお別れをした。
「それでは、また会おう」
あの重いケースの下部には、どうやらキャスターが付いているようで、篝さんは精一杯の力で引きずっていった。
「何だか、不思議な人だったな」
見送った彼女の姿を思い出しながら、歩道橋へと向かう。
少し汗ばんだ額を、風が撫でていく。
階段へと足をかけた瞬間、ハッとした。
「完全に遅刻だ」
授業中の教室に入るという、気まずいイベントを乗り越え、今日も無事一日が終わった。
友人達と校門で別れ、駅前の雑居ビルへと自転車を走らせる。
ビル脇の駐輪スペースに自転車を停め、地下への階段を降りていく。電灯があまり明るくないので、足元が少し心許ない。
花宴と書かれた暖簾をくぐり、厨房の方へ声を掛ける。
「叔父さん、来たよ」
カウンターから、ゴソゴソと音がしたあと、ドスの利いた声が返ってくる。
「カツ坊か。学校はもう終わったのか?」
禿髪にねじりハチマキをした、髭面の大男が、カウンターの向こうで、のそりと立ち上がる。
「うん。仕込み、手伝おうか?」
「いやぁ、もうほとんど終わってっから。着替えて、飯でも食ってろ」
叔父の経営するこのおでん屋は、カウンターに席が五つしかなく、こじんまりとはしているが、客足は絶えない。
制服からエプロンに着替え、叔父さんの出してくれた賄いを口に運ぶ。今日は鮭とキノコのバターソテーだった。
「相変わらず、美味しいね」
「当たり前だ。何年やってると思ってんだ」
おでん屋なのに。
賄いを食べ終わって少し経つと、最初のお客が入ってきた。その後も、入れ代わり立ち代わり、ひっきりなしに続いてく。
「おやじさん、聞いてくれよぉ」
「マサさん、今日はご機嫌斜めだね。どしたんだい」
スーツ姿の客が、叔父さんにくだを巻いている。
「課長がさ、いちいち俺の仕事に口出ししてくんの! あいつ、現場のげの字もわかんねぇのにさ」
男が日本酒をあおり、酒臭い息を吐き出す。
「ほんと参るよ。辞めてやろうかな、あんなとこ」
叔父さんは苦笑いしつつ、鍋からタネを取り分ける。
「その課長さんってのは、最近来た人なのかい?」
「そうだよぉ。あー……、先々月くらいに、本社から配属されてきたんだよ」
「そうかい。もしかしたら、その課長さんも慣れねぇ場所で、しんどい思いしてるのかもしんねえよ? いっぺん、正直に話して見るってのはどうだい?」
男の前におでんの入った皿を置き、叔父さんは続けた。
「それでも駄目なら、またウチに来りゃ良いよ。ほれ、大根オマケしといたから、熱いうちに食いな」
男は、そんなもんかなぁと呟きながら、大根を頬張っている。
分かり合えたら素晴らしいと思う。けれど……。
「綺麗事だよ」
口中で呟く。
あの夜の出来事が、心の底で燻りだす。
「おい、カツ坊! あちらさんにビール」
叔父さんの声で、我に返る。
「っ……はーい!」
その後は、何かを深く考えるヒマがないほど忙しかった。
「カツ坊、そろそろ時間だろ。もう上がっていいぞ」
時計を確認すると、午後十時になろうかという時刻だった。
キリの良い所まで作業を終え、エプロンを脱ぐ。カウンターを抜け出し、壁と座席の合間を張り付くようにして暖簾をくぐる。
振り返って、叔父さんに声を掛ける。
「それじゃあ、帰るね」
「おう、気いつけてな」
叔父さんと常連客に挨拶を済ませ、店を離れた。
階段を登りきると、行き交う人たちの声が聞こえてきた。騒がしさが、身体に重くのしかかる。
そんな空気を振り払うように、自転車をこぎ出す。
駅前を抜け、幹線道路に入ると、ほんの少し静けさが戻ってきた。
夜の澄んだ空気を吸い込み、肺の中を満たす。代わりに、疲れを吐き出していく。
遅くなってしまったと、車通りの少なくなった幹線道路を急ぐ。
道路沿いの広場に差し掛かった時、どこからか重く響くような音が聴こえてきた。
聴き慣れないその音に、ペダルを漕ぐ足が止まる。
奥に向けて目を凝らしてみても、広場内の丘や木が視界を邪魔して、ここからでは全く見えない。
目を細めながら、視界の悪さと格闘していると、奥の遊具の影から、何かが二つ飛び出してきたのが見えた。
距離が離れているので、影は小さく、ハッキリとはしない。
一つは人のように見える。
もう一つは、四つ足の動物みたいな……。
そのイメージが脳内に浮かんだ瞬間、思わず身体が動いた。
背後で自転車が倒れる音がする。
今朝、祖父が言っていた事がフラッシュバックする。
何が出来るかはわからないけど、助けに入ったほうが良いに決まっている。
薄暗さに足を取られながら、影に向かって走り続ける。
その間も影たちは、近づき、また反発するように離れる。
動き回る影までの距離は、およそ50メートルほどまで縮まった。
影たちは激しく動き回り、木立の中へと消える。木立の中からは、風が葉を叩きつけるような音だけが聴こえてくる。
