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00. 序

 割の良い職に就こうと、寝る間を惜しみ、遊びも知らずただ励み、いつの頃からか没頭してしまった学業から、先日(ようや)く解放された。そして、ふと思い立った世界旅行の道半ばで、私は()()怪しげな薬に魅了されていた。

 文明から遠く離れた森の奥深く、洞窟に住まう老人が(のたま)うには、此処(ここ)とは違う世界に行く()()だという。

 本来なら幻覚剤に過ぎないと取り合わず、早々に話を切り上げる場面だが、しかし私の眼前で、老人が洞窟への入り口を顕現(けんげん)させてしまったのでは、魔法の実在に胸が高鳴るのも()むを得ないことであった。

「どうだ? ついでに酒か金でもつくってみせようか?」

 ……(ある)いは、()うに幻覚剤に(おか)されているのかも知れない。薬の代償にどの程度を要求されるか思案しつつ、早鐘を打つ心臓を決して気取られぬよう、努めて冷静に言った。

「ひ、秘薬が欲しい」

 ……間違えた。交渉する積もりだったのに、気が()いて(しょ)(ぱな)で言ってしまった。

 やはり、人との関わりを持たなかった私は、人生経験がさっぱり足りないのだろう。おまけに十分な、いや過剰なまでの教育を受けたにも関わらず、非科学的な薬を買おうとしている。まあ、疲弊した私にまともな交渉を期待したところで、(はな)から無理な相談だったか。

「ああ、いいだろう」

 老人は、あっさりと承諾した。売るために魔法を披露したのだから、当然である。しかし、単なる麻薬だと思っていたものが、いくつかの宗教観では奇蹟(きせき)とさえ扱われる魔法に関係する薬だったと判れば、足元を見られるのでは無いかと身構えもする。

 結果的に二つ返事で手に入る事になったが、当然、薬の対価として金銭は意味を為さず、老人は他のものを求めた。私が了承すると、老人の杖が私の頭に触れる。そして何やら(まじな)いを(とな)えると、間もなく私の意識は消失した。

 ――目が()めると、そこは未だ異世界ではなかった。酷い頭痛に顔を(しか)めながら辺りを見回すが、既に老人の姿は無かった。大凡(おおよそ)、あの洞窟へ帰ったに違いない。私の知識や記憶を見たいと言っていたが、用は済んだのだろうか。

 立ち上がろうと(おもむろ)に手を付くと、右手が何かを握っている事に気付く。指を開くと、そこには木の葉に包まれた例の薬が載っていた。

 異世界に行けるなど、有り得る(はず)がないと解っている。理論もよく解らないし、()(もっ)て物理的に不可能だ。しかし不可能と言えば、先ほどの白昼夢のような洞窟顕現は、それでも確かに現実の出来事であった。

 陽が落ちてきたのか、辺りの薄暗さが次第に増していく。鳥々は鳴りを潜め、鳥目から逃れた虫たちが遠慮なく(わめ)き出す。

 手元が見える内に、寝床の確保をしようと準備に取り掛かった。手頃な樹にハンモックを結わえ付け、ライターを火種に焚き火を|熾(おこ)す。濾過(ろか)した水を使い、ビタミン剤を入れた高カロリーのスープを沸かす。

 老人は、一度異世界に行けば、帰る事は出来ないと言っていた。あれは、致死性のある薬だと示唆(しさ)していたのかもしれない。しかし自滅させる算段ならば、忠告など不要だろう。キャンプを準備する際に荷物を改めたが、盗まれたものは何も無かった。

 いつの間にか空になったスープカップを水で(すす)ぐ。濡れたカップを火で乾かし、気休めに消毒用アルコールを吹き付ける頃には、陽が完全に落ちていた。()(しげ)樹冠(じゅかん)(あお)ぎ見れば、星の明かりが(わず)かに(のぞ)いている。

 それでは、金銭目的では無く、ただの法螺(ほら)話だったのか。しかし脳裏に(よぎ)るのは、やはり洞窟の顕現だ。それに老人は金を生み出せるとも言っていた。どうせなら少し貰えば良かったか……いや、さっきは代償が恐ろしくて、とてもでは無いが言い出せなかった。

 暗闇に燃える炎を眺め、うだうだと言い訳を探し続ける。(もっと)も、あの洞窟顕現を目撃した時点で結論は出ていた。

 これまでの人生は、全て学業に(つい)やした。思いの(ほか)()まってしまったが、これは何処に行こうと何をしようが自身の頭があれば事足りる。今まで()ぎ込んできたものは、(すべ)て頭の中に詰まっている。

 世界旅行など突飛(とっぴ)な思い付きだと自身でも半ば(あき)れたものだが、今になって思えば、平坦で順調な人生に飽き飽きし、刺激的な冒険を求めてここまで来たのだ。

 この旅行を終えれば、人生の終わりまで先の見え()いた未来が待っている。それならばいっそ、ここで死ぬとしても薬を飲むべきではないか。

 何せ異世界である。
 想像も出来ない動植物や、あの老人の魔法のようなもので満ち(あふ)れているに違いない。そう思うと、もうこれ以上悩むことなど何もないように感じた。

 枝に(つる)していた包みを手に取り、左右に葉を開いて中の薬を観察する。……先ほどから気付いてはいたが、暗闇で(あわ)く発光している。目覚めた時は、確かに青磁(せいじ)色の錠剤に見えたが、今は光の(かたまり)としか言い表せない。

 もし私が信心深ければ、神聖な雰囲気と表現したのだろうが、しかし信仰に直接触れる機会の無かった私に言わせると、森の夜闇に広がる純白の光は、不自然な()()に思える。

……それでも尚、意を決し指で触れると、なんと指がすり抜ける。

 何だ、そういうオチかと僅かに安堵(あんど)しつつ、まあ念のためと、乱暴に葉ごと口元に持ってきて、自棄(やけ)酒でも(あお)るように一息(ひといき)で体内に飲み込んだ。

――――そして私は、まだ見ぬ異世界に降り立つ。

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