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22話 本業





「当宿、白熊亭の最上階スイートでございます。」

案内役が扉を開けた瞬間、そこはまるで別世界だった。

厚みのある石造りの壁が歴史の重みを語り、ところどころに掛けられた精緻な刺繍のタペストリーがその冷たさを柔らげている。視線を上げれば、高く広がる天井とむき出しの木製の梁。梁には古い彫刻が施されており、そこに刻まれた時代の息遣いを感じさせた。
部屋全体は柔らかなオレンジ色の魔石光に包まれ、窓に埋め込まれたステンドグラスが静かな輝きでその美しさを際立たせている。


「……王宮みたい……」


ルネはゆっくりと一歩踏み出し、その場に立ち尽くしてしまった。

隣の寝室に目を向けると、部屋の中心には威風堂々とした天蓋付きのベッドが鎮座している。濃い紅色のカーテンが重々しく垂れ下がり、まるで主を守る結界のようにその空間を覆っていた。

さらに近づくと、金糸で描かれた繊細な刺繍が光を受けてきらめき、視線を奪う。ベッドのそばに置かれた小さなテーブルには、時代を感じさせるワイングラスと銀の燭台が並び、控えめながらも格調高い雰囲気を醸し出している。


「……貴族の寝室って、こういう感じなのかな?」


ルネのつぶやきは、まるで部屋の一部となったかのように静かに溶け込んでいった。


窓辺の長椅子に腰を下ろした瞬間、身体がふわりと沈み込んだ。想像以上の柔らかさに、思わず小さく息を吐く。窓の外には、アルデンフォードの街並みと、どこまでも続く森、そして遠くには雪を抱いた山脈が広がっていた。息を呑むほど、いや、言葉を失うほどの絶景。

そしてもう一つ、奥には露天風呂。微かに硫黄の香りが鼻をくすぐる。こんな高層階まで温泉を引き上げるのに、一体どれだけの魔石が使われているのだろうか。想像しただけで、軽く目眩がした。

部屋全体を見回していると、控えていた兎耳のベルガールが、控えめな微笑みを浮かべて話しかけてきた。ぴょこんと動く耳が可愛らしい。


「ご夕食はお部屋にお持ちすることもできます。少し肌寒くなってきましたが、テラスでのお食事も、また格別かと。」

「あら、素敵。そうしてもらえるかしら?」

「かしこまりました。何かご用がございましたら、ハンドベルをお使い下さいませ。」


深々と頭を下げ、ベルガールは静かに部屋を出て行った。その背中を見送ると同時に、ルネはドアに鍵をかけ……ウタを見た。その瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。


「さぁ、どうしてあげようかな?」


どうやら『試練』の時が来たようだ。あるいは……。







「正直、拍子抜けだったかも」


ウタは先程までの『試練』をそう評した。ルネが「罰として身体を調べ上げる」と豪語していたため、もっと酷い目に遭うことを覚悟していたのだが……実際は、背後から密着されておへそを軽く撫でられただけで終わったのだ。

夕食を済ませた後、今はひとりで露天風呂で旅の疲れを癒している。湯気が立ち上る中、ウタは湯船の縁に凭れかかり、目を閉じた。


「なんだかなあ……」


安堵と、ほんの少しの物足りなさが入り混じった複雑な感情が胸に広がる。


「……あの猫耳の子、可愛かった……」


ふと、ウタの脳裏にベルガールの姿が浮かんだ。小さく可愛らしい猫耳と、首につけられた首輪。ルネ曰く、首輪は彼女が『売り』をしている証だという。


「一体、いくらなんだろう。……いや、別に、話をするだけでも…」


ウタは『その手』の知識に関しては全くの素人だった。必要な時だけ閲覧を推奨される、いわゆるカテゴリーBの情報にすら、ほとんど目を通したことがない。この世界に来てからも、そのルールを律儀に守っていた。

入浴後、ワイシャツにバイクショーツというラフな格好に着替えて居間へ向かうと、そこにいたのは——別人だった。

真っ白な装束に身を包み、フードを深く被り、口元はフェイスベールで覆われている。まるで別人のように静かに佇むその姿に、ウタは思わず声を上げた。

「え、ルネ……?」

いつものように横にまとめているはずの髪も、今はフードの中に収まっているようだ。声を聞かなければ、そこにいるのがルネだと気づかなかっただろう。


「これから『ロウランの灯』っていう宿に行ってくるわ。近くにアイシャの潜伏先があるらしいの。」


ルネが右手に握っているアサント玉が、微かに光を帯びているのにウタは気づいた。ああ、仕事の時間なんだ、と。


「お仕事の時間なんだね。」
「そういうこと。朝までには戻るわ。」


ルネはテラスへと歩き出した。ウタも後を追う。


「……気を付けてね。」

「大丈夫よ。これでも『アルタイル』の名を背負ってるのよ。」


「アルタイル……? 何それ?」
「鷲の意味。……つまり、凄腕ってこと。」

ウタの問いに、ルネはフェイスベール越しに小さく笑った。そのため、声が少しこもって聞こえる。テラスの手すりに軽々と飛び乗るルネ。下までは十メートル以上はあるだろう高さだ。


「いってきます。」


手すりから飛び出し、三つ子月とルネのシルエットが重なった、その瞬間——ルネの姿は掻き消えた。後に残ったのは、一瞬の白い光だけ。それもすぐに闇に溶けていった。

眼下に広がるアルデンフォードの夜景を見下ろしながら、ウタはカプセルに入れられた時のことを思い出していた。


「……自分にできることを、しなきゃ……」









コンコン、と控えめなノックがドアを叩いた。


「はーい。」
「ご指名、ありがとうございます♪」



ウタが返事をし、ドアを開けると——そこに立っていたのは、猫耳と黒髪が印象的な、昼間のベルガールだった──




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