地の巻
第二体育館の周りに、人だかりができていた。
此処は別名【武闘館】とも呼ばれ、主に剣道部・柔道部・空手道部が、試合や公開演武に使用していた。
時空も、練習試合で幾度となく利用した場所である。
入口から中を覗くと、独特の緊迫した空気が漂っていた。
道着姿の部員が見つめる中、二人の少女が素手で構え合っている。
中央に立つ審判が、鋭い視線を両者に向けていた。
「何かの試合でしょうか」
鈴が小声で呟く。
「空手の試合だな」
横に並び立つ時空も静かに返す。
天津女学院のスポーツレベルは高い。
中でも空手道部は時空の率いる剣道部と並び、常に優勝候補に挙がっていた。
特に、主将を務める
ただ、当の二人はプライベートでの付き合いは全く無く、お互いの噂を耳にする程度だった。
「動くぞ」
時空が囁くと同時に、幽巳が仕掛けた。
一瞬で間合いを詰められ、動きの止まった相手に正拳突きが決まる。
「いっぽんっ!」
審判の旗が上がる。
【寸止め】とはいえ、かなり鬼気迫った一打だった。
それが証拠に、離れて一礼する相手選手の膝の震えが見てとれる。
「すごい。全然見えなかった……」
鈴が目を丸くして、感嘆のため息を漏らした。
自陣に戻ろうとする幽巳の動きが一瞬止まる。
気付くと、こちらに視線を向けていた。
射るような眼光は、明らかに時空に注がれている。
鈴は、ハッとしたように時空の顔を見た。
そこにもまた、鋭く険しい視線があった。
両者の間に、細い糸が張られたような緊張感が漂う。
鈴の背筋に冷たいものが走った。
やがて幽巳は、挑戦的な笑みを浮かべながら背を向けた。
「出ようか」
緊張が解け息を吐き出す鈴の横で、時空もまたため息をついた。
*********
「強い方ですね。お知り合いなんですか?」
並んで歩きながら鈴が尋ねる。
「朱雀幽巳……空手道部の主将だ。何度か顔を見たことはあるが、話した事は無い」
「なんか、こっちを睨んでましたけど……」
恐る恐る切り出す鈴の言葉に、時空は無言で首を振った。
正直なところ、時空にも心当たりは無かった。
あの時の幽巳からは、尋常ではない殺気が放たれていた。
それは明らかに、時空に対してのものだ。
何故あいつは、俺にあれほどの敵意を持つのだろう?
試合をしたことも無ければ、稽古をしたことも無い。
会話すらした事が無いのだ。
なのに何故、あれほどの闘志を向けてくる?
時空の中で、疑念が形容し難い不安を伴い膨れ上がった。
*********
やはり、やるしかない……
道着を着替え終わった幽巳は、唇を噛み締めた。
ポケットから取り出した物体を掌に乗せる。
それは、黒色のリストバンドだった。
「姉さん……」
幽巳の口からため息が漏れる。
暫く眺めた後、意を決したように両手に装着した。
「神武……時空!」
時空の名を口にした途端、幽巳の体から闘気が迸った。
その源泉と
*********
「結局、収穫無しですね」
夕暮れの下校路を歩きながら鈴が呟いた。
見ると、残念そうに唇を噛み締めている。
「仕方ないさ。まだ初日だしな……悪いが明日も頼むよ」
申し訳無さそうな時空の声に、鈴は微笑みで応える。
他のメンバーとは途中で別れ、鈴を家まで送り届けている最中だった。
「私なら一人で帰れるから大丈夫ですよ。これでも神器の継承者ですし」
「だが、お前の神器は攻撃向きじゃないからな」
執拗に辞退する少女を説き伏せ、時空はボディガードを買って出たのだ。
鈴の
神器を所持する者とペアを組むならまだしも、単独では闘う
「そう言えば、神武天皇の件で一つお話ししておく事があります」
鈴は足を止めて、時空の顔を見た。
その目には、僅かに戸惑いの色があった。
「神武天皇……当時の
彦火火出見とは、まだ天皇となる前の神武天皇の呼び名である。
「理由?確か、騒乱の世を
記憶の糸を
神武天皇については、事前に鈴からレクチャーを受けている。
「『
「違うのかい?」
そう言って、時空は険しい顔の鈴を見返した。
「それが他の文献、特に『日本書紀』では、少しニュアンスが違ってるんです」
「ニュアンス?」
自然と、時空の眉間に皺がよる。
「そこには、こう記されています。彦火火出見が大和国を目指したのは、饒速日命が住むというその地に、《自らの都を造るため》だと。そこに至るまでの道中で国々を制圧してまわったのは、自らの傘下に置く事で《強大な勢力を得るため》だと……」
「何だ、そりゃ!?」
時空が驚きの声を上げる。
「それじゃ何か!?神武……彦火火出見は己れの欲のために
思わず口調を荒げる時空。
だがすぐに我に帰ると、興奮し過ぎた事を鈴に謝罪した。
「史実の内容だけ見ればそうなります。ただ、いずれが正解なのかは分かりません。あるいは混在してしまっているのか……どちらも間違っている可能性だってあります」
言い辛そうに説明する鈴の顔を、時空はただ眺めるしかなかった。
世の治安に尽力した偉大な人物──
神武天皇に対しそんな好印象を抱いていただけに、今の話はショックが大きかった。
もし日本書紀の方が正しい史実とするなら、神武天皇は私利私欲のために民衆を苦しめた事になる。
権力を欲せんと圧制し、無駄な血を流したのだ。
それは……
それでは、単なる独裁者じゃないか。
時空の中で、言い知れぬ嫌悪感が広がる。
一体、神武天皇とはどんな奴なんだ!?
さらに鈴は、自分が神武天皇と繋がりがあるかもしれないと仄めかした。
彼女自身、明確な確証があっての発言では無いと認めている。
それは彼女の、いわゆる特技であるところの【直感】であるらしい。
その繋がりとは……何だ?
猜疑心と焦燥感が、時空の胸中で怒涛のごとく吹き荒れた。
「でも、大丈夫だと思いますよ」
そんな時空の心を見透かしたように、鈴がポツリと付け加える。
苦悶に歪んだ表情で振り向く時空。
そこには、じっとこちらを見つめる澄んだ瞳があった。
「何があっても、時空さんは時空さんですから」
少女の見せる屈託の無い笑顔が、時空の心を僅かに解きほぐすのだった。
*********
鈴を送り届けた帰りに、そいつは現れた。
通い慣れた神社の境内で、ずっと待ち伏せていたようだ。
全身、黒い
首から上を覆った兜で、顔の識別は出来ない。
体から漂い出る殺気が、自ずと危険人物である事を示していた。
「誰だ!?」
反射的に身構えながら、時空が叫ぶ。
右手が、神鏡の入ったポケットにかかる。
「俺に何か用か……」
時空の言葉が終わらぬ間に相手が動いた。
あっと言う間に間合いを詰めると、胸元に
咄嗟に縮地法でかわすも、衣服の一部がカッターで切られたように裂けた。
凄まじい衝撃だ。
「その正拳突き……」
時空は神鏡を取り出すと、鋭い眼光で睨みつけた。
「お前……朱雀幽巳か!?」