導く手、拒む手
どうやって家まで戻ってきたのか、記憶がいまいちハッキリしない。恐怖と混乱に突き動かされ、自転車を必死に漕いだ。
遅い帰宅と汚れた服を見て、祖母が心配そうに声をかけてくれた。
「帰ってくる途中、気分が悪くなったから、ベンチで休んでただけだよ」
そう誤魔化してはみたものの、さっきの出来ことが現実だったのか、まだ自分でも整理できていなかった。
篝さんと、そして……化け物。
『なぜ』という言葉が浮かび続け、頭の中をグチャグチャにかき混ぜてくる。
祖母の心配そうな顔に胸が痛む。しかし、それ以上説明することもできなかった。
早々にベッドに潜り込むが、なかなか寝付けずに、何度も寝返りを打つ。
空が白み始めた頃、ようやく意識が沈んでいった。
そしてまた、あの悪夢を見た。
血に染まる世界と、横たわる無惨な姿の両親。
その中に佇む化け物。
――違う。
いつもは漠然としか捉えられなかった化け物の姿が、今日は何故か鮮明に見える。
灰色の皮膚に、太く長く発達した腕。背中には、岩のようなゴツゴツとした突起が連なっている。赤く光る目はより凶暴さを湛え、牙は大きく鋭い。
二本の角のうち、一本は途中から折れてなくなっている。
ハッとする。
広場で見た化け物には角が二本あった。
同じ種なのは間違いない。けれど、あれは別の個体だ。
こんなやつが他にも……。
気づいたことの恐ろしさに身震いしていると、ふと視線を感じた。
ゆっくりと視線を上げていくと、化け物がこちらを――ジッと見据えていた。
叫びながら、飛び起きる。
ベッドが寄せられた壁まで後退り、あの化け物が居ないか、辺りを見回す。
暗く冷たい部屋の中に、あの赤い目が光っているような気がする。
「今のは、夢……だよな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
強張った体に冷たい汗が流れる。
張り付く服の不快感だけが、ここが現実だと教えてくれた。
乱れた息を整えようと、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
赤い目が瞼の裏に浮かぶ。
昏い穴から、こちらを狙う捕食者の目だった。
体が無意識に震え、胸の奥が苦しい。噛み締めた歯が、ガチガチと音を立てる。
「ようやく……見つけたのに……」
強く握った手を、繰り返し自分の足へ叩きつけた。
両親の仇を討つ手掛かりが目の前にある。しかし、煮え滾る憎しみを、恐怖が冷えた鎖となって締め付けてくる。
膝の上の拳に、ポタリと涙が落ちる。一滴、また一滴。ついには溢れて止まらなくなった。
憎悪と恐怖が胸の内で渦巻き、激しい嵐のようだ。進むのか、それとも戻るのか。どちらも選べず、ただ立ち尽くすしかなかった。
涙を拭い顔を上げた時、机の上の紙が目に入った。
脳裏に、篝さんの姿が浮かぶ。巨大な斧を軽々と操り、あの化け物を圧倒していた。
そう、あの――化け物を。
人間なんて簡単に殺せそうな化け物を、圧倒するほどの力を持っていた。
それは本当に、人間なんだろうか……?
