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第百三十話 火の守り(6)

「できた……」
 ルルクはランプの中で頼りなくゆれる炎をじっと見つめた。これを成功させるためにルルクにしては驚くほど頭をつかった。一人でこんなところまでやりとげたとは信じられない。
 ヒントはスープにあった。
 スプーンにのるスープの量は決まっている。その中でも必要なものを必要なだけスプーンにのせなければ満足のゆく形にならず、無様にこぼれ落ちてしまう。
 おそらくルルクが精霊を扱う能力も同じなのだ。先日は多すぎる水の精を集めてしまったから傷を負った。スプーンからぼたぼたと具材が落ちてしまうのと同じだ。しかもたぶん水の精以外のものも集まっていたに違いない。そういった正体不明のこぼれ落ちたものがルルクの手を切り裂いていったのだ。
 必要なものを必要なだけ。
 ルルクはそれを念じるように何度も唱えながらこっそりと練習した。集めた精霊を放つことなく拡散してゆくのを待てば傷を負うことはない。じっと必要な精霊たちだけを集め、それを静かに拡散させる。繰り返してゆくうちに言葉にはできない道理のようなものを感じられるようになってきた。
 何がどれほど集まっているのかなんとなくわかる。
 野菜なのかハムなのか、それとも汁なのか。今までルルクは何が集まってきているのか知りもしなかったことに気づいた。スプーンに何がのっているのか見もしないで口に入れていたのと同じだ。
 そしてそれを理解したために当初考えていた焚き火を起こしてその火をランプにうつすという面倒な手順をふむ必要もなくなった。直接ランプに火を入れることに成功したのだ。だがまだまだ技術は十分ではなく完治間近の傷から静かに血がしたたっている。自分で思っていたよりも多くの精霊が集まっていたようだ。興奮しているのか痛みはあまり感じない。引き続き手袋で傷を隠す生活が続きそうだ。
 ルルクは布で血をよく拭ってから傷が開かないように別の布でしばり上から手袋をはめた。それから火の守の席に着く。ぼうっとランプの火を見ていると、まだ朝も早いというのに外が騒がしくなってきた。何人かが走り回っているような気配がある。ひそひそと小さな声も聞こえた。
 ルルクは席を立って辺りを見渡す。見られて困るようなものは残っていないが、床が血で汚れていた。持ちこんだかばんから新しい布を取り出し、床の血を丁寧に拭う。他におかしなところはないか、もう一度辺りを見渡し、くるりとその場で回って服や靴もきちんと見る。手袋に血はついていないか両手もよく確認した。見落としはあるに違いないが、今自分で気づける範囲には何もない。そもそもルルクがランプに火をつけることができたなど誰が信じるだろうか。焚き火の痕跡もないのだから分かりようがない、気がする。
 それでも何かが不安だった。いつだってルルクが考えている以上に周りの人々は素早くて頭がいい。
 ここ数日ずっと考えて続けて、精霊を集める練習もして、ルルクは疲れてしまった。もう考えるのをやめてもいいだろう。
 席に戻って頭を空っぽにする。この空洞が心地よい。
「ルルク!」
 大きな音を立てて火の堂の扉が開いた。ルルクは空洞になっていたので反応が遅れる。
「ルルク、寝てるの?」
 ゆっくりと振り返るとリッケルが寝巻きのままで立っている。朝起きてそのまま飛び出してきたようだ。
「起きてるよ」
「大変だよ。今日レジスの偉い人たちが来るんだって」
 それは前から知っていたことではないだろうか。今日来るとは知らなかったが、長老たちから正式に近々レジスの人たちが村の様子を見に来るという話は聞いていた。ルルクはあまり興味がなかったが、少し気を引かれたのはレジスのお姫様が来るという点だった。こんな大きな国のお姫様というのはどういう人なのだろうか。きっときれいなものに囲まれて、おいしものを食べて育ち、ここへも素敵なドレスを着て来るのだろう。しかしこの村ではたいしたもてなしはできないから、すぐにお城に帰ってしまうに違いない。
 ルルクは真っ赤に塗られた小さな唇や桃色に染められた形のよい爪を思った。高価なレースを何枚も重ねたドレスの裾や、細く締め上げられた人形のような腰、歩くことを必要としない華奢な足ではきっとこの村を一周することもできないはずだ。髪や目はどんな色をしているのだろうか。
「ルルク、ねえ、ルルクってば、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
