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32話 帝国に落ちた影







人間の国、ラディアス帝国──

それは、砂漠の荒風にまみれた欲望と権力が渦巻き、無数の血がその大地を赤く染めた国だった。
北方に広がる亜人の国、エリスカリオン共和国。その首都アルデンフォードの豊かな水辺とは対照的に、ラディアスの大地は乾ききり、欲深い者たちの支配によって裂け目のような闇が広がっていた。

ラディアスとエリスカリオンの間には古くから深い溝があった。領土を巡り、資源を求め、両国は果てのない争いを繰り返してきた。しかし、その均衡が崩れたのは今から三百年前のことだ。

ラディアス帝国の指導者がある禁忌の策を講じた。それは、毒を用いた殺戮計画だった。この計画により、エリスカリオンの国民の大半が命を奪われ、滅亡の瀬戸際に追い込まれた。だが、共和国への侵攻を進めていた帝国軍の七割以上が亜人の反撃によって命を落とし、帝国自身も多大な犠牲を払う結果となった。この悲劇的な戦争は後に「災厄のテオ」と呼ばれるようになる。

「災厄のテオ」を境に、ラディアス帝国は停戦協定を結んだ。

表向きには平和が訪れたかのように見えたが、その実、帝国はその出来事を最大限に利用していた。帝国の支配者たちは「亜人種は恐るべき敵であり、完全に排除されるべき存在だ」とするプロパガンダを国中に広めた。虐殺の記憶を亜人への偏見と憎悪へと転化させ、民衆の心に根付かせたのだ。

これらの策略の下、ラディアス帝国はさらに領土を拡大していった。そして、真実を隠し、侵略の準備を進めるその陰謀は、次なる血の惨劇への序章となるのだった──









帝国、アルハザード東部──

冬が終わりを告げても、冷たい風は砂漠を荒らし続けていた。砂は容赦なく舞い上がり、白壁の街並みに降り注ぎ、どこか薄汚れた輝きをまとわせている。その中心に佇む屋敷もまた、砂に覆われながら、ひっそりとその存在感を保っていた。

三つ子月の光が静寂を切り裂くように砂漠を照らす中、屋敷の無骨な外壁が淡い銀色に染まっている。装飾らしいものはなく、ただ機能美に徹した堅牢な造り。派手さを避け、ひたすら耐え忍ぶその姿には、どこか忘れ去られた精神が宿っているかのようだ。

屋敷の門前、揺れる松明の灯りに照らされた二人の門番が、気の抜けた話を交わしていた。


「なぁ、聞いたか?共和国が内ゲバやってるって。」
「大臣か誰かがトチ狂って、騎士に斬られたって話だろ。」


ひとりが笑いながら軽口を叩く。


「犬っころ共に政治の真似事なんて出来やしないっての。」
「ほっといても自滅するんじゃねえか。」


もうひとりもそれに乗り、声を弾ませて答える。


「あっちが混乱してるとなれば、そろそろ戦争が始まるかもな。」
「お前、行く気か?」


言われた門番は顔を背け、手を振りながら呆れたように答えた。


「行く訳ねえだろ、行きたいってヤツは揃ってケモノ好きに違いない。」
「言えてるな。」


二人は声を揃えて笑い合う。無防備な笑い声が砂の音にかき消され、月明かりの下に響く。そして、その目の前、黒い影がゆっくりと揺れ動いていたことに、彼らは気付いていなかった。

影が一歩近づき、低く短い声を放つ。


「おい。」


その一言に、二人の笑いは凍りついた
ようやく剣を抜いて声の主に突きつけた。その鋭い声が夜の静寂を切り裂く。


「何者だ!」


だが、次の瞬間、門番たちの首筋に冷たい刃が触れる。背後から忍び寄ったもう一つの影が、間の抜けた声で言い放った。


「はい、グサーッ。死んだよ、お前ら。」


驚きに凍り付く門番たち。


「大臣はいるか?」


最初に門番の前に現れた影がゆっくりとその姿を明らかにした。

黒いローブに包まれた長身の体格。褐色の肌に短く整えられた黒髪。そして鋭い鷹のような目が、冷静さと不気味な緊張感を漂わせている。


「は、はい。屋敷の中に…」


門番が震える声で答えると、影はわずかにうなずき、背後に声をかけた。


「よし。行くぞ、マリク。」


その名を呼ばれた男が姿を現す。黒いターバンを巻き、同じく黒いローブを羽織ったその姿は、まさに夜そのもの。がっしりとした体格に茶色の肌、濃い眉の下の琥珀色の瞳は鋭い光を宿している。

マリクは腰にジャンビーヤをしまいながら、門番たちを一瞥し、不敵に笑った。


「命拾いしたな。」


そう言い残し、先に進む仲間に続く。残された門番たちは息を呑み、しばらく動けなかった。


「な、なんなんだよ。アイツら…」


ひとりが震えながら呟くと、もうひとりが青ざめた顔で答える。


「あれは…『黒服』だ…」










白髪の男は書斎の椅子に深く腰を下ろし、机に散らばる書類に目を走らせていた。金の燭台が静かに揺れ、積み上がった紙の山を照らしている。その表情には疲労の色が濃く、彼は重たそうにモノクルを外し、目頭を押さえた。