あの力が、こちらに向いたとしたら……。想像しただけで、首筋に何かが這うような悪寒が走る。
嵐の中で見えた一筋の光。それは絶望へと続く道かもしれない。
しかし、それでも進むしかない。このまま恐怖に圧し潰され、後悔を抱えながら生きるよりは、微かな希望にすがる方がマシに思えた。
――なら、進むだけだ。
胸中に、昏く熱い火が灯った。
一度決心すると、放課後になるのが待ち遠しく感じる。いつもより遅く進む時間に、焦れた思いで過ごした。
やっとの思いで放課後まで耐えると、指定された場所へと急ぐ。
そこは街外れにある、潰れた町工場だった。
赤錆の浮いたトタン屋根に、雨染みで黒く汚れた外壁が、人が去ってからの年月を感じさせる。
正面の錆びたシャッターの横にドアがある。ノブを回しながら手前に引くと、ギィッと言う耳障りな音を上げながら開いた。
広く開けた空間に、汚れた天窓から黄色く滲んだ光が降り注ぐ。埃がキラキラと舞うカビ臭い工場の中に、真新しいコンテナが一つ置かれていた。
近くへ寄ってみると、ドアがあった。その横に『篝』と書かれた、白い樹脂製のプレートが取り付けられている。
何とも気の抜けた佇まいに、思わず失笑してしまった。
気を取り直してドアをノックすると、篝さんが顔を出した。
「やあ、待ってたよ。中に入って」
朗らかに笑い、招き入れてくれた。
ドアの向こうに見える部屋は、シンプルに整えられている。ベッドに机とイス。ベッド脇にはあのケースが置かれ、机にはティーセットが用意されている。フローリングの床には、ベージュのカーペットが敷かれ、壁には棚が据え付けられている。そこには、数冊の本や雑貨が置かれていた。
普通の部屋にしか見えない。だが、虎の巣穴の前に立っている気分だった。決心して来たはずなのに、一歩が踏み出せない。
「どうしたの? あ! 土足で大丈夫だよ」
地面に縫い付けられた足を、無理やり引き剥がし、部屋に踏み込む。
土足でカーペットを踏む違和感に戸惑っていると、背後でドアが閉まる音がした。
「どうぞ、座って」
勧められて着席すると、ポットから紅茶を注いでくれた。湯気と共に、紅茶の香気が部屋を満たす。
「お口に合うと良いんだけど」
琥珀色の液体に映る顔は、酷く緊張している。手に取ったカップは少し震えていた。
「さて、何から話そうかな」
ベッドに腰掛けた篝さんが切り出す。
「まずは|ア《・》|レ《・》が何なのか。それを教えて貰えませんか?」
篝さんは少し考える素振りを見せる。
「そうだね。まずはそこから話そうか」
篝さんは棚からノートを取り出し、開いたページにペンを走らせた。
書き終わったページを見ると“Outbreak of Negative Incarnation”と書かれていた。
「日本語に訳すと……抑圧性変異感染症かな。私たちは頭文字を繋げてオニって呼んでる」
「鬼……ですか?」
空中に鬼の字を書きながら聞き返す。
「いわゆる日本の鬼とは違うんだけどね。あ、でも、人を襲うってところは一緒かな」
普通は笑い飛ばすような話だ。だが、二度も実物を見てしまった。
まぶたの裏で、あの赤い目を思い出す。体の中を冷気が吹き抜け、肺まで凍ったように息苦しい。
「みんなは知らないけど、毎年何人も襲われてる」
両親の件を警察へ訴えたが、取り合ってもらえなかったことを思い出す。思わず拳を強く握り締めた。
「何で、みんな知らないんですか……」
「私たちが秘密裏に対応してるからだね。公になるとさ、色々と不都合があるんだよ。だからさ……」
篝さんの声が、少し低くなった。
「帚木くんも、昨日のこと秘密にしてくれないかな?」
「……え?」
言葉の意味を理解する前に、背中にゾクリとした悪寒が走る。何か得体の知れない感覚が、ビリビリと皮ふを震わせる。
顔を上げると、篝さんと目が合った。
その瞳は、氷のような冷たさで――青く輝いていた。
柔和な笑みを浮かべている篝さんが、全く別の生き物に見える。
「ね? 頼むよ」
お願いの体を取っているが、これは明らかに脅迫だ。そこまでして守りたい秘密なんだろう。
机の上に置いた手が震え、カップがカチャカチャと音を立てる。
――だけど、ここで引けない。いや、引く訳にはいかない。
ツバを飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「わかりました。でも、一つだけお願いがあります」
「お願い?」
篝さんは少しだけ視線を流し、そしてすぐに戻した。
「良いよ。私が聞ける範囲のことなら聞いてあげる。君には歩道橋での借りもあるしね」
柔らかな篝さんの言葉には、どこか探るような響きがあった。