ひときわ大きな衝撃音が聞こえた。
同時に影が一つ、電灯の下へと飛び出して来る。
電灯に照らされたその姿を見た時、脳天を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。
ロングカーディガンを羽織った、お団子ヘアの女性。
篝さんだった。
体を捻るようにして、何かを振りかぶっている。
篝さんへ向かって走り出そうとした、その時――暗闇の中から、土を蹴って近づいてくる、何かの音が聞こえた。
低い唸り声を上げながら、それがゆっくりと明かりのもとに姿を現す。
それは野犬……では無く、異形の化け物だった。
獣のように這いつくばり、篝さんを睨めつけ、今にも飛び掛からんばかりだ。
青灰色の皮膚は硬く張り詰め、下にある筋肉はまるで鋼鉄のようだ。
異様に発達した手足の先には、鋭い爪が生えていて、人間程度なら容易く命を奪えるだろう。
口は大きく裂け、肉食獣の様な牙が並び、凶暴さが剥き出しになった眼は、赤く爛々とした輝きを放つ。
そして、額には二本の角があった。
心臓が飛び跳ね、膝が震える。
視界が急激に狭くなり、身体の感覚が遠のいていく。
口中がカラカラに渇き、吐き気がこみ上げてきた。
両親を殺した化け物がそこに居た――。
混乱と恐怖で吐瀉物を撒き散らし、そのまま崩れ落ちる。
怪物が吼える。
地面を蹴る音がした。
風切り音。
何かを叩きつける音と衝撃。
反射的に顔を上げると、さっき篝さんが居た場所に、化け物が右腕を突き立てている。
地面には深々とした爪痕が残っていた。
爪を引き抜いた化け物が、視線を前方に向けた。
同時に化け物の身体が沈み込む。
その脚に力が込められていく。
赤い目がいっそう輝いたかと思うと、まるで暴風のように、篝さんへと飛び掛かる。
待ち受ける篝さんは、両手で何かを構えている。
――それは、巨大な両刃の斧だった。
闇に溶け込むような漆黒の柄は、彼女の身長程もある。
柄の先は六角形に膨らみ、金色の花弁の意匠が中心に取り付けられている。
そこから左右へと広がる、巨大な半月状の刃は淡く青色に輝いている。
闇を切り裂くかのような咆哮を上げながら、化け物は飛び掛かった勢いのまま、左腕を振りおろす。
篝さんは身体を捻り戻し、横薙ぎに斧を繰り出す。
斧が空を裂く音が、鼓膜を震わせる。
刃と爪がぶつかり、激しく火花を散らす。
響き渡る衝撃音は、トラック同士が衝突したかのようだった。
篝さんが、グッと一歩踏み込み、斧を押し込むように振り抜く。
「う……っおらアァッ!」
力を込めた叫びと共に、化け物を前方上空へと弾き飛ばした。
同時に駆け出す。
着地してもなお勢いを殺しきれず、地面に爪を立てながら滑る化け物。
篝さんが追撃を仕掛ける。
二撃、三撃。
転がるように避ける化け物。
立て直す間もなく、腹に篝さんの蹴りがめり込んだ。
弾丸のように吹っ飛び、道と木立を隔てる擁壁に激突する。
ズルズルと擁壁を滑り落ちながら、苦しげに唸る。
ヨロヨロと立ち上がり、辺りを見回す。
風を裂く音が近づく。
ハッと上空を見上げる化け物。
斧が回転しながら、唸りを上げて降ってきた。
落雷のような轟音――。
斧が地面を砕き、化け物の身体を両断する。
地面に突き刺さった斧。
その柄に篝さんが、静かに降り立つ。
見下ろす篝さんの瞳は、刃と同じ青色に輝いている。
目の前で起こった出来事が、全く理解できず、ただ呆然とするしか無かった。
篝さんが斧からフワリと飛び降り、柄を握りしめた。地面に深くめり込んだ斧を、片手で難なく引き抜く。そして斧を軽く振り、刃にまとわりついた血を払った。
その時初めて、こちらに気づいたように驚いた表情を見せた。
「あれ? 何で人がいるんだろ」
こちらに向って、ゆっくり歩いてくる。
巨大な斧を担いでいるのに、足取りは軽やかだ。
恐怖で後退ろうとするが、下半身に力が入らず、ただもがくことしか出来ない。
「おや、君は確か……、帚木くんだったよね」
和やかな笑顔を浮かべているが、青色の瞳の禍々しさが、背筋を凍らせた。
「どうしてここに? 入れないはずなんだけど……」
篝さんは、あごを手でさすりながら考え込んでいる。
「え……えっと……。誰かが、野犬に……襲われてるって思って。その……ニュースで……、だから、助けないと……って思って」
言葉がうまく繋がらず、しどろもどろで答えた。
こちらを見つめる篝さんの瞳の色が、スッと元に戻る。
「明日、学校が終わったら、ここに来てくれるかな?」
取り出した紙片に何かを書き込み、こちらへ差し出してきた。
恐る恐る紙片を受け取る。
書かれていたのは、この街のどこかの住所だった。
「それじゃあ、気を付けて帰ってね。明日、待ってるから」
そう告げると、篝さんは広場の闇へと消えていった。