31話 骨まで溶けるような
暗い部屋の中で、黒髪が揺れ、その隙間から尖った耳が冷たい光を反射する。肌は青白く、不気味なまでに滑らかだ。
セリシアはゆっくりと口を開き、その顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。
「ようやく手に入れた…アビスブック…」
低く響く声が部屋に染み渡り、寒々しい静けさをさらに強調する。その異様な空気に圧されながらも、グリアナはセリシアに向かって歩み寄る。
「その本を知っているのか?そもそもお前はセリシアか?」
鋭い視線を向けて問いかけるグリアナ。
しかし、セリシアは応じる代わりに左手をすっと前に差し出した。指先から黒い霧がゆらめき出し、空気がざわめく。グリアナは即座に背負った大剣に手をかけたが、その瞬間、全身に得体の知れない違和感が走る。剣を抜く手が止まった。
「どうした、剣を抜かないのか? 動物風情がッ!」
鋭い声と共に、セリシアの左手から放たれた黒い霧が猛然とグリアナを包み込む。まるで蛇のように絡みついた霧は彼女の体を宙に持ち上げると、そのまま勢いよく壁に叩きつけた。
鈍い衝撃音が響く。さらに二度、三度と壁へ叩きつけられ、最後は床へ投げ落とされた。グリアナの体が床に沈み込むように倒れる。大窓の隙間から吹き込んできた雪が、静かに彼女の体を覆い始めた。
「グリアナ!」
ルネが悲痛な叫びを上げる。彼女はすぐに駆け寄ろうとしたが、ふと身体を締め付けるような違和感に気づき、足を止める。
「どうした、小娘。これが魔封じの結界だよ。貴様らの魔法は使えん。」
セリシアの声には冷たい嘲笑が込められていた。魔力の流れを奪われた空間は、まるで全てが凍りついたように感じられる。しかし、その中でただ一人、テオが動き出す。右手に火球を作り出し、燃え上がる炎が次第に大きさを増していった。
「ボクでも?セリシア。」
静かに問いかけるテオ。彼の火球は結界の影響を受けることなく膨張し、部屋の暗闇を押し返していく。しかしセリシアは少し眉をひそめただけで、呆れたように言い放った。
「面倒臭いなぁ…」
彼女は手の甲を上に向け、両手をゆっくりと掲げる。その動きと共に、黒い霧が再び空間を満たし始めた。そして、手を勢いよく下ろした瞬間――テオの火球は音もなく霧散し、その場にいる全員の身体が床へ叩きつけられた。
音を立てて、柱の上に縛られていたシャイラの体も無惨に落下する。
「テオ!」
ルナ陛下が倒れたテオに近寄る。
「夜天の衣か、面倒だな…」
セリシアが冷たく呟く。そのそばでは、アビスブックが淡い光を放ちながら宙に浮かんでいた。セリシアはゆっくりとルナ陛下のもとへ歩み寄り、その服を掴むと、軽々と抱き上げる。
「離せ!お主は何をしてるのか分かってるのか?!」
「煩いなぁ…」
セリシアの吐息混じりの声が、冷たく満ちた空間をさらに重く染めていった。
玉座へとゆっくり歩み始めたセリシア。その背後に銃を向け、ウタが静かに告げた。
「動かないで。陛下を解放し、投降してください。」
その声に足を止めるセリシア。首だけを振り向けると、眉を潜め苛立ちを露わにする。
「…貴様はなぜ動ける…はぁ。面倒ばかりだ。毒を仕込めば良かったかもしれん。」
「結界を壊したのはあなたですね?」
ウタの問いに、セリシアは一瞬だけ目を細めた。そして静かに答えを紡ぎ出そうとした。
「壊したのではない。本来の──」
その時、テオの呻き声が響く。
倒れていた彼女が再び立ち上がろうとしていた。骨が折れる音や筋肉が引き裂かれるような不気味な音が周囲に響き渡る。セリシアの目が鋭く細められた。