喉がカラカラに渇いて、最初の言葉がなかなか出てこなかった。それでも無理やり絞り出す。
「アイツの倒し方を教えてくれませんか」
そう答えた瞬間、ピシリと空気にひび割れが走ったように感じた。
「それは聞けないお願いだね」
そう答えると、篝さんはベッドに腰掛けるが、青い瞳は変わらずこちらを捉えている。
「そもそも、普通の人間はオニを倒せない。一方的に殺されるよ。例えばさ、熊に素手で勝てる? 無理でしょ?」
「でも、貴方は倒してた」
「そりゃね。もう気付いてると思うけど、私は普通の人間じゃないから。……でも、君は普通の人間だよ」
篝さんからの強い拒絶を感じる。だけど、闇の中で唯一見えた光明を、手放したくなかった。
「……どうすれば、貴方みたいになれますか?」
声が震えているのが自分でもわかる。息苦しいほどに空気が張り詰める。
篝さんの顔から笑みが消え、こちらをジッと見つめてくる。その視線は、まるで氷で出来た刃物のようだった。
ベッド立ち上がった篝さんは、脇にあるケースの蓋を開けた。
中に入っていたのは、巨大な斧だった。
ティースプーンを手に取るような気軽さで、篝さんはそれを持ち上げた。
まるでテニスラケットのように、縦に放り投げ、一回転したそれをキャッチする。
何度かその動作を繰り返した後、腕を軽く横に振った。
何かが壊れる音と青い閃光。認識できたのはそれだけで、気付けば――首筋に刃が当たっていた。その冷たい感触に、全身が総毛立つ。
「こんなのになりたいの? それってつまり、人間じゃなくなるってことなんだけどさ。それ、解ってる?」
怒気を含んだ篝さんの声が遠から聞こえる。
首筋から全身に広がる、生命を握られている感覚。現実から乖離したような浮遊感が、全身を包んでいる。
それでも、自分を奮い立たせるように拳を強く握り締めた。
「お願いします。どうすれば貴方のようになれるか、教えて下さい」
篝さんは目を見開き何かを言いかけるが、それを飲み込むように口を閉ざす。
そっと視線を伏せ、胸中の何かを逃がすように、静かに息を吐いた。
斧を引き、床へ降ろす。
そして、低く囁くように問いかけてくる。
「どうして?」
「両親が殺されました」
顔を上げた篝さんの目から、青い輝きは消えていた。代わりに、哀しみの色が浮かんでいる。
「復讐……したいの?」
「はい」
「そう」
篝さんは天井を仰ぎ、大きく息を吸うと、両手で自分の頬を張った。
向き直った顔は凛として、冬の朝のように澄み切っていた。
「なら、そのお願いは尚更聞けない。月並みな言葉だけどね、復讐は何も生まないよ」
篝さんが身を乗り出してきた。頭が付きそうなほど、顔と顔が近付く。
「何も生まないなら、まだマシな方。復讐はね、君から何もかも奪い去ることもあるんだよ」
先程までと違い、篝さんの瞳の奥には暖炉の炎のような、暖かな光が宿っている。抱き締められるような感覚が胸に広がり、その瞳に思わず見惚れた。
呆けた自分に気付き、反射的に体を引こうとする。しかし、カーペットに足を取られ、派手な音を立てて倒れ込んだ。
「大丈夫?」
クスクスと小さく笑いながら、篝さんが手を差し伸べてくれた。バツの悪い思いをしながら、その手を掴み立ち上がる。
「貴方のご両親の仇は、私が必ず討ってあげる。だから、貴方は今のままの、普通の生活を送りなさい」
握られた手から、優しさが伝わってくる。
冷えた心がゆっくりと温められ、融けた氷が涙になって流れ落ちていった。
心の何処かに、まだ諦めきれない自分がいる。それでも、この優しさを無下にしてはいけないと思った。
「お願いします……」
少しだけ強く手を握り返す。
「はい。お願いされました」
篝さんは優しく微笑み、そっと手を離した。
「……それじゃあ、一つだけ教えてくれるかな。君のご両親を殺したオニについて、何か憶えていることはある?」
全身を氷で撫でられたような感覚が走る。
篝さんの問いに夢の記憶がよみがえり、一瞬体がビクリとする。胃のあたりに、ドロドロした澱のようなものが溜まる。
それを吐き出すように答えた。
「灰色の、ゴツゴツとした体に、大きな腕。目は赤色でした……。昨日の晩に見たやつと、ほとんど一緒です」
「ほとんど……ということは、何か違いがあったってことだよね?」
「はい。昨日のやつには角が二本ありましたけど、僕の両親を殺したやつは一本でした。片方が折れてしまったような感じで」
「ふうん……」
何気なく相槌を打つ篝さんの目に、鋭い光が走った気がした。それはほんの一瞬で消え、すぐに元の優しげな表情に戻る。
「任せておいて。ご両親の仇は、私が絶対に討つから」
篝さんはそう言って微笑んだが、その顔には何処か、後ろ暗さを隠すような