第106話 元『被官』の突然の辞表
「分かりました!宰相。すべては私の失態です」
嵯峨に見切りをつけた醍醐は懐から書簡を取り出した。表には『辞表』と書かれているのを見ても嵯峨は黙ってしらたきを取り皿に運んでいた。
「突然だね。聞いた限りでは醍醐さんには何の責任も無いような気がするんだが」
それだけ言うと西園寺義基は手に取ることも無く、醍醐の陸軍大臣を辞めるということが書かれているだろう書簡を眺めていた。
「嵯峨公。私はもうあなたを信じられなくなりました……」
元主君として身を挺して働いてきたつもりの人物がすべてを知りつつ自分の善意を踏みにじっていた。その事実に醍醐は耐えきれなかった。
「え?これまでは信じてたんですか?それはまたご苦労なことで。俺みたいに駐留武官なんていう仕事から軍に奉職すると人を信じない癖がつきましてね。実戦部隊上がりの醍醐さんには理解できないかな、俺の思考回路」
視線を向けることも無く嵯峨はしらたきを食べ続ける。その様子に激高して醍醐は紅潮した頬をより赤く染める。
「まったく!不愉快です!宰相!辞表は確かにお預けしましたよ!」
そう言うと醍醐は立ち上がった。そして西園寺義基と嵯峨惟基の兄弟を見下ろすと大きなため息をついた。
「すいませんねえ。俺はどうしてもこう言う人間なんでね。怒ってる人間を見るとさらに怒らせたくなる。自分でもどうにも困った性分です」
部屋の襖のところまで行った醍醐に嵯峨が声をかける。だが、醍醐はまるで表情の無い顔で一礼した後、襖を静かに閉めて出て行った。
「どうするの?それ。今、醍醐さんに辞められるってのは義兄さんの内閣にとってはまずいんじゃないの?『民派』で醍醐さんの人気は結構あるんだ。それが離反したとなれば、義兄さんを支えてる平民達にも動揺が広がる。さあ、どうします」
嵯峨は今度は焼き豆腐に箸を伸ばしながら腕組みをして辞表を見つめている西園寺義基に声をかけた。
嵯峨の表情は事の成り行きを楽しんでいるように見えた。醍醐が出て行ったこの奥座敷のふすまの向こうからは心配そうな表情ですべてを見守る食客達の姿が嵯峨からも見ることが出来た。
「さあて、宰相、どうしますか?」
追い打ちをかけるように嵯峨は笑いながら西園寺にそう言った。