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第八十五話 暁闇

「シェイラリオ様、いかがされました」
 薄闇の中で気づかわし気なダフィットと目が合う。
「すみません、寝過ごしましたか」
 あわてて身を起こすが、辺りは静かである。
「いえ、まだ時間ではありませんが、だいぶうなされていらっしゃいましたので」
 ダフィットは慣れた手つきでシェイルの額の汗をぬぐってくれる。
「ええ、もう大丈夫です」
 呼吸を整えるように大きく息を吐く。ダフィットのいう通りうなされていたようで眠ったはずなのに体が重い。しかもだいぶ汗をかいていた。
「夢を――見ていたかもしれません」
 夢の内容は思い出せないが、予想はつく。レジスに逃れつく前から何度も同じ場面を繰り返し思い出しているのだから夢にでも出よう。
 最後に見たガルフィリオ様の後ろ姿――。
 昨日から胸の底に重しのようなものが居座っている感覚から抜け出せない。気を抜くと今さらどうしようもないことをつい考えてしまう。
「何か飲まれますか」
 ダフィットにはすべて気づかれている。気を遣わせてしまって申し訳ない。申し訳ないついでにブランデーが欲しいと言いたいところだが、これは叱られるだろう。
「いえ、兵たちを起こしてはいけませんから」
 もう一度寝られるような気がしないのでシェイルはそのまま起きあがった。いつまでも過去のことにとらわれている余裕はない。まだ戦場である。ガルフィリオ様の件は昨夜エリッツに助けてもらったのであれで仕舞である。
「兵たちのことは気にしなくとも大丈夫でしょう。まもなく斥候を出す時間ですから」
 術兵というのはとにかく集中力や気力がものをいう。十分な休息をとらなければ十全の能力を発揮できない。シェイルは空を見渡した。位置的に太陽は見えないが空全体がうっすらと明るんできている。
 しかしこの戦、なかなか分が悪い。はじめはまさか戦場に出向くまでの大事になるとは思わなかった。いや、そもそも出向く必要があったのか。主であるラヴォート殿下が陛下から軍を預かったのだから無視するわけにはいかないのか。だが当初の予定と大幅に変わり陛下の軍を指揮するわけではないうえにラヴォート殿下とは別行動である。しかもどさくさに紛れて術士たちの軍だ。何だかまたうまく利用されているような気がしてくる。
 アイザック・デルゴヴァがコルトニエスごと帝国に寝返るという件に関してどれほど下準備をしていたのかわからない。抜け目ない人物である。すでにかの土地は制圧されている可能性すらある。何しろ斥候の戻りを待つしかない。
 シェイルが考えごとをしているうちにダフィットは斥候に指名された三人の兵に声をかけ、湯を沸かしていた。エリッツの隣から抜け起きて来たアルヴィンもきちんとそこにいる。年齢のわりにしっかりとした少年だ。
 しかも術士としての能力が高い。ロイの出身者に力が強い人間は多くいるが、軍の訓練を受けてもいないのに力をきちんとコントロールできている者はまれである。それは町内会の様子をみれば明らかだ。ロイの人間のようにもとから大きな力がそなわっている者にとってそれを力まかせに発動させることは実はさほど難しいことではない。逆に力をしぼって小さな的に当てる方が難しい。焚きつけにそっと火をうつすような。
 先ほどわざわざアルヴィンを呼んで火を入れさせたのもそれが気になったからだ。術士としての能力がそなわっていないことに引け目を感じているダフィットをフォローする意味もあったが、行動をともにするのではればアルヴィンがどれほど力をコントロールできているのか確かめておきたかった。
 結果は見事なものだった。ただエリッツがもう一度見せて欲しいとせがんだのを露骨に嫌がっていたのはやはり神経をつかうからだろう。もしも従軍するつもりであればまだまだ訓練は必要だ。
「あれは起こさなくてもいいんでしょうか」
 ダフィットはカップに紅茶をそそぎながらシェイルを見る。あれというのはエリッツのことだろう。ゼインといいダフィットといい、甘ったれた印象があるためかエリッツのことをあまりよく思っていないようだ。見ればアルヴィンが抜けた空洞の隣で起きる様子もなく寝息を立てている。両手をきれいにそろえて妙に姿勢いいのが何だかおもしろい。思わず笑いそうになる。