 聞いてなかった。
「じゃ、なんで驚かないの? 御子様もいらっしゃるんだよ。これは大事件だよ」
 なぜ驚くことを強要されなければならないのだろう。
「お姫様は?」
 ルルクは興味のあることの方に注意がいってしまうので、リッケルの方がきょとんとした。
「お姫様じゃないよ。アルサフィア王の御子様だよ」
 リッケルはじれったそうにその場で足踏みをする。
「アルサフィア王……」
 ルルクは反射的に壇上に置かれたランプに目を向ける。
「その人は……」
 ルルクは一気に不安になっていった。アルサフィア王の御子、つまり王の身内だ。この火が偽物だと気づくかもしれない。
「どうか……したの?」
 突然黙りこくったルルクの顔をリッケルは眉根を寄せて見あげていたが、すぐに気を取り直したように騒ぎ出す。
「ルルクは会ったことないの? 俺のときはもう全然会える情勢じゃなかったけど、ルルクくらいの歳の人は七歳になった年にお祝いの言葉をもらったりしたんでしょう」
 そんなことがあっただろうか。いや、ルルクはアルサフィア王の身内には会っていない。会う機会があったのかどうかも記憶にない。もしかしたらその人に会いたいかどうか母がルルクに聞いたのかもしれないが、おそらく興味がなかったのだろう。今もあまり興味がない。どちらかというとレジスのお姫様が見たい。
「知らない」
 感情のこもらない平坦な声にリッケルは一瞬鼻白む。別段機嫌を損ねたわけではないが、せっかくつけたランプの火が偽物だとわかってしまうかもしれない可能性のことをゆっくり考えたかった。今は御子の話はどうでもいい。
 リッケルはすぐにその顔に元気を復活させて、室内なのにもかかわらず走り出す。
「もうすぐ到着するみたいだから、俺、着替えてくるよ」
 急に静かになった火の堂でルルクは問題点を考えはじめる。そういえばリッケルに精霊でつけた火は誰がつけたのかわかる人はいるのか聞いてみればよかった。いつものことだが思いつくのが遅い。
 ルルクはじっとランプを見つめる。ルルクにはアルサフィア王の火もマッチの火も今の火も全部同じに見える。同じに見えるのだから手の打ちようがない。
 外がまた騒がしくなってきた。
 誰かが来客の準備をしているのかもしれないが、ルルクはお姫様を見たら帰って寝るつもりだ。この火が偽物だと気づかれたら、もうこれ以上どうすることもできない。間もなくやってくるアルサフィア王の御子とやらがこの火を見るまでという時間内ではルルクの考えるスピードはとても追いつかないだろう。気づかれたら「不注意で消えました」と言うしかない。もうこの村にいられなくなるかもしれないが、そうなったらそのときにまた考えればいい。
 そうと決まればもう考えることはなくなった。次の火の守の当番が交代に来るまで頭を空っぽにしていよう。本当にここ数日頭を使い過ぎたのだ。
「今日の火の守はルルクか」
 ぼんやりしていたらいつの間にか堂の中に長老の一人がいた。火の守の当番はもうすぐ終わりだが、ルルクの当番は昨日というべきなのか今日というべきなのか。今日も交代が来るまでは当番だ。それをどう説明したらいいのだろう。
 長老はルルクの考えがまとまるまで待ってはくれない。
「御子様にアルサフィア王の火をご覧になってもらう。ルルク、ランプをこちらへ」
 老人はみな同じ顔に見えるが、頰に大きなシミがあるこの老人はラスグーダという人だったと記憶している。話をする機会も多くはないため、よくは知らないがおだやかな印象の老人だ。
 そのラスグーダがやや緊張した面持ちで掲げ持っているのは、ツタが絡まったようなうつくしい細工がされた鳥かごみたいなものである。鳥かごと違うのは、隙間なく玻璃がはめられている点と、木材が意外と厚く、重厚なつくりになっているところだ。これなら風が入って消えてしまうことは無いだろう。
 ルルクは言われるままにその鳥かごのようなものの扉を開きランプを入れた。ちらりとラスクーダを見るが、何かに気づいた様子はない。ルルクと同じくこの人にも火の違いはわからないようだ。
「少し重いかもしれないが、これを持って外へ。一緒に御子様にごあいさつに行くからね」
 老人はそれがルルクにとって誇らしいことだということをみじんも疑わない笑顔でランプの入った入れ物をさし出す。玻璃にうつりこんで複雑な光をはなつ炎がとてもきれいだ。ルルクはそれをぼんやりと見つめたまま、またお姫様のことを考えはじめた。

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