ジャノ、覚醒
すりっと、金属と風とがすり合う涼やかな音色。
逆手に持っているのは、軽く反りの入った限りなく薄い刀身の剣。
一振りで、彼女の周りを取り囲んでいる人獣たちの胴が真っ二つに斬れ落ちていった。
「大丈夫かジール、ちょっと休んだほうがいいんじゃねーか?」
駆けつけたイーグにそう言われて、鼻先に滴り落ちた汗をひと拭い。
大量に湧き出てきた人獣どもを次々倒してきたはいいが、そろそろ自分が、どこで何をしていたのかも判断が付かなくなってきた。
あちこちの穴蔵や坑道の牢に捉えられていた街の人たちを解放し、手当てして……の繰り返し。イーグやマティエが側にいるのは心強いが、いかんせん敵の数が多すぎる。
人気のない路地裏に身体を潜め、返り血のついた顔と髪を水にひたしたタオルで拭いとる。
「はあ、どっかに温泉でも湧いてないかな?」
「湧き水はあるんだし、穴掘ってりゃ出そうな気もするんだけどな」ジール以上にリラックスしたイーグが軽口で応えた。
「そーいや、ジールってそんなイカす剣持ってたんだ」
うらやましそうな目で、イーグが彼女の手にしている剣を指した。
「ああこれね、ラザトからもらったの」
「え、あいつから!?」
「うん。この前賭けで大勝ちしちゃったから、あいつが宝物にしているモノをね」
かーっ、すげえなと猪族の戦士は高笑い。確かにそうかもしれない。宝石の埋め込まれている鞘や柄の装飾からしてかなり高価そうだ。
だけどそんなことより、彼女は刀身そのものに惹かれていた。
「ヤバいくらい斬れそうだよね、これ」と。
「まあ、普段は投げナイフとかボウガンしか使わないんだけどね」
疲れ知らずのイーグがもうひと踏ん張り、とその場を後にすると、嘘みたいな静寂が彼女を包み込んだ。
しかし、いくら解放された人間たちがその手で武器を取って反撃に加わってくれたところで、まだまだ温泉の如く湧き出てくる人獣どもに対抗できるかどうか……と、疲れ切った身体を大きく背伸びした時だった。
「ジールの姉貴ー!」
突然、背中からしがみついてきた、妙に聞き慣れたなれなれしい声。
「どわっ!」危うく倒されそうになった。けどギリギリ平気。
けどこの声は……って確かずっと姿を潜めていたはずでは? とおそるおそる振り向くとそこには。
「……ま、まさかジャノ?」
「そうだよ姉貴〜! よかった無事だったんだね」
黒く細く長い尻尾をくねくねと絶え間なく動かし、頬をすり寄せてくる彼女……間違いない、ジャノだ!
だけどこの姿は……とジールはあえて問い正した。
「なっちゃったんだ……ね?」
「うん、やっぱりなっちゃった……半年ぶりかな?」
ジールは思い出していた。あの時ジェッサたちと会った日の夜のことを。
その日が来るまでは、決して口外しないでくれと言われた……
ジャノの身体に隠された秘密のことを。
☆☆☆
「ジール……だったっけ。あなたに話があるんだけど」
ルースと共にスーレイへ先に行ってしまったラッシュを追う途中、砂漠で出会った女性だけの盗賊団。
そんな中、妙にジャノって子だけは、マティエとジールにまるで姉妹なんじゃないかってくらい懐いていた。
だからこそ、母親は決心したのかも知れない。
「あの子……ジャノをお願いできる? 身勝手なお願いかもしれないけど」
「ええ、私たちなら別にかまわないわ。なんか外の世界も知らなさそうだしね」
ごめんね。とジェッサは自身の身体を覆っていた包帯を取り、その半身を月明かりの下にさらけ出した。
はっ、と息を飲む。
火傷の醜い身体ではなく、半獣半人としての身体に。
そして彼女は語った。傭兵時代のいきさつを。そして……
「縁って不思議よね。まさかおやっさんとそんな仲だったとは」
「つまり、ラッシュの兄貴のおっ父が俺のおっ父と一緒で、おっ母も同じってことっしょ? なんかおかしなことあったっけ」
ジャノの言葉にふと我に帰る。ジェッサがオルザンでその身に浴びた血のような水のことを。
「でさー、なんでおっ母とガンデ兄貴は同じ姿なのに、俺はこんな中途半端なことになっちゃうんだろね?」
そう、それこそが一番の問題だった。
「おっ母は全然教えてくれなかったんだよねー。初めのうちは定期的に熱出しちゃう体質だからってはぐらかしてたンだけど、そのうち全身がすっげ痛くなってきて、おまけに変な毛まで生えてきちゃうしで」
ジャノは恥ずかしげもなく、とりあえず身体に巻いていたシーツを取り去った。
「ちょっ、ジャノ……ここで脱ぐんじゃないって!」
「だーってさー、この身体になるとなんかすっげー熱くなってくるんだもん。つーかジールの姉貴ってこうならないの?」
「全然」
「マジ?」
「うん」
はぁ。とジールに似たため息がひとつ。
「最初はイヤだったよ。なんでいつも苦しい思いしてこんな姿にならなきゃいけないんだって……オマケに元に戻るとまた全身痛くなるし」
同様のことをジェッサが教えてくれたのを思い出していた。獣人の身体から元に戻る時の反動のことを。
「あの子はね、人間であるガンデの血と、本来獣人だった私の血……二つが流れているんだ」
「けど、本来私たちと人間は交わっても子供なんてできないでしょ? それが何故……」
ふと、ジールの両頬に母親の手が触れた。
人間の手と、黒豹族の手が。
「私の身体がオルザンに冒されたから……かな」
ジェッサは続けた。このまま娘を世間知らずのままここに居させたくないことを。その葛藤のさなか現れたのがラッシュとジールたちであることも。
機が熟するまでは誰にも話さないでくれ。それに……
この事を大きく広めないでくれ、とも。
「確かにそうだよね……こんな姿が世間に知られちゃったら、まず城の……いや、ルースもタージアも黙っちゃいないだろうし。あ、あと王様か」
ジールは黒豹の姿のジャノに向き直り「わかってるよね」と言葉をかけた。
「わーってるって。捕まっていろいろ調べられちゃうのもイヤだしね」
手近な家からいろいろと物色してきたジャノは、自分に合いそうな服や装備を身に付け、悦に浸っていた。
「ねえねぇ、これなんかどっかな? こっちとどっちがカッコよく見える?」
こんな有事に品定めなんてね。と苦笑しながら渋々ジールは付き合った。
……………………
………………
…………
ジールは上機嫌の妹分に一通り経緯を説明し、ひとまずジャノにはラッシュたちの後を追わせることにした。
激戦に巻き込ませたくないことと、久しぶりに彼女の兄に合わせたい想いと。
「さて、もうひと頑張りすっかな」
身体を大きく伸ばし、また戦場へと向かおうとしたその時だった。
ーコイス湖畔の小屋の小屋根は?ー
背にしていた壁の向こうから、今にも消え入りそうなほどのささやき声。
「……に、鈍色の穴ぼこだらけ」それは彼女だけが知っていた合言葉だった。
「やっぱりな。その声はジール、お前だったか」
よっこらせと、声の主は窓の奥から顔を出した。
「バウランおじさん……だよ、ね?」
人間の老翁は、すっかり白くなった両眼でまぶしそうに空を見上げた。
「悪ぃな。何十年も穴蔵にいたせいか、なんにも見えなくなっちまったわい」
「やっぱり……生きてたんだ!」