「無駄な足掻きだ。その魔法は、世界の全てを留める力だ。解ける訳が無い。」
セリシアは傍らに浮かぶアビスブックに手をかざし、冷たく宣言する。
「見せてやろう、アビスブックの使い方を…!この本は使用者の思念を読み取り、存在する物全てを呼び出す事が出来る…」
青白い光を放つ霊気の本。その中に手を突っ込むと、セリシアはゆっくりと三又の大槍を取り出した。光が散り、槍が現れると、その場の空気が一層冷たく張り詰める。
「蒼天裂槍、数千年前に竜族の長が使っていた槍だ。御先祖さまの槍で葬ってやるよ、テオ。」
セリシアの声が冷たく響く。しかし、それを聞いたテオは口元を少しだけ歪めて笑った。
「魔法が使えなくてもボクには翼があるんだよ。」
その言葉と同時に、テオの翼が大きく広がり、空気を切り裂いて羽ばたく。床スレスレを滑るように飛び、一直線に玉座へと突進した。
衝撃と共に玉座が粉々に砕け散る。その一撃はただの破壊ではなかった。玉座を覆っていた闇が霧散し、結界が解かれていく。月明かりが差し込む中、セリシアは目を見開き驚きの声を漏らした。
「な?! 自分の身体で玉座を── 結界を破壊したか?!」
動揺を見せるセリシアは把握していたはずのひとりを見失う。
「金髪の小娘はどこに──」
その時だった。セリシアの背後に白い雪のような光がきらめき、その中からルネが現れる。
静かな気配の中で現れたルネの動きは、光の速さそのものだった。セリシアの左肘を的確に捉え、強烈な一撃を与える。
腕が逆に曲げられ、痛みに絶叫するセリシア。その隙を突き、ルネはルナ陛下を抱きかかえると、一気にその場から離れた。
「ぐっ…貴様…!」
セリシアは槍を握り直し、ルネを追撃しようとする。
だが、その時、ウタの中で機械音声が響く。
『カテゴリーAの解除条件をクリア。行動制限を解除します。』
銃声が鳴り響いた。乾いた音が二度、空間を裂く。
セリシアの額に小さな穴が二つ開いた。彼女の動きが止まり、槍を構えたまま、力を失った体が崩れるようにその場へと倒れる。同じ様に槍も霧散して消え去っていく。
薄暗い室内に残るのは、静寂だけだった。雪が舞い込み、月明かりが凛とした輝きを放つ中で、ウタは静かに銃を下ろした──
ウタは足元に落ちたアビスブックを拾おうとするが、ふとセリシアが言っていた言葉が頭を過ぎる。ウタは本に手を伸ばし、それを願う──
『ネットワークに接続完了。新着メッセージ、一件。』
機械音声が新たなメッセージを知らせた後、アビスブックは光を失う。
『ネットワークが切断されました。』
「テオ!」
ルナ陛下の叫びが空間に響き、ウタは我に返る。振り返れば、陛下が傷ついたテオの元へと駆け寄っていく。彼女は手を振って答えている。
一方で、ルネは柱の影に倒れていたシャイラの元へと向かい、彼女を抱き起こしている。その姿を見届けたウタは、重い足取りでグリアナの元へ向かった。
「グリアナ、無事?」
ウタの問いかけは、どこか軽く、それでいて深い信頼を感じさせる響きがあった。動かないグリアナに対して、特有ののんびりとした調子を崩さない。
「…あぁ。生きてるよ。頭はハッキリしてるが体が動かない。」
そう答えるグリアナの声には力があったが、その状況が本当に「無事」と呼べるかは微妙だった。ウタは一瞬顔をしかめる。
その時、後ろからシャイラに肩を貸しているルネが軽く声を投げかけた。
「あんた、まだ生きてるの?あんなに念入りに叩きつけられたのにタフね。」
ルネの言葉に、グリアナは思わず笑い声を漏らす。
「心配ありがとう、砂漠の花よ。」
その一言で、ルネは小さく肩をすくめ、溜息をついた。彼女の正体を見抜かれてしまったことに気付いたのだ。