そんな静寂を破るように、扉がノックされる。


「なんだ?」


少し苛立ったような声で尋ねると、扉越しに控えめな返事が返ってきた。


「大臣、黒服と名乗る者たちが来ています。」


大臣と呼ばれた男は、モノクルを再び着けながら少し目を細める。


「通していいぞ。」


扉が静かに開き、黒いローブに身を包んだ二人の男が現れる。室内に漂う雰囲気が、一気に張り詰めたものへと変わった。後ろに立つ憲兵がドアを閉めようとすると、背の低い方の男が軽く手を挙げて静止する。


「待て、ドアは開けておけ。」


背の高い男が一歩前に進み、丁寧に頭を下げた。


「夜分遅くに申し訳ありません。」


大臣は冷ややかに彼らを見据えたまま、短く尋ねる。


「黒服が何の用だ?わしを監視しに来たのか?」

「まさか。本日より、大臣の護衛に回るよう命じられました。」


大臣は懐から葉巻を取り出し、火をつけながら一本針の時計に目をやる。時計の針は、深夜0時を指していた。


「護衛?見え透いた嘘を言うな。黒服の仕事はスパイの撲滅だろう。」


煙を深く吸い込むと、彼は窓際へと歩き、木窓を開け放った。


「見ろ。護衛なら既に十分だ。窓の外にも歩哨がいるし、ドアにも憲兵がいる。」


黒服の長身の男は微笑を浮かべ、静かに応じた。


「念には念を、というところでしょうか。ここ数日、我々の構成員も何人かやられていますので。」


その言葉に、大臣の目が鋭く光る。


「構成員?黒服がやられたのか?」


長身の男は肩をすくめる。


「いえ、ただの使い走りです。しかし、いくつかの事件で目立ち始めた気配があります。」


すると、もう一人の男――マリクが前に出てきて低い声で付け加えた。


「ここ数年、奴らは動きを見せなかった。だが最近は違う。奴らが虎の子を出してきた可能性がある。それも、かなりの手練だ。」

「商会の連中か?」


大臣が問いかけると、長身の男は肩を竦め、曖昧な微笑を浮かべた。


「さぁ。私はただの使い走りなので──」


その言葉を遮るように、マリクの視線が窓へ向けられる。


「外の歩哨はどこに行った?」


大臣が眉をひそめる。


「小便でもしてるんじゃないか?」


だが、マリクは険しい表情を浮かべ、大臣の前に立ちはだかった。


「大臣、窓から離れて、こちらへ。」


その時、背後で微かな呻き声が響いた。警戒したマリクが素早くドアに近づき、隙間を広げて叫ぶ。


「ナジーム!ドアの男がやられてる!」


ナジームと呼ばれた長身の男はマリクと一瞬目を合わせると、無言でジャンビーヤを抜き放った。そして冷静な動作でドアを大きく開け、闇の中へと踏み出す。

天井の闇の中で、何かが一瞬だけ光を放つ。

その微かな殺気を捉えたマリクは、持っていた短剣で迫り来る刃を受け止めた。白装束を纏った小柄な刺客が、勢いよく彼に斬りかかる。


「うおおおおおぉ!?」
「マリク!」


ナジームが叫んだその瞬間、刺客の鋭い金色の目が彼を一瞥する。それと同時にドアが閉まり、部屋の中は再び張り詰めた空気に包まれた。


「大丈夫だ!ヤツはひとりだ!」


マリクはそう叫びながら刺客と向き合う。白いフェイスベールの奥から覗く金の瞳が、わずかに嘲笑の色を帯びる。


「お前、女か?」


挑発するように問いかけるマリクに、刺客は目だけで静かに笑い、月明かりの中で一歩下がる。その動きと同時に刺客の姿は闇に溶けるように消え失せた。僅かな白い光だけが残される。

背筋が凍るような感覚に、一瞬だけマリクの動きが止まる。しかし、すぐに膝をつき、床に耳を当てる。遠ざかる足音が微かに響いていた。


「ヤツは逃げた!追うぞ!」
「待て!深追いするな!」


ドア越しでナジームが制止するが、マリクは無視して部屋を飛び出す。

その頃、大臣は少し緊張が解けたのか、窓から外の様子を伺おうと体を伸ばしていた。その動きに気づいたナジームが叫ぶ。


「大臣!伏せてください!」


その瞬間、遠くの闇の中で何かが煌めき、大臣の頭部に矢が直撃した。何も言葉を発することなく、大臣の体は力なく崩れ落ちる。


「クソ!相手は二人だ!」


悪態をつきながらナジームは警戒を強めるが、マリクはすでに逃げた刺客を追いかけていた。


「オレから逃げられるとでも思っているのか!?」


微かな影を追い続けたマリクは、やがて建物の屋根に辿り着いた。そこには刺客が静かに佇んでいる。


「おい、もう逃げないのか?」


マリクは不敵な笑みを浮かべ、ジャンビーヤを握り直す。その刹那、闇の中から矢が放たれ、放物線を描いて彼の元に飛んでくる。マリクは素早く短剣で弾き落としたが、その瞬間、目の前の刺客は再び姿を消していた。

屋根の上で静寂だけが残り、マリクは苛立ちながら周囲を見渡す。


「クソ、どこへ消えた……」


闇に潜む気配を探しながら、彼は静かに刃を構え直した──





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