 しかし昨日は期待以上の働きぶりを見せた。
 本当にブレイデン・グーデンバルドはエリッツを家にとじこめてどうするつもりだったのだろうか。一般教養や筆記だけではなく軍人としてもきちんと教育されていたことは昨日の様子を見れば明らかである。ときおり口をあけてぼんやりしているところは考え物だが、見方を変えれば肝が据わっているといえなくもない。初めての戦場にしてはかなり落ち着いていた。
 今さらグーデンバルド家が返してくれといってきたら本人次第とはいえ正直なところ断りたい。
 確かにまだいろいろと覚えてもらう必要があり、それには時間がかかるのだろうが、書記官見習いとしても軍人見習いとしても申し分ないうえ、ボードゲームの相手にもなってくれる。何より素直なところが好ましい。若干いやらしい目でこちらを見てくるのが問題といえば問題だが、一から信用できそうな人間をさがすことを考えればささいなことだ。
 公には帝国の捕虜としてこの国にいる立場だ。実際に帝国軍の奴隷、後には術兵として従軍していたのでこれは訂正しようにも難しい。それでも何度か仕事を手伝ってくれる者をつけてもらったことがあるが、長く続かなかった。敵国から来たいわくつきの人間に深くかかわりたくないというのは至極まっとうな感情だ。
「エリッツはぎりぎりまで寝かせておいてあげてください」
 いいながら湯気の立つ紅茶で満たされたカップを受けとる。ダフィットは軽く顔をしかめた。反応がゼインと同じだ。シェイルがエリッツを甘やかしていると思って気に入らないのかもしれない。だが特に用事もないのにわざわざ起こす必要もないだろう。
「アルヴィン、大丈夫ですか」
 アルヴィンはエリッツと話をしているときは子供らしい表情を見せるが、大人の一員として兵たちに混じっていると気の毒なくらいに大人びた表情をつくる。よく気のつく聡い少年だが、そんな様子は長い間大人の顔色をうかがいながら暮らしてきたことを想像させた。
「大丈夫です。きちんと役目を果たします」
 火を見つめたままでやはり表情はかたい。緊張しているようだ。同行する他の二人の術兵はリデロがかなりのベテランだといっていたので問題なさそうだが、アルヴィンには荷が勝つ役目だったか。
「アルヴィン」
 シェイルはアルヴィンの注意をひくとその頬をぐいっと引っ張った。白蒸しパンのようにやわらかい。
「力が入りすぎています。もし危なくなったらここに戻る必要はありません。そのまま下山して南に逃げなさい。生き残ることが一番です。全部終わったら袖に刺繍を入れないといけませんね」
 なぜかアルヴィンは老人たちが着ているようなロイの伝統的な衣服を着ている。その長い袖には本来刺繍をほどこすのが習わしだが、アルヴィンの袖はかつての小さな子供たちが着るような無地の状態である。シェイルが身に着けている北の王の衣装にも銀糸と金糸を使用した王家伝統の刺繍が入っていた。本来刺繍は家に伝わるものであるが、アルヴィンは両親を亡くしている。
「好きな柄を入れてあげましょう。アルヴィンなら草原のモチーフに鷲か、風のモチーフに鼬もいいですね。花は好きですか。あ、それともご両親の刺繍を覚えていれば可能な限り再現してみましょう」
 アルヴィンの緊張をほぐしたかっただけだが、慣れないことをするものではない。アルヴィンは泣き出す直前のように大きく顔をゆがめた。シェイルはあわててその白くやわらかな頰から手をはなす。
「――出過ぎたことをいってすみません」
 エリッツを起こして話し相手になってもらえばよかった。
「いえ、気にしないでください。うれしかっただけなんです。あまりやさしい言葉をかけてくれる大人はいないので。ただ、案外――迂闊ですよね」
 シェイルはアルヴィンのいうことの意味をとりかねて黙る。
「役目はきちんと果たしてここに戻ってきます」

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