「見てたのね。ケガが治ったら全部話すわ。」
ルネの諦め半分の言葉に、グリアナは目を閉じたまま、さらに挑発めいた口調で返す。
「さて…何の話をしてくれるのやら…」
彼女のとぼけた態度に、ルネはそれ以上言葉を返さなかった──
◇
それから数日後──
アルデンフォードの郊外にある墓地には、全員が黒い服に身を包み、ウタを始め、あの日の当事者が静かに集まっていた。
周囲には誰一人として他の参列者はおらず、墓地の空気はひどく重く、暗雲が空を覆い尽くしている。その中で、セリシアの葬儀が、ルナ陛下の強い希望によって、ひっそりと執り行われていた。
深く掘られた穴に、木材が積み重ねられ、その上にセリシアの遺体が安置される。その側で、松明を掲げるグリアナがひときわ暗い光を放ち、ルナ陛下が静かに語り始めた。
「お主は我らを裏切ったのかも知れぬ。しかし、教えてくれた事やしてくれた事は消えぬ。あの場に居合わせ、ここに集まった皆が身を呈して、取り返しのつかぬ事をする前に、お主の名誉を守ったとわしは信じたい。次は誇り高き亜人となれる事を願う。」
その言葉が風に乗って墓地に響き渡る。その瞬間、グリアナが火を点けると、松明の炎が勢いよく燃え上がり、セリシアの遺体を包み込んでいった。
火の光が墓地を照らし、ウタとルネは少し離れた場所で、その光景を静かに見守っていた。
静寂の中、ウタはあの時アビスブックに触れネットワークに接続し、メッセージを受信した。今になってようやく、その内容を確認する気になっていた。
『件名: 私へ
本文: なし
添付ファイル:12MB 』
『添付ファイルを解凍しますか?』
ウタは少し躊躇いながらも、解凍を選択した。画面が切り替わると、次々とメッセージが表示される。
『親権限が付与されました。』
『HGI搭載人造人間及び、アンドロイド管理法改正、更新完了。』
『上記二件により、カテゴリーA及びBに属する全てのライブラリ参照権限が付与されました。』
『加えて、オミットされていた機能を有効化しました。』
ウタは思わず画面を凝視する。法律の改正日が記されていた。
『この法律は、公布の日から施行する。瑞凰12年( 西暦2083年) 2月5日改正。』
「件名が『私へ』。そして西暦2083年…私が飛ばされた年から5年後からのメッセージ…?」
ウタの声が、墓地の静けさに少しだけ響いた。隣にいたルネが、そっとウタの顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「もしかしたら…私は元の世界に戻れるのかも…」
ウタはその言葉を口にしたものの、心の中で不安が広がるのを感じていた。
元の世界に戻る可能性が示唆されたにもかかわらず、何もかもが不確かで、そして不安が支配していた。まるで暗雲の中に包まれているような、重く圧し掛かる感覚。彼女の中で、喜びが湧いてこない。
その時、ウタの隣でルネが、穏やかな声で話しかける。
「もし、帰れるならわたしも一緒にいくよ。」
その言葉が、ウタの心に優しく届くと、不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
ルネの存在が、まるで灯火のように心を温めてくれる。もしかしたら、もう彼女無しでは生きていけないかもしれない。そんな想いが胸に広がる。
「ありがとう…」
静かに呟き、ルネに微笑みかける。
彼女の顔を見つめるうちに、胸の奥で何かが熱く、激しく燃え始めるのを感じ、機械仕掛けの鼓動が早くなる。
それは不安や恐れとは異なり、むしろ濁流のように押し寄せる強烈な渇望、欲求に似た感情が、次第に心が支配されていくのが分かった──