割の良い職に就こうと、寝る間を惜しみ、遊びも知らずただ励み、いつの頃からか没頭してしまった学業から、先日漸く解放された。そして、ふと思い立った世界旅行の道半ばで、私はこの怪しげな薬に魅了されていた。
文明から遠く離れた森の奥深く、洞窟に住まう老人が宣うには、此処とは違う世界に行く秘薬だという。
本来なら幻覚剤に過ぎないと取り合わず、早々に話を切り上げる場面だが、しかし私の眼前で、老人が洞窟への入り口を顕現させてしまったのでは、魔法の実在に胸が高鳴るのも已むを得ないことであった。
「どうだ? ついでに酒か金でもつくってみせようか?」
……或いは、疾うに幻覚剤に侵されているのかも知れない。薬の代償にどの程度を要求されるか思案しつつ、早鐘を打つ心臓を決して気取られぬよう、努めて冷静に言った。
「ひ、秘薬が欲しい」
……間違えた。交渉する積もりだったのに、気が急いて初っ端で言ってしまった。
やはり、人との関わりを持たなかった私は、人生経験がさっぱり足りないのだろう。おまけに十分な、いや過剰なまでの教育を受けたにも関わらず、非科学的な薬を買おうとしている。まあ、疲弊した私にまともな交渉を期待したところで、端から無理な相談だったか。
「ああ、いいだろう」
老人は、あっさりと承諾した。売るために魔法を披露したのだから、当然である。しかし、単なる麻薬だと思っていたものが、いくつかの宗教観では奇蹟とさえ扱われる魔法に関係する薬だったと判れば、足元を見られるのでは無いかと身構えもする。
結果的に二つ返事で手に入る事になったが、当然、薬の対価として金銭は意味を為さず、老人は他のものを求めた。私が了承すると、老人の杖が私の頭に触れる。そして何やら呪いを唱えると、間もなく私の意識は消失した。
――目が醒めると、そこは未だ異世界ではなかった。酷い頭痛に顔を顰めながら辺りを見回すが、既に老人の姿は無かった。大凡、あの洞窟へ帰ったに違いない。私の知識や記憶を見たいと言っていたが、用は済んだのだろうか。
立ち上がろうと徐に手を付くと、右手が何かを握っている事に気付く。指を開くと、そこには木の葉に包まれた例の薬が載っていた。
異世界に行けるなど、有り得る筈がないと解っている。理論もよく解らないし、先ず以て物理的に不可能だ。しかし不可能と言えば、先ほどの白昼夢のような洞窟顕現は、それでも確かに現実の出来事であった。
陽が落ちてきたのか、辺りの薄暗さが次第に増していく。鳥々は鳴りを潜め、鳥目から逃れた虫たちが遠慮なく喚き出す。
手元が見える内に、寝床の確保をしようと準備に取り掛かった。手頃な樹にハンモックを結わえ付け、ライターを火種に焚き火を|熾す。濾過した水を使い、ビタミン剤を入れた高カロリーのスープを沸かす。
老人は、一度異世界に行けば、帰る事は出来ないと言っていた。あれは、致死性のある薬だと示唆していたのかもしれない。しかし自滅させる算段ならば、忠告など不要だろう。キャンプを準備する際に荷物を改めたが、盗まれたものは何も無かった。
いつの間にか空になったスープカップを水で濯ぐ。濡れたカップを火で乾かし、気休めに消毒用アルコールを吹き付ける頃には、陽が完全に落ちていた。生い茂る樹冠を仰ぎ見れば、星の明かりが僅かに覗いている。
それでは、金銭目的では無く、ただの法螺話だったのか。しかし脳裏に過るのは、やはり洞窟の顕現だ。それに老人は金を生み出せるとも言っていた。どうせなら少し貰えば良かったか……いや、さっきは代償が恐ろしくて、とてもでは無いが言い出せなかった。
暗闇に燃える炎を眺め、うだうだと言い訳を探し続ける。尤も、あの洞窟顕現を目撃した時点で結論は出ていた。
これまでの人生は、全て学業に費やした。思いの外嵌まってしまったが、これは何処に行こうと何をしようが自身の頭があれば事足りる。今まで注ぎ込んできたものは、総て頭の中に詰まっている。
世界旅行など突飛な思い付きだと自身でも半ば呆れたものだが、今になって思えば、平坦で順調な人生に飽き飽きし、刺激的な冒険を求めてここまで来たのだ。
この旅行を終えれば、人生の終わりまで先の見え透いた未来が待っている。それならばいっそ、ここで死ぬとしても薬を飲むべきではないか。
何せ異世界である。
想像も出来ない動植物や、あの老人の魔法のようなもので満ち溢れているに違いない。そう思うと、もうこれ以上悩むことなど何もないように感じた。
枝に吊していた包みを手に取り、左右に葉を開いて中の薬を観察する。……先ほどから気付いてはいたが、暗闇で淡く発光している。目覚めた時は、確かに青磁色の錠剤に見えたが、今は光の塊としか言い表せない。
もし私が信心深ければ、神聖な雰囲気と表現したのだろうが、しかし信仰に直接触れる機会の無かった私に言わせると、森の夜闇に広がる純白の光は、不自然な異物に思える。
……それでも尚、意を決し指で触れると、なんと指がすり抜ける。
何だ、そういうオチかと僅かに安堵しつつ、まあ念のためと、乱暴に葉ごと口元に持ってきて、自棄酒でも呷るように一息で体内に飲み込んだ。
――――そして私は、まだ見ぬ異世界に降り立つ。
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